【6夜目】王子の物語 『理の王子』
全方面禁断注意報
小さな国が一つあった。その国に一人の王子が生まれた。彼が物心つく頃には、母を亡くしていた。母は戦争で死んだと聞かされた。彼はその時から戦争を憎むようになる。そうして彼が成長し、戦場に出るようになった頃……家臣達のから聞かせられた話。母は敵国に人質として送られた。そして戦乱の最中、父の手により敵もろとも屠られたと。
王子は恥じた。王としての父の未熟さを恥じた。自身はそのように愛する者を犠牲にするような男には王にはなるまいと心に誓い、戦場を駆けた。
やがて聞こえる……長い長い戦乱に終止符を打つ、一人の乙女の噂話。四角い絵の中で微笑む王女。彼女さえ娶り傍に置けば他国への抑止力になる。そのために王子はその乙女を求めた。王女と王子の共通点は、共に幼い内に母を亡くしていると言うこと。そして周りに同世代の人間が居ないと言うこと。
ここまで言えばもうお解りのことだろうから白状しよう。私が最後に話す物語は、言うまでもない。この俺自身の物語だ。本当ならばこれを伝承に聞かせてやりたかったのだが、仕方ない。
俺は元来不器用で、これまで自分のことを他人に語ることなど無かった。だからこそ噂は噂として一人歩きし、俺が否定も肯定もしないからそれが散漫とそれでも広がった。言い訳ほど下らないことはこの世にはない。そう言うのは逃げだろう。俺には取り繕える言葉が無く、何かを言えば言うほど誤解が広まるように思えてならなかったのだ。俺のこんな不器用なところは父譲りなのかも知れない。
かく言う俺は物心ついたときには戦乱の中にいて、父に代わり剣を取って砦と共に戦場を駆け回ったものだ。俺は大陸で続く戦争を終わらせることに躍起になっていた。とも言うのも、顔も知らないうちに人質として命を落とした母への執念がそこにある。そんなことは繰り返してはならないと、大陸の平定だけを目指して突き進んだ。こんな俺だ。気に聞いた言葉の一つ覚える暇さえあれば、剣の鍛錬、諜報活動……なんともまぁ色気のない人生を送っていた。策以外での口説き文句など瞬時に浮かぶこともない。
だからこそ、背徳に出会ったときの衝撃が忘れられない。それまで策のために欲しがった平和の象徴である王女に、本気で現を抜かしてしまった自分。それに心底驚いた。不思議なものでそれまで人の噂など気にもせず、人の目から自分がどう映るのかさえ気にしてこなかったこの俺がそんなことを気にし始めた。何と愚かなと思いながらも、浮き足立つ己が少し満たされていくのを感じた。なんとも不思議な感覚だった。空の色、雲の流れ、風の温度と匂いさえ、一瞬にして変わるようなそんな劇的な感動。
よく聞く話で、男は母に似た女性に恋をするという話がある。それは男というものが、伴侶に対し母親の代替品としての側面をも求めるからなのか。それはどうかはわからんが、母を知らない俺が彼女に惹かれたのは背徳が俺の母と通じる何かがあったからなのかも知れない。
一度そんなことを考えれば、以前にも増して欲しくなる。姿形がどうとかではなく、要するに役割分担。俺は父とは違う。人質として犠牲になどしない。傍に置いて守る相手として、俺は背徳を求めていた。それは俺が彼女に母の代用品としての側面を抱いていたからなのだろう。それか、俺の考える男女の繋がりというものをそこに見出したからなのかもしれん。
一言で当時の俺を言い表すなら、要するに俺は愚かだった。それ以外の言葉はない。俺はこれまで知らなかった気持ちや感情、その感覚に酔いしれていた。自分のことばかりを考えていた。背徳を見ているつもりで何も見ていなかった。あれがどんな思いで日々を過ごしていたのかさえ、俺は気付いてやれて居なかったのだ。あの頃の俺の一挙一動を思い出すだけで、俺は首を吊って腸を抉り出したい衝動に駆られる。俺の言葉……俺の行動その全てが、背徳を傷付けていたことだろう。背徳は何を思い、笑っていたのか。そんな彼女の優しさを思うと、今更背徳が愛おしくなる。
「謎かけ姫?」
「お、王子様!?」
