告白のとき
引き出しには、クリスマスプレゼントにゆうちゃんからもらった指輪が入っている。週末に、ゆうちゃんと会うとき以外は、いつもここにいる。はめるときは、いつも自分で左手の薬指に、ためらいながらはめている。
もらってすぐのときは、毎日のように、引き出しを開けては、指輪を箱から出して、にやけた顔で眺めていた。次第に、「結婚」を意識するようになり、引き出しを開ける回数は減っていった。今では、週末くらいしか開けなくなっている。
たくさん、ゆうちゃんと話はしてきたけれど、性同一障害の話をしたことはなかった。男性が女性の格好をすることに着いての話さえ、出てくることはなかった。ゆうちゃんの家族も同じだ。
トントンと、私の部屋をノックする音が聞こえてきた。時計を見ると、夜の9時を回ったところだった。
「誰?」
「ちょっといいかしら?」
母がやってきた。ドアが開き、母を見ると、あまり機嫌のいいようには感じられなかった。
「どうかしたの?」
首を傾げて訊ねると、黙って母は、床に座った。私は、ベッドに軽く腰掛けた。
「今日、道端で由之君のお母さんに会ったんだけど。真澄、由之君と付き合っているって、本当なの?」
「う、うん・・・・・・」
私は、まるで嘘がばれた子供のようにそう応えるのがやっとだった。これは、嘘に入るのだろうか。ゆうちゃんとの事は、怖くて母にはとてもじゃないけど、言うことが出来なかった。とうとう、母の耳にも入ってしまった。
いつかは、ばれてしまってもおかしくはなかった。家の近所で、仲良く手をつないで毎日歩いているのだから、ばれない方がおかしいくらいだ。
「由之君は、真澄が男だと言うことは、もう知っているの?」
「まだ・・・・・・、言ってない」
「そう」
全く母の目を見なかった。母は、力のない言葉を私にかけた。
「由之君は、真澄との将来をどう思っているのか、言っていたの?」
私は、黙って首を横に振った。
「まさか、あなたたちがそういう仲になるなんて。こんなことになるのだったら、最初から真澄が男であると言っておいた方が、よかったわね」
両親は、私に気を使って、私を娘として育ててくれた。
私が幼稚園に通っていた頃、父が転勤することになり、ゆうちゃんのいるこの町に、一家そろって引っ越してきた。近所の人には、私は女の子であると伝えられた。そのことが、幼い私にとってとても嬉しかった。
由之と言う名前にもかかわらず、「ゆうちゃん」と両親から呼ばれていた。それを聞いて、私も「ゆうちゃん」と呼ぶようになった。
小学校高学年のころには、「由之」と両親は呼ぶようになっていったが、私は変わらず「ゆうちゃん」と呼び続けた。全く同じ事が、ゆうちゃんにも言える。私は、小さいころは「マーちゃん」と両親から呼ばれていた。小学校に入学するころには、「真澄」と呼ばれるようになっていた。ずっと呼びなれていると言うことで、ゆうちゃんは今でも「マーちゃん」と私のことを呼んでくれている。
「由之君もいい年なんだし、早めに本当のことを言った方が良いわよ」
「・・・・・・そうだね」
濡れる声を押し殺した。母に、ゆうちゃんを深く愛していることを悟られたくはなかった。しかし、私の意に反して、私の声は震えていた。眉間にしわを寄せる母の顔を見て、自分の気持ちを悟られてしまったのがわかった。
「自分で言えないようだったら、お母さんが話そうか?」
「いい、自分で言うから」
好意とは言え、母に言って欲しくはなかった。大事な話だ。自分の口で言いたい。私の気持ちを伝えるには、私自身の口で伝えなくては。逃げて逃げて逃げての繰り返しだったけれど、他の人の力を借りて、伝えたいと言う気持ちにはなれない。
一番好きな人に、私の全てを知ってもらうんだ。自分で言わなくちゃ、一生後悔してしまうだろう。
次の週末は、ゆうちゃんの家に遊びに行った。ゆうちゃんの家族はおらず、二人きりになった。洋風のインテリアに囲まれた、モダンな感じの家。壁は全て白く塗られ、清潔感に満ち溢れている。フローリングの廊下を通り、太陽の日差しがたっぷりと注がれているリビングに入った。広いリビングには、ソファもダイニングテーブルもある。道路に面した窓からは、冬の混じりけのない空気と太陽の匂いが入ってきた。
「座って」
ゆうちゃんに促されると、汚れがつきにくい加工のしてある真っ白い革張りのソファに、ゆうちゃんと二人で座った。
