地獄のカエル
一階の店舗にはカウンターがあり、その奥に薄壁に区切られた居住空間がある。
魔術店らしく雑然と置かれた魔法器具に溢れたスペースであり、その中心には左右に高い本の山を積み上げた机があった。
僕と師匠はその机に向かい合わせに座った。
師匠は本の山の間から一冊の分厚い本を手渡すと、椅子に寄りかかって言う。
「読むがいい。弟子の修行はそこからだ」
一応受け取り、中身を開く。中には細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「あの、僕、文字読めないんですけど」
そう言って顔を上げて驚いた。師匠は既に机に伏して寝ていた。
寝るの早すぎないか!?
「師匠師匠!変人!師匠!」
ガクガクと揺り起し、「むあ?」と奇妙な声を上げて師匠は目を覚ました。
流石夢魔術師。そんな所で感心したくないけど。
「僕、文字読めないんです!本だけ渡されても読めません」
「おお、そうかそうか。いや、結構!教えがいがあるというもの。
ちょっとまってろ、5秒ぐらい」
とかいいつつ、部屋の一角の見るからに整理されてない場所に手を突っ込みあれでもない、これでもないと漁る。
結局目的の物が見つかったのは一時間以上経ってからだった。
なぜ5秒とか具体的に自信満々に言ったのだろう。
「これを使え」
渡されたのはカエルの金属の置物のようだった。
デフォルメされた愛らしい見た目で、両手に白いボードを持っている。
「これは幼児用の教育道具でな?ボードに文字を写せば読み上げてくれる。
子育て中の同級生、ファニーちゃんからプレゼントされたのだ。
このまえ同窓会報持っていったときに、『ちょうどいいわ、廃棄代かかるし貴方にあげる。私たち友達でしょ?プレゼントよ。いらなければそのまま捨てていいから』って貰えたのだ」
「師匠それ都合よく押しつけられてるだけだから」
師匠の友人関係が心配になってきたが、確かに今必要になっている事実もある。
ありがたく使わせてもらおう。
僕は読めない字を単語で適当にボードに書き写す。
そして、カエルは地獄の底のような錆び付いた超重低音でこう言った。
「みずぅみぃ・・・」
余りのおどろおどろしい声に思わず体が止まる。
これ、幼児泣くわ。
なるほど捨てようとしていたはずだ。
一応『みずうみ』と言ったのだろう。しかしあの声色で適切に表現された湖が実在しているならば、確実に毒の沼か底なし沼の類であろう。
師匠は既に再びすぴーすぴーと鼻息をたてて寝ていた。あの声を聞いても寝れるところに無駄にプロ根性を垣間見る。
僕は諦めて、その地獄のカエルとつきあう覚悟を決めた。
暫く黙々と本を読み進めていく。内容自体は簡単で分かりやすかった。
耳障りなカエルの声に耐え、一枚一枚ゆっくり確実に読破していった。
熱中して読みといていたのだが、気づけば時間は正午を既に過ぎてしまった。
僕が勉強を始めたときから全く変わらない師匠の姿勢に呆れながら感心しつつ、どうやら食事に起きることもなさそうだと判断する。
「勝手に食べても、良いかな・・・?」
一応起こして聞こうとしたのだが、熟睡している師匠は激しく揺さぶっても全く起きなかった。
それどころか「気持ちいいぞぉ・・・」などと楽しい寝言をつぶやいていた。
深く考えたら負けだ。
床下の食料庫を開いてみたら、ほぼ手つかずのチーズやらハムやらが入っていた。
皿の在処も整理されていない混沌のどこかなのだろう。探すのも面倒だ。
あるもので適当に食べようと、切り分けてそのまま口に入れる。
なんだか、これだけ見られたら泥棒が盗み食いしているようだな。
この居住空間と店舗側を区切る薄い壁には店先を見通せるように、扉が腰の高さまでしかなかった。
プライベートが丸見えだが、肝心のそれを気にするべきお客さんが入ったのをまだ見ていない。
客数は相当少ないようなので放っておいても大丈夫だろう。それに、開いたままの店を閉める作業が分からなかった。
もうちょっと食べさせてもらおうと首を下げた瞬間、首筋を勢いよく何かが掠った。
「・・・チッ、避けたか」
舌打ちに思わず声がした店側のドアを見ると、茶髪の男が、緑の目を鋭くこちらに向けていた。
大きな布袋を肩にかけ、遠出から戻ったかのようなしっかりとした装いである。
そして敵意しかない目で、それだけで呼吸が止まりそうな殺意を向けてきていた。
ひりついた首筋に手をあてると、血がついていた。
「え、はっ!?」
どうやらナイフを僕に向けて投げつけたらしかった。
突然なぜ、と思ったが、状況を思いだしなるほど泥棒と間違われたのだと理解する。
「あああああのっ」
「どこから入った?魔術師の店に入り込むとは、良い度胸だな」
「やややや、違います違います泥棒じゃないです!」
男は一応聞く気になったのか、無表情で首を傾げ先を促す。
ただし、男の満足のいく答えでなければ先ほどのナイフが間違いなく眉間に突き刺さるのを理解させる雰囲気を出して。
こんな恐ろしい人物を先に伝えてくれていない師匠を恨みつつ、必死に弁解した。
「先日、ていうか昨日!この人の弟子になりました!」
といって指で師匠を示す。男は片眉を上げて師匠を見た。
「お願いだから、納得してくださぃぃい!!」
男はカウンターを軽々と飛び越え、障害にもならない腰までの扉を開き、僕に近づく。