あれは何百日目のことだっただろう。一千日目が近付いた、九百九十九日のことだった。謁見の間に赴く途中……城の庭先でだっただろうか?酷く焦った様子の王女と出会した。寝坊でもして今起きたばかりだったのか、髪や衣服が乱れている。しかし何故王女が外にいるのか解らない。よくよく見れば裸足で、足を引きずってもいる。
「追われているのか?」
「え、……あ、その」
何かあって窓から飛び下りてきたのか。そう考えればこの様子も頷ける。
「え!?うわっ!」
「とりあえず手当て出来そうな場所に行かなければ。案内してくれ」
王女を抱きかかえると彼女は驚いたのか暴れ出す。あまり騒ぐと落ちるぞと教えてやればようやく大人しくなって、そのまま身を預けてきた。
「え、ええとこの先を真っ直ぐ行って右に曲がってください。そして、はいそこの部屋……」
案内された先は空き部屋のようだ。それでも客室か何かなのか一通りの設備は揃っている。足の手当てをしてやると、王女は一言礼を言い、それからぴたりと黙り込む。今のことを説明しなければならない流れになっているのに困っているらしい。
「何があったかを聞くのは困るか?」
「え、ええと……はい」
「では何に追われていた?」
「そ、それは……」
王女は口籠もる。その答えを教えて貰えないのは、俺が頼りないからだろうか。そんなことを考えていると、王女は小さな囁きを溢していく。
「……時々、すごく無理なことを言い出す方が、いるんです」
「無理なこと?」
「私から答えを引き出すために、人を雇って……色々悪いことを考えて、それで答えを知った上で挑戦に望もうとする人……」
一瞬、その手があったか。そんな風にも思ったが、すぐにその考えを否定した。王女にとって何が弱点かがまだわからない。仮にも一国の王女。人質を取られても国にとって不利益な判断には従わないはず。唯、好感度を下げるだけ。
それは仕掛けてくる側も解っているから人を雇うのか。しかしその後正解してしまえば誰が犯人か、言っているようなものではないか。
「でも私を殺したら意味はないから、殺されることはないんです。だから私は何も言わない。言わないんです。……だけど、周りの人を人質に取られたら、私は困ってしまう。絶対に答えられないけどそれでも困ってしまうから、私は逃げてしまったんです」
「……」
よくよく見れば乱れた衣類の陰から、他の怪我も覗いている。足を捻っただけではなくて、暴力でも振るわれているのか?いつもは手袋に隠されている手にも傷が見えた。手首を切った、跡がある。それも一度や二度ではない様子。
平和に見えたはずの国の中で、飼い殺されている王女。こんな平和な国で、何が彼女を死の衝動に追い詰めるのか。そこまで求婚されるのが嫌なのか。嫌なはずか。まだ幼さの残る顔立ち。女らしさを感じない貧相な体つき。まだまだ娘盛りに至らない、可憐な少女。求婚などされても気持ちが悪いだけだろう。自分もまた彼女を苦しめるだけの存在なのかと思うと……俺は悲しくなったものだ。
「謎かけ姫の母君は、随分前に亡くなられたそうだな」
「……はい」
まだ母が傍にいたならば、女としての生き方を感じさせ、身近で何やら説いてくれただろうに。彼女にはそれも叶わないのだ。
「……でも、母様が生きていても……多分どうしようもなかったんじゃないかって思います」
「どうしようも……ない?」
そんなことはないはずだ。もし俺の母様が死んでいなかったなら。今の俺はない。今とは違った見方をし、今とは違う風に生きていた。それが良いのか悪いかは一概には言えないが、王女の母が生きていたなら今とは必ず何かが違ったはずだ。
「海の向こうには……」
「うん?」
「王子様の国には神託が無いのですよね?」
「ああ」
「そうですか」
彼女はそれが少し羨ましいと言うような口ぶりで苦笑。
「どうしようもないことを前もって知っていること。その時が来るまでわからないこと。そのどちらが人にとっての幸いなのでしょうか」
「……侮辱に聞こえるかもしれないから先に謝っておこう。だが私が思うに神託など誤りだ」
「何故そう思うのですか?」