少し距離を置いて座ったのだが、ゆうちゃんは座りなおして、私にぴたりとくっついてきた。私の肩に腕を回し、優しく髪を撫でる。
目の前には、電源が入るのを待っている大画面のテレビが、私たちを映し出していた。テレビ台には、ゆうちゃん一家を記録したDVDが並んでいる。「ゆうちゃんはじめての運動会」「由之小学校卒業式」など。他にも、ゆうちゃんのお姉さんのDVDもある。
深い愛情に包まれて、幸せに生活をしてきたことが、一目でわかる。ゆうちゃんが女性と結婚して、子供をもうけ、この家に絶え間なく笑い声であふれていることを、ゆうちゃんのご両親は思い描いていたに違いない。
優しく私の肩をさすっているゆうちゃんだって、同じ事を考えていたと思う。どこにでもある、いわゆる普通の家庭を目指していただろう。ゆうちゃんは努力家ではあるけれど、冒険をするようなことはない。自分の目標のために、影で涙ぐましい努力をしていたのを、私は向かいの窓から、ずっと見続けてきた。
カーテンが閉まっていても、灯りがついていると、勉強をしているんだなって思っていた。ゆうちゃんの部屋には、テレビはない。ラジカセはあるけれど、音が漏れたことはたまにしかなかった。私の部屋には、テレビがある。ためしにテレビを消して、ゆうちゃんの部屋の音に耳を立てたことがあった。すると、しんと静まり返り、隣の駐車場にいると思われる昆虫の鳴き声らしいものが聞こえるだけだった。
ゆうちゃんは、自分のひざに置いた私の手をぎゅっと握り締めた。その左手には、指輪をはめていない。今日は、指輪をはめなかった。ソファの横に置いてある私のかばんの中に、もらったときと変わらない状態で、思い出の指輪は入っている。後は、タイミングを見計らって返すだけだ。
「ちょっと、トイレ借りるね」
ゆうちゃんの優しい手を解きながら、私は言った。まるで自分の声ではないみたいで、誰かに言わされているような気分になった。
トイレに入ると、鍵を閉めて、深呼吸をした。息が詰まりそうだった。ゆうちゃんに触れられると、どうして良いのかわからなくなってしまう。自分を見失ってしまう。このトキメキが、たまらなく好き。こうなることは予測していた。
一度はまったら、二度と抜けられなくなってしまう。そんなことは、わかっていた。だから、ずっと逃げ続けてきたんだ。
一瞬の気の緩みとは言え、私はゆうちゃんを受け入れてしまった。絶対にしてはいけないと、自分に言い聞かせ続けてきたことなのに。付き合えば、必ず、自分が男であることを告げなくてはならないときが来ると、わかっていたのに。
いつまでも、付かず離れずの生ぬるい関係でよかった。緩く繋がっていれば、長くゆうちゃんのそばにいられると思っていた。
もう、生ぬるい関係ではないんだ。ゆうちゃんは、私に飛び切り優しくしてくれる。男らしいがっしりとした手で、私を受け止めてくれる。温かい腕に包んでくれる。さっきも、そうしてくれた。抜け出したくはないけれど、抜け出す決心をしたんだ。ゆうちゃんから、卒業する。私にとっても、ゆうちゃんにとっても、最善の方法だと思う。
何年か後、別れた事を正解だったと、笑って言えると確信している。ゆうちゃんは、女性と結婚して、子供をたくさん育てて、私と付き合ったことを昔話に出来るだろう。
私が、この世界のどこかで、その噂を耳にして、微笑んでいる画が浮かぶ。
トイレを出ると、ソファには座らず、その隣のダイニングテーブルを取り囲む椅子を一脚に座った。一連の私の行動を見ていたゆうちゃんは、怪訝な表情で何も言わずに私を見ていた。
「どうしたんだよ。こっちにこいよ」
腰をひねって、辛そうな体勢でゆうちゃんは私を呼んだ。私は、首を横に振って断った。
「あのね、実は、大事な話があるの」
人と言う字を三回手のひらに書いて飲み込んだりせず、本題に入ることにした。テーブルに置いた手を握った。じんわりと手のひらに汗をかいているのがわかった。小刻みに足が震えていると言うことも。このことに、ゆうちゃんが気付きませんように。気がついたら、きっと、私の隣に座ってしまうはずだから。隣に来られたら、それこそ、何も言えなくなってしまう。今の、中途半端な距離が、一番話しやすい。
「大事な話って、何?」
「うん・・・・・・」
