マーゼスとトランタ
現在時刻は25時5分。あと一分で電車が来るというところで、なんとかホームへとたどり着いた。息が上がっている。若い頃はそんな事無かったのにと嘆いても、今はただの三十路を超えたオバさんだ。事実は変わらない。「ハァ、」と溜め息をついて息を整える。
腕時計をちらりと見れば、あと10秒足らずで電車が来ることがわかった。私はもう一度溜め息をついてぐっと背伸びをした。見なくてもわかる。あと3秒だ。
そう思った瞬間、私の目の前には一台の列車が止まっていた。一番前の車両へ躊躇うことなく乗り込んでいく。そして車掌室の扉を開け放って言った。
「来る時間が3秒早かったわよ」
すると背中の曲がった車掌が振り返り、皺くちゃの顔に人のいい笑顔を浮かべた。そしてしわがれ声でこう言った。
「ありゃ、そりゃ失礼致しやした」
「次は気をつけてよね」
そう言って私も笑った。別に本当に怒っているわけではなくて、ただこれが彼と私の挨拶みたいなものなのだ。
私は車掌室を出てロングシート式の座席へと座った。と、すぐさま靴磨きの女の子が現れる。歳は十七歳。今日が誕生日だった。彼女は私の顔を見てにっこりと笑った。
「久しぶりね、マーゼス」
「あなたも随分と見かけなかったわね、トランタ」
「他の仕事が詰まっててこっちに来れなかったの。あぁ、また無事に会えて嬉しいわ」
「私もよ。生きて帰れる度にそう思うわ」
私はそう言い、トランタと抱擁を交わした。頬にキスをして挨拶を終える。そして靴を磨き初めたトランタに向かって囁いた。
「誕生日プレゼントは何が欲しい?」
バッと顔をあげたトランタの大きな瞳はキラキラと輝いており、顔は興奮により赤みがかっている。
「なんでもいいの?」
その顔は、いくら外見的にも内面的にも大人びているとはいえ、まだまだ子供らしい顔つきをしていた。
「えぇ、いいわよ」
トランタは考え込んだ。靴を磨くことも忘れ、うんうんと唸りながら目を瞑って考え込んでいる。私は声を上げずにクスクスと笑った。彼女とは5年程の付き合いになる。私がこの電車に乗る度に靴を磨いてくれるものだから、名前と年齢、誕生日まで覚えてしまったのだった。そして毎年欠かさずプレゼントを用意している。クリスマスも同じだ。
「石」
彼女はそう言った。見開いた目にはゾッとするほどの決意があった。私は「具体的にはどういう石?」と聞くと、「透き通った唐紅色」カラクレナイ?と首をかしげる私に、問い詰めるような質問をする。
「くれるのか、くれないのか、どっち」
依然として彼女の瞳は見開かれたままで、その視線は私にしか注がれていない。ピクリとも動かない体は私からの返事を待ち望んでいる。
「勿論、あげるわ」
そう言うと、すっ...と彼女の体から力が抜けてゆき、瞳は一度瞼を閉じて元に戻った。そして何事もなかったかのように靴磨きを開始した。
彼女は突然、先程のようにゾッとするような目をしたり、問い詰めるような口調になったり、訳のわからない言葉を口にしたりする。例えば、さっきのカラクレナイ?なんかがそうだ。話の流れからして色であることは確かだが、どんな色なのかはわからない。この国にはそんな名前の色はない筈だから、多分違う国の色だ。
私はこの電車の終点、モルにある自宅へ帰宅してから一番にする事を決めた。空が白み始めていた頃だった。