「仮に神託が真実なのだとして、それを知り悪しき事柄を免れたなら、その瞬間神託は真実ではなく虚偽になる。神託が最初から虚偽なのだとしたら、それは真実を歪めるような悪意があり、人を悪い方向へと誘う魔の手があるだけだ。心を律し、常に最善の行動を取ったなら神託の言葉など恐るるに足りん」
「そうでしょうか?」
「私が思うにそれは逃げだ」
「逃げ?」
「結果は誰に決められるでもなく、己の行動が招く。それにより生じる責任。悪いことが起きた、しかし自分は悪いと思いたくない。そう言うときに誰かの所為にしたくなる。人の心の弱さ。それに付け込んだのが神託という言葉だ」
神からしてもそんなものは迷惑だろうに。そう肩をすくめれば王女が小さく微笑んだ。
「貴方は不思議な方。神託を否定するのに神を否定はしないんですね」
「それは……」
「でも、私も思うんです」
「何を、だ?」
「苦しいとき、皆神に縋る。けれど良いことがあって感謝する人は誰もいない。それは時分の努力だとか才能なんだと驕ってしまう」
「ほう……」
「だから神はいつも良い神託ばかりを告げることは出来ない。時々、自らの存在を示すため、誇示するため……悪いお告げをしなければならない。そうすることでしか、神は人々の信仰を得ることが出来ない。……私はそんな風に思っています」
人が皆、驕らず感謝の心を忘れず謙虚に生きられるなら、神はそんな風に己を示さない。崇められることで与えられる贈り物。戦の勝利、土地の豊穣……なるほど、そう言った示し方もある。しかしどうだ。勝利した将はそれを自らの手柄にし、農夫はこの一年の、自身のたゆまぬ努力が根底にあると思うだろう。形式上の信仰に神は満足できるだろうか?
王女は見えざる神の声を聞くよう、悲しげな瞳で俺を見る。
「何か悪い神託を知っているのか?」
「“もしも生まれた子が王子ならば、国を滅ぼす災いとなる”」
その神託は聞いたことがあった。しかし目の前の王女は王女だ。では何を思い悩むのだとあの日の俺は問いかけた。
「けれど神託には続きがあります。……“もしも生まれた子が王女ならば、許されざる契りを交わすだろう”と」
「それは……?」
「私にもどういう意味なのかわかりません。ですがこの場合は国を滅ぼす災いでは無いのでしょうね」
それならば良かったと王女はほっと息を吐く。窓の外、広がる空をうっとりと眺めながら。
「この国が好きか?」
「故郷を嫌う人間がいるのなら、見てみたいものです。会って話がしてみたい。彼は何を思いそれを厭うのかと」
「そうか」
「王子様、貴方がここに来たのも貴方が貴方の国を愛するからなのでしょう?」
「それは……そうだが」
「貴方は立派な方ですね」
少し苦しそうに王女が俺へと振り返る。応えられないことを申し訳ないと告げる風に。
「あ、そろそろ仕度をしなければ!今日はありがとうございました王子様。またいつもの所でお待ちしております」
謎かけ姫は謁見の時間に近付いたことを思い出し、寝間着姿の自分を恥じ、その場を飛び出して行く。一体何があったのだろう。結局有耶無耶の内に、煙に巻かれてしまった。今から王女が仕度をするなら今日の謁見の時間は遅れるだろう。
「仕方ない、時間を潰すか」
城のメイドに、見て回っても構わない部分を訪ねた後……俺は暫く城の視察を行った。その内に迷い込んだ長い回廊。その場所はギャラリーになっていたのか、王宮画家の描いた作品が幾つも展示されている。その中には王に似た男達、それから見覚えのない美女達が枠の中に佇んでいた。なるほど、それでは姫は母親似だろう。そんなことを思って何とも無しに少し愉快な気になって、俺は回廊を進む。その最奥に掲げられていた絵は謎かけ姫によく似た女性。王女が成長し女盛りを迎えた辺りには、このような女になるのだろう。そう思わせるような美女。しかし何故だろうか。俺は彼女の瞳に違和感を覚える。彼女は確かに美しい。しかしその瞳には良くない光が浮かんでいる。言うなればそれは自信。謎かけ姫からは感じることが出来ない光。自信に満ちたその女性は、何かを訴えかけるような眼差しで俺を見る。
王女とこの女性は外見こそ似ているが、その魂は別のもの。俺はその自信にどうにもいまいち惹かれない。この国に留まってまで手に入れたいと俺は思っただろうか?