その身軽な動きは大型の猫科動物を思わせた。確かめるまでもなく鍛えられている。
肩に負っていた荷物を下ろすと、顎に手を添えて見透かすように目を細めた。
「・・・その色。自前か?」
「そうです。僕アルビノですっ」
心臓が大音量で鼓動をならす。青ざめた僕を見て、男は一つ頷いた。
「そういえば言っていたな。店番が欲しいとか何とか」
弟子が欲しい訳じゃなかったんですねやっぱり。
悲しい事実を知り、胸が少し痛んだ。この二日で大分慣れた痛みだったが。
「では俺は先輩だな。ジュードという。この店の店員だ」
「あ、よ、よろしくお願いします。僕はアランです」
どうやら誤解は無くなったようだ。刺々しい雰囲気を和らげ、相変わらず無表情ではあったがジュードさんは僕に握手の手を伸ばしてくれた。
その手を握り返し、頭を下げる。
「アラン。早速聞くが、お前がこの店に来てからフランキーは何回食事をとった?」
「食事ですか?食べてるところ見てませんけど」
僕の回答にジュードさんは眉間に皺をよせる。
僕があけていた食料庫をのぞき込んで、内容を確認した。
「ほぼ減ってないな・・・このバカが」
そう吐き捨てるように言うと、顔を上げて俺を見た。
「アラン。この店の新たな店員として心得を言っておく。
お前の仕事は第一に介護、第二に介護、第三に店番で第四に調剤だ。
・・・わかったか?」
「一応僕、店員じゃなくて弟子って名目ですが」
「どっちでもいい。とにかく理解しろ」
僕のなけなしの抵抗は一蹴された。まあ弟子という名の下僕なのは最初から分かっていた事だけども。
「ついてこい」
そういって、僕の手を引くと寝続けている師匠の隣に立つ。
そして、その厚着している師匠の腕をとって服をまくりあげた。
「は・・・ッ」
思わず絶句する。
師匠の腕は細腕と言える範囲を越えて、やせ細っていた。
本人の言葉を使うならば皮と骨と諦めきれない希望である。
「こいつはな、延々寝続ける。食事もとらず。
フランキーが何故こんな全身馬鹿げた格好してるか分かるか?
今時魔術師でもこんな変な格好していないからな?
この見た目を誰にもいちいち言われず、ただひたすら寝たいが為なんだと。
・・・という訳で、だ」
そこで言葉を切って、ジュードは師匠の頬を一発叩いた。
「起きろ!俺が留守にしている間、飯食わなかったな!?」
「ふえぇええ、ジュードお帰り!
店番しっかりしていたとも!私が起きている間誰も来なかったが!」
文字通り叩き起こされた師匠は弁解するように早口で言った。
聞かれていることとは違ったが。そしてぐっすり眠って店番していなかった事実も知っている。
「食えと言っただろう?何度言わせる。子供かお前は!」
「ああ食ったとも。ステーキに焼き肉、ケバブとか」
「肉料理だけか。胸焼けしそうだな?どこで食ったか言ってみろ」
「ジュードと一緒にステーキ店行ったろ?
そんで宮廷晩餐会で炭火焼き肉して、ターザンと一緒に狩った水牛を・・・」
「全部夢だ。気づけ。というか、気づいてるよな?」
師匠は全力で視線をそらし、ぴゅーと口笛を吹いている。
「怪しすぎるよ師匠!」
「そんなはずはない。ジュードは純粋だから。
子供のように純粋だから。水子のように純粋だから信じてくれるはず」
「生憎俺は子供でもなければ、胎児でもない」
ジュードさんは疲れたように頭を振ると、持ち帰っていた荷物から紙袋を取り出す。
中からでてきたのは巷で人気のホットドッグだった。
「帰り際に買ってきた。食え。食うよな?」
それをじっと見つめていた師匠は、いくら見ていても目の前から消えないそれに諦め、ついに手を伸ばした。
そしてマスクを取り外し、ちまっとネズミの一口のような少量だけ口に入れた。
初めて顔全体を見たが、頬がこけているせいで相変わらず男だか女だか分からない。
「はい、食べたぞ?」
瞬間、ジュードさんが極寒の雰囲気を出す。
初対面の僕でも分かる。ブチ切れている。
無言でホットドックを取り下げると、魔法器具の中から薬剤を粉砕する物を探し出し、その中にホットドッグを入れて液体状のホットドッグという全ての料理に喧嘩を売っているような存在を作り上げた。
青ざめる師匠が「じゅ・・・ジュードさーん?」と呼びかけるも、無視して作業を進める。
そして針のない巨大な注射器のような道具にその液体ホットドッグを詰め込むと、師匠の顎を容赦なく片手で押さえた。
「い、いあ、やっぱそのままで食べたいかなって・・・あ、あうあああああああああ!!!」
むごい。むごすぎる。僕は思わず目を反らした。
無理矢理口の中に押し流されていく液体。おそらく大半が飲み込めず床にこぼれ落ちている。
それの臭いだけがそのまま元のホットドッグであるのが余計に悲しさを感じさせた。
やがて手早く全てを済ませたジュードさんが、師匠を掴んでいた手を離す。
「三途の川が見えた・・・」
「何ですかそのサンズノカワって」
「いや、こっちの話・・・」
精魂つき果てたように椅子に放心している師匠はブツブツと変なことを言う。
「アラン」
ジュードさんに呼びかけられ、つい肩が震えた。
「は、はい」
「分かったな?コレが、今日からお前の仕事だ」
無理です。
そう人を殺せそうな表情のジュードさんに言う勇気は、僕にはなかった。