一つ息を飲み込み、いざ、話をしようとすると、玄関が開く音がした。
「あら、真澄ちゃんが来てるのかしら」
ゆうちゃんのお母さんの声だった。今日は、ゆうちゃんの両親が結婚して家を出たお姉さんの家に遊びに行ったはず。夕方頃に帰ってくると、ゆうちゃんは言っていたのに、昼の1時に帰ってきてしまった。
ゆうちゃんの顔を見ると、焦っているようだった。予想外の出来事に、慌てているみたいだ。昔から変わっていない。ゆうちゃんは、アドリブに弱い。予想外の出来事に出くわすと、あたふたしてしまう。
「おかしいなぁ。今日は、夕方まで帰らないって言ってたはずなんだけど」
ソファから立ち上がり、ゆうちゃんがそわそわしていると、ゆうちゃんの両親がそろってリビングに入ってきた。
「お邪魔してます」
私は、立ち上がって軽く会釈をした。
「いいのよ、座ってて。ゆっくりしていって」
ぐいと、ゆうちゃんはお母さんの腕をつかんだ。
「どうしたんだよ。今日は、夕方まで帰らないって言ってたのに」
「それがね、お姉ちゃんの旦那さんのお父さんが、急に倒れてしまってね。急遽、予定が変わったのよ」
親子の会話を横で聞いていた。ゆうちゃんのお父さんは、手際よく私に紅茶を出してくれた。「お構いなく」と言ってはみたものの、「良いから、良いから」と笑顔を私に見せてくれた。言い辛い雰囲気になってしまった。せっかく、今日、言おうと覚悟を決めてきたんだ。状況が変わったからって、ここで計画を変更してしまえば、また、覚悟を決めるまでに相当の時間がかかってしまうだろう。こうなったら、ゆうちゃんだけじゃなく両親にも言ってしまおう。
私は、静かに立ち上がり、親子三人の方に体を向けた。
「実は、大事なお話があるんです」
三人そろって、きょとんとした顔で私の顔を見ると、そろってダイニングテーブルを取り囲むように座った。私の隣は、ゆうちゃんが座った。私は、腰を降ろさず、立ったまま三人の方を向いた。
「どうしたの?」
お母さんは、訝しい顔つきで私を見ていた。お父さんもそうだ。だけど、ゆうちゃんの顔は見られない。
「ずっと、言わなかったことがあるんです。いつか、言わなくちゃと思っていた大事なことがあるんです」
怖い。ここから先の言葉を発してしまったら、私たちの関係は、一体どうなってしまうのだろう。全てが、一瞬にして粉々に消えてしまうかもしれない。小さいころからお世話になり続けてきた、ゆうちゃんたちと、もう二度と顔を合わせられなくなるかもしれない。
私は慌ただしく、両手を握ったり離したりを繰り返していた。無意識でやっていたのだ。ぎゅっと両手を組むと、恐る恐る次の言葉を選んで、口に出した。
「今まで、隠していて、ごめんなさい。もっと早く言いたかったんですけど、勇気がなくて、言えなかったんです」
体が震えてきた。小刻みに、震えている。ちからづくで、押さえつけようとしたけれど、震えは収まらない。気が付かれて、心配される前に、すぐに次の言葉を発した。
「私、女じゃないんです。男なんです。小さいころに、性同一障害だと診断されて、両親には娘として育ててもらったんです」
「えぇっ!」
早口になりながらも、一気に言うと、一斉に驚きの声があがった。怖くて、そちらを見る事が出来ない。じっと、自分の足元の床に視線を落としていた。
「嘘でしょう。ねぇ、真澄ちゃん。冗談を言っているのよね?」
私に近寄り、お母さんが私の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「ごめんなさい。本当なんです。私、男なんです。・・・・・・ずっと、隠してて、ごめんなさい」
いても立ってもいられなくなり、私は、かばんを素早く取り、そのまま飛び出して、自分の家に帰った。靴を脱ぎ捨て、バタバタとけたたましい音を立てながら、自分の部屋に入ると、開いていたカーテンを急いで閉めた。ゆうちゃんの家が、丸見えだった。という事は、外からも丸見えなはずなので、かばんを持ったまま、慌ててカーテンを全部締め切った。
とうとう、言ってしまった。もう元には戻れないんだ。窓際に、ぺたりと座り込み。熱い雫を床に落とした。
もう会えない。大好きなゆうちゃんに、もう会えないんだ。
ポタポタと床に落ちた雫たち。かばんから手を離し、自分の顔を覆った。ヒックヒックと嗚咽が出て来る。止めたくても、私の体は泣く行為を続けてしまう。