(否……)
王女に守るべき対象としての側面を求めていた俺だ。この女性は男を立てるような女ではあるまい。絵画一枚、その中からも自己主張が顔を覗かせる。この人は守られることをある種の屈辱だと思うだろう。恐らく俺とは相容れない。かといって共に戦場を駆けることを良しとする女でもない。煌びやかな宝石、ドレス。女としての幸福を享受しておきながら、女の義務を果たす気が感じられない女だ。男に負けるのは気に入らないが、男になりたいわけではない。なんとも歪な印象を与えてくる不思議な絵。美しさを刻んだはずの絵画から、そんな妄執を感じてしまうのは何故か?それは先程まで見つめていた王女の中に、そんな欲が何もないから。
(謎かけ姫は、空っぽだ)
今に満足している。傷ついているのに、今を幸せだと彼女は笑う。何が幸せなものか。傷だらけの王女に、それは違うと教えたい。
(しかし、私とて……)
幸せとは何ぞ?尋ねられて答えられるか?連れ帰るべき祖国は、この土地より荒れている。物質的にも精神的にも今の方が彼女は大いに満たされている。それに勝る喜びを与えてやれるとも思わない。父が母を死なせてしまったように、海の向こうには渦潮よりも大荒れの策謀が渦巻いている。それでも俺が彼女を連れ帰りたいと思うのは、彼女を幸せにしたいからではなく、俺が幸せを感じたいからなのだ。
国のため、争いを止めるため。そんな大義名分が霞むほど。俺は彼女を欲している。それは彼女が俺にとって都合の良い女だからか?回廊からの帰り道、絵の中の女達は皆、少なからず何らかの欲を感じさせる笑みを浮かべていた。謎かけ姫のように何も求めぬ瞳の女は一人としていない。
(恐らくは、私も……俺の中も空洞なのだ)
何かを欲されても俺は応えられない。そんなつまらない人間だ。国のためにしか動けない。それもそのはず、王になるべく俺は生まれた。その職務を真っ当すべく生きてきた。今更何が欲しい?欲しいものなど何もない。そんな俺が初めて欲しいと思った。後にも先にもこんな気持ちは無いかも知れない。恋に恋する感覚を、俺は失いたくないのだきっと。彼女を傍に置いていれば、それだけで心が満たされる。荒れたあの大地にも、俺の胸にも大輪の花が咲く。唯、王女が微笑むだけで世界が色付き、美しい物へと変わる。まるで夢だ。夢を見ているようだ。きっと何もかもが上手く行く。そんな幻想に取り憑かれて……俺はこの国へ留まった。
(仮に俺が彼女を手に入れたとしても……)
王女は俺を求めないだろう。俺に何一つ要求しない。この空っぽの胸の内をさらけ出せと脅されることはない。唯俺を理解し受け入れ追求せずに微笑むは、世界の誰より美しい謎かけ姫。嗚呼、それはやはり俺のエゴであり、俺が見ていたのは王女の外殻だけ。彼女の痛みを理解して、癒してやりたいと言う気持ちより、俺が癒されたいだけだった。彼女の傷を知りたがるのは、それを突き詰めることで彼女を入手するための手掛かりになるだろいうという魂胆。俺は何とも浅ましい。
(ならば果たして、俺が彼女を手に入れて良いものか)
この手を伸ばすことがなんとも罪深い行いに思える。けれどそこで思い出すのは祖国のことだ。俺は完全に国を捨てるほど彼女を愛せず、彼女を求めてもこの国に骨を埋める気にもなれない。そんな人間が彼女を欲すること自体、烏滸がましい。それを正しく理解しても、このままおめおめと国に帰ることも出来ない。なぜなら諦めを覚えるよりも、確かな手応えがある。少なくとも王女は俺を嫌ってはいない。心憎からず思ってくれている。そこに付け込もうとする心がある。善悪の鬩ぎ合い。それさえ大義名分の下では取るに足らない。結果、俺は王女を諦めることは無いし、どう陥れれば良いかとそればかりを考える。
回廊を抜けて見えてくる庭先。向こうから王女が走ってこないものかと、今朝の邂逅を思い出していた。
(人質を取り、王女に答えを吐かせる……確かに有効な手だ)
