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久しぶり

「ただいまー」


 ぐったりとした体を引きずって、家に滑り込むようにして入ると、リビングに懐かしい顔があった。かばんを肩にかけたまま、何の連絡もなしに来た客人を、きょとんとした顔で見ていた。


「薫! どうしたのよ、急に来て」


「良いじゃないか。そんな硬いこと言わなくてもさ。久しぶりの実家なんだし」


 薫が、リビングの椅子に腕を広げて座っている。久しぶりの実家とは言え、ちょっとくつろぎすぎていると思ってしまった。


 一度、自分の部屋に行き、着替えを済ませると、すぐにリビングに下りた。私は、薫の正面に座った。薫の隣には、座りたくても座れない。薫は一人で、二つの椅子を占領してしまっている。隣の椅子に腕をまわしたままだったのだ。


「今日、会社は?」


「今日は、休んだんだよ。家内の定期検診に付き添っててさ。今、妊娠3ヶ月なんだよ」


 妊娠という言葉を聞いて、私の心はえぐられた。私が強く望んでも出来ないこと。薫の奥さんは、女性なのだから妊娠したっておかしくはないんだ。いつかは、聞かなければならなかった台詞。わかっていたのに、全く心の準備をしていなかった無防備な私に、薫の言葉は強烈なボディーブローのように、私の心を引き裂いた。


 おめでたいことなのに、素直に喜べない自分が、憎い。すぐに、おめでとうと言うのが姉の務めのはず。私は引きつった笑顔で「おめでとう」と、小さく言った。


 薫は、照れくさそうに「ありがと」と言った。


 何て姉だろう。正確には、兄ではあるが。どうして、弟の薫の奥さんに嫉妬するのだろう。最愛の人の子供を産めない体であることは、ずいぶん前から知っていたのに。


「女の子? 男の子?」


「え、まだ、わからないよ。3ヶ月だもの」


「あぁ、そうだったわね」


 突拍子もないことを口走っていた。早く、落ち着かなくでは。久しぶりに薫に会ったというのに、姉らしい態度を取れないでいる。


「姉ちゃん、眠いんだろ? 眠くなると、いっつも訳のわからないことを言うからな」


 私は露骨にムッとしてしまった。正面の薫は、「いっけね!」とでもいいたげな顔をしている。まずい事をした後は、必ず薫はこう言う顔をする。全く変わってはいないみたいだ。子供のあどけなさをいつまでも持ち続けている。


「奥さんは、家で一人でいるの?」


「あぁ、そうだよ。つわりがひどくてさ。今、家で横になってると思うよ」


「奥さんを一人にしておいて、大丈夫なの?」


「大丈夫! 母さんの料理をタッパーにつめたら、すぐに帰るから」


 薫らしい。奥さんが、つわりがひどいからお母さんに夕食を余分に作ってもらおうって訳らしい。ちゃっかりしているところも、小さい頃から全然変わっていないようだ。


「今まで、一度も、奥さんのつわりがひどいからって来なかったじゃないの」


「家内の妊娠は、安定期に入ってから言いたかったんだよ。でも、つわりがかなりひどいみたいでさ。だったら、先に言っておいて、いろいろと協力してもらいたいなって思ったんだよ」


 ちゃっかりしているだけではなかったようだ。何時の間にか、弟は大人になっていたみたいだ。最愛の妻を支えている。自分だけではどうにもならなければ、周りに助けを求めても、最愛の妻を守ろうとしている。自分の弟とは言え、その姿勢にはちょっと心を打たれた。


「やるじゃないの」


「今ごろ気付いたのか?」


 腕が疲れたのか、薫は椅子においていた手を離し、頬杖をついた。私は、チラッと窓の外に見える、我が家の隣の駐車場を見た。半分は月極めで、もう半分はコインパーキングになっている。コインパーキングの一番壁際には、薫のグレーのセダンが置いてあった。タッパーを受け取ったら、あの車に乗って帰るのだろう。薫の家は、ここからさほど遠くはない。車であれば、20分もあればついてしまう。


「なぁ、兄ちゃん」


 突然、薫が私を呼んだ。小さいころから、「お姉ちゃん」と呼ぶように言っているのだが、たまにこうして「兄ちゃん」と呼ぶことがある。何回も同じ呼び方をされているが、何度聞いても、私は必ず頭に血を上らせてしまう。


 光のごとく素早く立ち上がり、椅子がひっくり返りそうになった。そんなことはお構いなしに、私はテーブルを平手で両手で叩くと、


「ちょっと! 何度言ったらわかるのよ! お姉ちゃんでしょう!」


 私の行動を想像していたのか、目の前で薫は、ケラケラと笑っている。おなかを抱えて、顔を真っ赤にして。我が弟とは言え、そこまで笑っているかと思うと、頭から湯気が出そうになるほど体中のちが煮えたぎる。


「薫、笑いすぎよ!」


 大声で注意をしても、薫の笑いは止まらない。と、次の瞬間、ドーン! と、大きな音を立てて、椅子とともに、薫が後ろにひっくり返った。頭を打ったらしく、すぐに椅子から離れて起き上がると、薫は頭をさすっていた。


「天罰よ」


 薫は情けない顔をしていた。「いってー」と言いながら、椅子を起こして、よろよろと老人のように力なく椅子に座った。その姿といったら、さっきの威勢のいい薫とは違い、天罰を受けてすっかり力を無くしたという感じだ。


