優しさに包まれて
あの日以来、私とゆうちゃんは、一緒に駅に行かなくなった。もちろん、それだけではなく、会うこと自体がなくなってしまったのだ。ゆうちゃんの部屋のカーテンは、いつも閉められている。私に気を使っているのは、すぐにわかった。
止めて欲しいんだよね、そうやって優しくするの。これ以上、好きになりたくないのに。嫌いになれたら、どんなに楽か。
私も、ゆうちゃんの家がよく見える窓のカーテンを閉めた。もうこのカーテンは、開けないと心に決めながら、シャッときれいな音がするくらい勢いよく閉めた。
ゆうちゃんのいない朝に慣れてきたころ、会社の最寄り駅の改札横にあるラックから、フリーペーパーを一冊手に取った。賃貸情報誌だ。もう引っ越してしまおうかと思っている。私が、実家にい続ければ、ゆうちゃんだってあの部屋のカーテンを開けることが出来ないままだ。私だけなら我慢できるけれど。
ラックの前で、急いで賃貸情報誌をかばんにしまうと、定期を取り出し、改札を出た。
どこか、安くていい部屋がないかと思い、会社に着くと、パソコンもつけずに、賃貸情報誌を広げていた。「おはよう」と生返事をしながら、賃貸情報誌を真剣に見ていた。始業時間までは、ここに集中するぞと決めたのだ。
「あら、引越しでもするの?」
机の上に広げている賃貸情報誌を覗き込みながら、社長が話し掛けてきた。お決まりのベビードールに身をまとっている。
「えぇ、一人暮らしでもしてみようかなって思って」
「ふぅん、そうなの」
社長は、すぐに自分の席には行かなかった。不服そうな表情で、腕組みをしている。
「ちょっと、会議室に来てくれる?」
「あ、はい。今すぐにですか?」
「そうよ。今すぐに」
社長はそう言うと、自分の席に行った。賃貸情報誌をかばんにしまい、筆記用具を持って、私はすぐに会議室へ行った。誰もいない会議室は、ひんやりしていた。観葉植物すらない殺風景な会議室だ。窓際のパイプ椅子に座り、社長が来るのを静かに待った。
トントントン・・・・・・
静かな会議室に、音がした。気が付くと、私は貧乏ゆすりをしていた。こんなくせ、あったっけ?
貧乏ゆすりを止めると、すぐに社長が現れた。社長は、私の隣の隣の席に座った。そして、私ににっこりと微笑んでくれた。
「ごめんなさいね。急に呼び出しちゃったりして」
「いいえ、いいんです」
社長は、微笑んだまま、軽く手を組んだ。
「さっき、引っ越そうと思ってるって、言ってたでしょ?」
「えぇ、そうですけど・・・・・・」
「よかったら、家に来ない? 空いてる部屋もあるし。ここからも近いのよ。ねぇ、どうかしら?」
相変わらず微笑んだまま、社長はノリノリでそう言った。社長と一緒に暮らす? 悪い話ではないけれど、気を使わせてしまっているのが、体中からにじみ出ていて、申し訳なくて仕方がない。
「社長、私に気を使わなくていいですから」
「あなたこそ、私に気を使ってない?」
図星だった。入社面接のときから思っていたけれど、社長の人物を見る目は、恐ろしいほど鋭い。私の心の中を全て、見通しているような気がした。最初に会ったときもそうだし、今もそうだ。私が考えていたことを、すらっと口に出している。社長の言葉に、私は何も答えられずにいた。
「まぁ、いいわ。私に気を使ってくれるのは嬉しいけれど、今は、他人に気を使うどころじゃないんじゃないの?」
もしやと思った。ゆうちゃんとのことを、悟っている。私の決心を。
私の足が、自然と動き出そうとしている。また、貧乏ゆすりをはじめる気だ。目の前には社長がいるんだからと思い、すぐに自分の足を止めた。
「いいのよ、何も言わなくて。辛いときには、人に頼ってもいいのよ。私に出来ることがあったら、なんでもするから、言って頂戴ね」
単なる一社員に過ぎない私に、やりすぎるほどの優しさを与えてくれている。それに甘えてもいいのか、私は無言で考えた。
「私に気を使わなくていいから、ね」
社長は、ずっと私に微笑んでくれている。ここまで思ってくれている社長の気持ちを、踏みにじるのも申し訳ないと思ってきた。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて、社長の家に引越しをさせてもらいたいんですけど・・・・・・」
「いいわよ。引越しは、いつ頃がいいかしらね」
ルンルン気分と言った感じで、社長は早速持ってきた手帳を開いた。気が早いわね、と思いながら、いつがいいか、二人で考えることにした。私は、いつでもよかった。出来れば、早い方がいいくらいに思っていた。社長と話をしているうちに、一つの作戦を思いつき、引越しの日程はようやく決まった。