王女に嫌われる覚悟があるのなら、国に連れ帰ることだけを考えるのならそれは悪くはない手ではある。問題はその相手。それが王ならば間違いなく王女は動揺し、真実を話すだろう。しかしその後無事に国まで連れ帰られるかは怪しい。王に刃を向ければ王女を手に入れるための賭けも成立しなくなる可能性が非常に高い。ならば他に王女と親しい人間は?それを探して揺するのが最も効率的な手か。ならば城のメイドでも口説き、情報を探るか探らせるか。そんな企みの最中……丁度あの部屋の側まで来た時だ、俺は人の話し声を聞く。聞こえてくるのは女と男の小競り合い。しかしひそひそと小声でのやり取り。何やら揉めているらしいがよくは聞こえない。何事だろうか、室内へと戻りそっと窓辺に近付いた。
「しくじりやがって、この女ぁ!」
「何よ!姫様の寝室に入れてやっただけでも感謝しなさいよ!これがバレたら私左遷か解雇されちゃうんだから!さっさと残りのお金頂戴よ!」
「うるせぇ!前金は渡しただろ!」
聞こえてくる話の内容から掃除番のメイドに鍵を開けさせ、この男は王女の寝込みを襲ったのか。それに驚いた王女が窓から飛び下り逃げたのか。いや、話にはまだ続きがあるようだ。
「まったく!使えないメイドだぜ!人質にしてもあの姫吐きやがらねぇ!」
「だって私に姫様そこまで心許してくれてないもの!先に言ったじゃない!」
話を聞く限りではこの男は、解答を探る依頼でも受けメイドを金で釣ったらしい。平和呆けした国だとは思っていたが、姫の傍仕えまでこの様だとは。余程護衛でも申し出ようかと思いながら俺はその密談を聞く。
「だから言ったのよ。私なんかじゃ無理だけど……人質にするなら彼が良いって」
「彼?そいつは誰だ?」
「あれ?これ話したのあんたにじゃなかった?」
「おい女……お前いい加減左遷されてもいいんじゃないか?」
これが初犯ではない様子の傍仕え。それに気付かないとは謎かけ姫も周りの兵士も平和呆けが過ぎるのではないか?俺は半ば呆れていた。
(しかし、謎かけ姫に親しい人間などいたのか)
そんなものを俺は知らない。だがこれは好都合。その者の名がメイドの口から発せられるのを今か今かと待ち侘びる。聞き耳を立ててその時を待つ。風の歌が煩わしく思えるほどに、その時間を遠く感じた。やがて発せられる声。その言葉に俺は目を見開いた。
「諦め知らずの挑戦者、海の向こうの王子様。あんたも知ってるでしょ?毎日毎日、楽しそうな姫様!あれは答えを教えるのも時間の問題よ?もしかしたらもう知っているのに茶番を続けているのかしら?」
「なるほど、そんじゃいっちょそいつを……」
「無理よ、聞いたことないわけ?お若く見えても彼、戦では負け知らずのとんでも殿下よ。喧嘩売ってへますれば、あっと言う間に戦争仕掛けられるわ」
「しかしあんなガキ、大人数で取り囲めば一捻り……」
「だから甘いって言ってるの!あんたみたいな戦場に出たこともない野郎共が、勝てるとでも?」
子物達の小競り合いは続いたが、俺はその場に蹲り、逃げ出すことも敵わない。恋の病の発作がとうとうここまで来たか。今朝の悲しげな顔、自らに言い聞かせるような幸福……目を背ける死への衝動。彼女の白い手首に引かれた赤い線の一つ、その理由の中にもしかして……自分があったのではないか。そんな風に一度思えば、いてもたってもいられない。胸がいっぱいで、彼女を抱き締めたくて堪らなくなる。
(謎かけ姫……)
俺は本心から彼女の名を知りたくなる。呼びたくなったのだ、愛しい人の名を俺の唇で。その言葉を形作って音にした時、俺はどんなにか幸せだろう。何としても彼女の名を当てたい。そうして彼女を我がものにする。その先にあるのが俺の幸せだけではない。彼女の幸せになれるよう、最大限の努力をしよう。
(そうだ!こんな平和呆けした国にいては彼女の身が危ない)
内通者がいて、寝込みを襲われるような日々は彼女にとって不幸に違いない。少なくとも俺が傍にいれば彼女を守ることは出来る。最初は苦労させるだろうが、俺の国をこれから豊かにしてやろう。これから努力していけば良い。戦さえ終われば国など幾らでも豊かになろう!