ごめんなさい。ごめんなさい。何度謝っても、許してもらえないかもしれない。ゆうちゃんたちが、仮に許したとしても、私は、私自身を許すことが出来ないだろう。
意気地のない私は、ゆうちゃんに片思いをしていた。それだけで、十分だと思っていたのに。自分で作ったルールに違反してしまったんだ。絶対に、ゆうちゃんとは結ばれないと。
私からは、一度もゆうちゃんに「好き」だとか、「愛してる」だとか言う言葉は言ったことがない。だけど、ゆうちゃんは、たくさん私に愛の言葉を与えてくれた。私のその瞳で抱きしめ、甘い言葉を与え続けてくれた。もう死んでもいいと思える瞬間だった。あまりにも嬉しくて、涙がこぼれそうになったことさえ会った。ゆうちゃんは、私の全てなんだ。
誰よりも私に優しくしてくれ、愛を与えてくれた人。一番、失いたくなかった人だ。結ばれてしまったら、失ってしまうときが来るのはわかっていた。気の緩みとは言え、この間のクリスマスの自分を呪った。一番やってはいけないことを、してしまったのだから。
涙は、止まってくれない。ベッドの脇に移動して、枕もとに置いてあるティッシュを一枚取った。強くティッシュを目に押し当てて、涙を止めようとした。しかし、涙はやはり止まらなかった。
そうだ、出せるだけ、涙を流してしまおう。そうすれば、ゆうちゃんとの思いでも流れ出てしまうかもしれない。ベッドの下の引き出しからフェイスタオルを取り出した。涙に濡れたティッシュを捨てて、フェイスタオルを目に軽く押し当てた。
思い返してみると、私が中学1年生のときのクリスマスプレゼントに、ゆうちゃんからもらったタオルだった。私の大好きなピンクの無地のフェイスタオルだ。しばらくは、このタオルをよく使っていた。夏場は、かばんに入れて持ち歩いていた。高校に入学すると、今度は入学祝に小さなバッグをプレゼントされた。そのバッグには、ピンクのフェイスタオルは入らず、大事に取っておこうと、ベッドの下の引き出しにしまっていたのだ。
墓穴を掘ってしまった。考えてみると、この部屋には、ゆうちゃんからのプレゼントがたくさんある。私は、ゆうちゃんからもらったものは、全て大事に取っておいてある。一箇所にまとめてではなく、ベッドの下の引き出しに入れたり、机の引き出しに入れたり、かばんの中にあったり・・・・・・。帰そうと思っていた指輪の存在に気がついた。勢いあまって、指輪のことを忘れて、帰ってきてしまったんだ。
流石に、あの指輪は返さなくては。出来るだけ、他のものも返したい。そばにあると、絶対にゆうちゃんのことを思い出してしまうから。すでに、フェイスタオルを見て思い返してしまっている。
紙袋にでも入れて、ゆうちゃんからのプレゼントを返そうと思っていると、かばんの中から携帯の着信音が聞こえてきた。涙を拭きながら、携帯の画面を見ると、ゆうちゃんからだった。
ゆっくり、話がしたいんだ。落ち着いてからで良いから、連絡を待ってるよ。
ゆうちゃんらしい、優しい口調だった。
時計を見ると、すでに3時を回っていた。何時にゆうちゃんの家を飛び出したのかはわからないけれど、ずいぶん時間が経っていることだけはわかる。ゆうちゃんも、両親も思い悩んでいたのだろう。その光景を想像したら、ずっと隠し続けてきたことに強い罪悪感を覚えた。
もう会えないと思っていたのに、もう一度会おうと言われてしまった。ほんの一瞬で終わらせられるような、簡単なことではないんだ。私は、終わらせることが出来たとしても、ゆうちゃんは、決して納得が出来ないのだろう。一度、自分の腕に手繰り寄せた獲物を、いとも簡単に逃したままではいられないんだ。しかも、その獲物は、ずいぶんと長い時間をかけて、ようやく手に入れたものなのだ。思い入れだって、きっと、あるに違いない。
でも、私は逃げたくて仕方がない。このまま、世界の果てまで行って、二度とゆうちゃんの顔を見ない方が、ずっと楽だと思う。
それって、やっぱり、”逃げ”なんだな。見てもらいたい自分だけを、ゆうちゃんに見せようとばかりしている。せっかく、体当たりしたと言うのに、逃げるのを止めたと言うのに。また、私は逃げようとしているんだ。
流石に、これからと言うのは、辛すぎる。私は、「もう少し、待って欲しい」とだけ打って、メールを送信した。