 とてもおかしかった。爆笑の顔が、一瞬にして消えていった。今度は、私がおなかを抱えて笑っている。間の抜けた顔の薫を見るのは珍しい。久しぶりに見る、間抜けな薫の顔に、笑いが体の心からどんどん沸き起こってくる。


「兄ちゃん、笑いすぎだぞ」


 ピクッと私の耳が動いた。抵抗をするかのように、薫が、またも私を「男」扱いしてきた。


「冗談は、好い加減にやめて頂戴。もうすぐ、親になるんでしょう。それに、さっき天罰を食らったのに、まだ懲りてないわけ?」


「悪かったよ。それにしたって、笑いすぎだ・・・・・・。それよりも、ゆうちゃんとはどうなってるんだよ。俺、ずっと、気になってたんだ」


 最近、久しく会っていない人の名前が出てきた。かなり抽象的な質問で、どう応えていいのかわからない。私は、まずは椅子に腰掛け、落ち着いて言葉を選んだ。


「言ったわよ。私が、男だって言うこと」


「で、何だって?」


 薫が、身を乗り出してきた。私の目を見ようとする薫の目をそらした。私が、一方的に告白しただけで、ゆうちゃんの表情は全く見なかった。それだけじゃいけなかったんだ。相手の反応も見ておかなくてはならなかったはず。なのに、私は怖くなって、飛び出してしまった。逃げてしまったんだ。


「何も」


「・・・・・・」


 会話は、途切れてしまった。薫も、どうしたらいいのかわからないらしい。もうこれ以上、私としては、ゆうちゃんの話はしたくない気分だ。


「なぁ、それって、ゆうちゃんをあきらめるって事なのか?」


 意外な言葉が出てきた。私は、今まで一度も薫にゆうちゃんへの想いを言ったことはなかったのだ。自分だけの中に閉じ込めてきたはずの想いを、なぜ、薫が知っているのだろう?


「あきらめるって・・・・・・」


「姉ちゃん、ゆうちゃんのこと、ずっと好きだっただろ。だからさ、くっつくのかなって思ってたんだよ。姉ちゃんが男でも、ゆうちゃんだったらそんなことは気にしないと思ってさ」


 自分がそんなにわかりやすい行動をしていただろうかと思った。薫の言うとおり、私は、ずっとゆうちゃんが好きだった。私の初恋の人だ。今でも、その気持ちは変わらない。他の人に言い寄られ、ゆうちゃんをあきらめるために他の男性と付き合ったこともあったけれど、どんなときも私の心の中にはゆうちゃんがい続けた。


「私が、気にするのよ」


「何を?」


「私は、ゆうちゃんを幸せになんて出来ないもの。ゆうちゃんの大好きな子供を産んであげられないのよ。彼の夢を叶えさせることが出来ないんだから、一緒にいないほうがいいのよ」


 薫は、腕を組み、不服そうな表情を露骨に見せた。


「子供か。子供だったら、養子でも取れば良いじゃないか。今は、医療も発達して、第三者の女性から卵子を提供してもらって、体外受精して代理母にゆうちゃんの子供を産んでもらう事だってできるだろう?」


「確かに、それはやろうと思えばできるわ。でもね、その方法はとても難しいのよ。苦労をして、やっとのことで子供が授かればいいけれど、だめかもしれないじゃない。莫大なお金だってかかるわ。私はね、ゆうちゃんには、そんな苦労をして欲しくないのよ」


 涙をこらえて、そう言った。体の奥から、マグマのように熱いものがふつふつとこみ上げてくる。それは、休むことを知らず、どんなに私が止めようとしても止まってはくれない。涙を飲み続けて入れ受けれど、誰かに背中を押されたら、大粒の涙が、ボロッとあふれてしまうだろう。


「それは、本当に苦労なのかな。好きな人のそばにいることのほうが、ずっと大切な事だってゆうちゃんは言うはずだ」


「ゆうちゃんのことを、わかった風に言わないで!」


「じゃあ、姉ちゃんはゆうちゃんをあきらめられるって言うのか?」


「もちろんよ」


「嘘つくなよ」


 本当は、すぐに嘘じゃないと言いたかった。だけど、私の頬を流れる涙が邪魔をした。


「嘘が下手だな。無理しちゃって。姉ちゃんが、そんなんじゃ、ゆうちゃんだってあきらめられないだろう? なぁ、あきらめるなよ。ずっと追い続けてきた人じゃないか。愛してるんだったら、性別なんてどうだって良いじゃないか。回りのことなんて気にせず、飛び込めば良いじゃないか」


 ずっと押さえつけてきた、私の願望を薫は、いとも簡単に言ってしまった。我慢していたのに。ゆうちゃんの幸せのために、ぐっとこらえていたのに。私が心の中で押し殺していたものを、薫はすべてぶちまけた。


 何も反論することが出来ず、薫の目をじっと見つめ、涙を流し続けた。薫も、私の目を鋭く見つめている。


 膝に涙の粒が落ちると、テーブルの上に置いてあるティッシュを取り、涙を拭った。絶対に、ゆうちゃんには幸せになってもらいたい。だからこそ、私は身を引くんだと自分に言い聞かせた。


「私のことよりも、奥さんの心配をしてあげて。そろそろお母さんが、タッパーにおかずを詰め込み終わるころよ」


 それ以上、言葉を交わすことはなかった。流石の薫も、何も言うことはなかった。無言の時間が通り過ぎた後、母が紙袋におかずを入れたタッパーを入れて、薫に手渡した。すると、薫は「サンキュ」とお礼を言って、帰ってしまった。

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