*
「こうして俺は、謎かけ姫に最後の賭けを申し出た」
語る話にその場が引いても王子は気になどしない。この話は唯一人のために話しているのだ。最初から最後まで、己の胸の内を語ることが出来なかった愚かな俺が、冷たい石となったその人のために語る言葉だ。愛など総じて愚かであり、第三者から見ればそれは喜劇で滑稽なものだろう。俺は愚かになりたくない一身でここまで背徳を傷付けた。愛してなどいなかったのだ。自尊心のために自愛のために彼女を貶めることを良しとした。それを愛していたなどと言ってはならない。その言葉を言うために、俺はこの世の誰より愚かにならねばならぬ。笑いたいのなら嗤え。この理、一世一代の道化を演じよう。
自分は真剣にこうして愚かになっているのだ。それこそが唯一、彼女に届く言葉だと王子は信じきっていた。
「無論、九百九十九日目は動揺から満足な解答を述べることなど出来なかった」
「ちなみに何と?」
にたついて無粋な質問をする黒マント。愚かさを更に一匙、一恥加えることも今の王子は気になどしない。
「“貴女が好きだ愛している私の傍にいて欲しい貴女のことを考えると胸も張り裂けんばかりだ私の妻となってくれ”姫」
「どんな名前かと思いきや、いやはや。正解であるはずがないでしょうに」
「それくらいは知っている」
その愚かな解答に、砦さえも吹き出した。出来ればその場に付いていってリアルタイムで耳にしたかったと言わんばかりに。菫姫も危ないところまで来てはいるが、それでも堪え切る。何ともしぶとい女だ。
(そうまでして、この俺を仕えさせたいか)
しかし相手の正体を知った今、笑わせることなどもはや容易い。まだ話は本題にすら入っていない。これは唯の本題提示のための話だ。
「では、話を戻そうか。まだ俺の話は終わりではないのだからな」
王子は名前の解答という名目で、狂ったように愛の言葉を囁いた。それには王女も驚いて、顔を真っ赤にさせて俯いた。最終日のために意識をさせようという計画だった、というのは後付けの言葉。しかしそれが彼女の罪悪感を抉り、効を成したのは事実。
九百九十九日目の挑戦に敗れ、そこから王子は寝ずに考えた。父の危篤。初めは嘘だった。しかし、一千日目の朝早く……嘘は真実の手紙となって王子の前へと現れる。
王女が自分を心憎からず思っているという確信を得、王子はわざと引く素振りを見せたのだ。戦争が始まれば自分は死ぬかも知れない。二度と会えないかも知れない。僅かでも離れたくないと思ってくれたなら、策は成功。帰国が一日程度遅れても差し支えない。教えられた名をもって一千一日目の賭けへと望む。そして彼女を祖国に連れ帰る。……その、予定だった。
「……一千一日目、俺は二年以上も求め続けた彼女の真名を知る。しかし……あの日、あの時。俺の胸に咲いていたはずの恋の花は無惨なまでに枯らされた」
それしきのことで揺らぐ愛だったのかと問われれば、頷くよりあるまい。あの日に彼女を勝ち取る気持ちになれず、失望と絶望を抱いて国へと帰り、彼女の国へと戦を仕掛けた。愛していたからこそ誰より憎い。この上ない裏切りだと思った。
「しかし理様、貴方は神託を否定した。神の存在を許しても認めはしないはずの方」
ここで初めて菫姫が口を挟んだ。彼女の神とは何ぞという問いかけに、王子はすっと視線を上げる。
「神は居た。道を示す神が居た。だからこそ国には今日の法と掟、人には理性が宿された。しかし神は死んだのだ。故に世は荒れる。今を生きる者達は神の定めた道から外れず生きることが平和の作り方だと俺は長らく信じていたのだ」
信仰がないわけではない。神に縋りたくなる気持ちは解る。しかし神とは空気だ。きまぐれな風である。この手に掴み、言いなりに、良い方向に導いて貰うことなど不可能だ。そうなれば風の読みを世界の流れを読み、人道を説くことが王の道。
「戦場は人の道を理性を殺す。だからこそ戦争を殺す王は、誰より人の道を忘れてはならない。道はずれた王が作り出す平和など偽りに過ぎぬ」
責任は常に俺の中にあり、神など憎む対象には成り得ない。力不足を責められたくないのなら、才ある王になる努力を惜しむなと俺は叱咤されてきた。父の苦しみ、国の荒廃、それら全て父の嘆きで力不足そのものだ。
「理想で王は務まらぬ。しかし理想無き王は王に非ず。民に果てない夢を説き、その夢を叶える者が王である。その考えは今も変わらない」
「ならば理様、今の貴方は何故そんなにも愚かなのですか?」
「確かに俺は王だ。しかし王は道具ではなく、王も人だと背徳が教えてくれたのだ。死して守る国土が民が俺から奪われるなら、俺が守るべきは俺の心であるはずだ」
愛しいと思うこともあれから封じて来た。想いを告げることも許されないと頑なに拒んだ。真実を知ってそれでも、愛していると言えたなら。もっと早くに、言えていたなら。抱える苦しみを、悲しみを……どうして分かち合ってやれなかった?それが出来ていたなら、背徳が死ぬこともなかっただろうに。
あるかないかも解らない、天罰を恐れていた。人の目を、侵略の糸口を怖がった。愛した女を守れない、父と同じ過ちを犯すなかれと思うまま、愛していないと言い張った。それが何の解決になっただろう?嗚呼、何にもならなかったとも!
「背徳、俺が愛しているのはお前だ!今生にも冥府にもお前唯一人!お前と偽る菫姫など、母上などではない!菫姫!貴女の真名は倫落姫だろう!」
響く王子の告白、石像は冷たく受け止める。それで魔法のように王女が温度を取り戻すことはなく、その場が静まりかえるだけ。しかしその静寂の中、生まれるものがある。くっくっくっと確かに聞こえる。声を上げて菫姫が、とうとう笑った!笑っている!
「ふ、ふふふ、はははははっ!くくっ……理様、この私を笑わせるなんて愉快なお方!」
「笑った、確かに今!笑ったな菫姫っ!」
「いいえっ!」
この瞬間、賭には勝った。早く答えをと望む王子をピシャリと制止して、菫姫は冷たく言い放つ。
「貴方は賭けをご存知ですか?まだ私の手番が残っていることをお忘れですか?」
「何?」
「私の話で貴方が泣かないとも限りません。その場合はどちらも勝者、私達二人の望みが叶うと言うことですね?」
確かに石化の解き方は教えよう。しかしまだゲームは終わらない。菫姫はそう語る。
「それは卑怯ではありませんか?」
「少なくとも嘘は言っていやせん。見てご覧なせぇ、城主様は石にならずにいらっしゃる」
砦と死神の押収。悔しいが正論。死神に分がある。
ここで菫姫が勝てば、王子は答えは知っても、菫姫に仕えるという運命からは逃れられない。下手に石化を解けば、悪魔が王女を攫いに来るのをむざむざ見送ることになる。
「それにしても何処で私の名を?」
「あの城の回廊に掲げられた絵の女。タイトルがトラヴィアータ。それが貴女の正体だ」
「それでは私が背徳の母であると?」
「ああ」
背徳に似ているのを、血縁者だからと仮定するなら辻褄も合う。
「しかし、それなら母上というのはおかしいのでは?」
「いや、おかしくなどないぞ砦。彼女はこの俺の母でもあるはずだ」
「何と!」
砦が驚きながら、菫姫と王子を交互に見やる。
「もしも王女が女だったらと言う神託は、何も王が彼女を娶ろうとしただろうという話ではない。この俺が彼女を娶ることが、既に大罪になっただろう」
「……理、貴方はあの子にこの私、母の面影を求めていたのでは無いのですか?」
喜びの涙を流しても良いのですよと菫姫は微笑んだ。けれども王子はそれを拒んだ。
「俺は……私はそのような理由で背徳を欲したのではない」
初めはそうだったかも知れない。しかし今は違うと断言できる。
「あら、つれない言葉。それで理?貴方は真実をどう見るのです?」
席を立ち、ツカツカと王子に歩み寄る菫姫。そっと此方の手を取り、抱き寄せて感動の再会だと言わんばかりの抱擁を一方的に執り行う。
「貴女と父は恋人だった。貴女を父は戦争から逃すため海の向こうへ逃がした。そこで王に見初められた貴女は、私と父を捨て、あの平和な国の王妃になることを受け入れた。しかし貴女は父が即位後新しい妻を迎えたことが気に入らなかった。何も知らず、偽りの母を母と追い求めたこの俺を憎み、その復讐にこの俺を仕えさせようと言うのだろう」
「ふはははははっ!何を愉快なことを!お前は何も解っていないのですね」
女は腹を抱えて笑い出す。認識の相違の隔たりが、ここまであったのかと彼女は笑う。
「理、お前は私が背徳の父を愛し贅沢を好んだ女とお思いか?何を愚かな!私がお前を欲するのは愛する男との間に授かった、可愛い我が子だからこそ!」
「しかし背徳とて、貴女の子であるはずだ!」
「戦場で生まれ育ち、色恋のいろはも知らぬお前に女心が解るものか」
口元を下品なまでに釣り上げて、尚も女は笑い続ける。
「では、何故……」
伝承を、背徳を傍に置いたことこそが、愛するわが子への愛だったのではないかと王子が問いかけるも、菫姫はせせら笑う。
「あな憎し。男の身でありながら、この私よりも美しい!生まれながらこの私を、殺めたあの子が憎らしい!私はまだまだ生に満足していなかったと言うのに!私の人生はまだまだこれからであったはず!あの豊かな国を乗っ取り、あの人に捧げるはずだった!豊かなあの国が手に入れば、国は豊かに!私は世界の王の妻!最も尊き女になっていた!」
「母上……貴女は」
「しかし愛しいあの人も、老いて死ねば唯の男。若くして死んだ美しい私の魂には釣り合わない。しかしお前は美しく成長した。かつてのあの人より強く!若く!美しいっ!!そこで傍にお前を呼び寄せたいと思うのは何も自然なことでしょう?」
「私に触れるなっ!汚らわしいっ!」
我が子への愛とは違う、汚れた愛の指に頬を触れられ、王子は嫌悪感から女を振り払う。
「……お前も、私を拒むのか!?あのような女でもない女を!背徳を求めて何故私を求めない!私とあれの何が違う!答えろっ!」
「…………」
菫姫の叫びに、王子は真実を得る。ああ、父はこの女を捨てたのだ。国のためにと言いながら、愛の裏切りを犯したこの女を。確かに父への愛はあったが、自己顕示欲が底にある。それを理解し愛していても、その裏切りは許せなかった。
「……男とは、総じて愚かだ」
容易く、身を焦がす愛を見失ってしまう。それは愛した女の不貞であったり、恋愛遍歴だったり、愛した女が女ではなかっただとか、そんなくだらない事柄。
「しかし母上、貴女は別の事柄で愚かだと私は言おう」
「この私が、国のためにあの人の国のために身も心も捨てたこの私が愚かだと申すかっ!」
「ああ、言おう!貴女は愚かだ!」
「母に何と冷たい言葉を吐くのだ、理……」
悲しげに目を伏せられても、王子の胸は痛まない。こんな者が母かと思うと、その身勝手さにはほとほと呆れてしまった。
「父が、貴女にそんなことを頼んだか?」
策に使われ殺されるような駒同然の王妃。それでもその名が王妃だとされることが気に入らない。そんな嫉妬を起こすなら、何故父の気持ちを理解できなかったのだろう。他の男と結婚し、他国での信用を勝ち取るため子まで為した?それが国のためだったと?それで国が富んで父は満足するだろうか。
「貴女は父への愛も捨てきれず、他国での地位と財にも目が眩み、自分勝手に生き……死して尚、俺と背徳を振り回すのか!?」
吐き捨てるよう、王子は激昂。この女が生きていたのならこの場で叩き斬ってしまっていただろう。
「……確かに男は愚か。あの人もあの男もお前も皆愚か。お前は余程あの娘でもない娘に入れ込んでいるようですね。では話して差し上げましょう。これできっと理解いただけるはず。私があれを我が子としてではなく使用人として扱き使いたくなった理由が分かるというもの」
王子の怒りに触れ、少し落ち着きを取り戻したような菫姫。口調を僅かに背徳を真似ていた頃へと戻し、にたりと微笑んでみせる。
「これより話しますは貴方が愛して止まないその娘。『背徳の王女』の物語。さぁ、お選びなさい理様。私の話で泣くか泣かぬかを!」
というわけで菫姫の正体。
トラヴィアータな名前的には椿姫ですがね。
菫→ヴィオレッタ→検索→椿姫→ラ・トラヴィアータ→トラヴィアータ→倫落
んじゃこれで。
背徳の王女と理の王子の母ちゃん。二国の王を股に掛けるとんでもない王妃様。
よって王子と王女が異父兄弟。




