5.三月
5. 三月
椿の指先をよく思い出す。椿の指は細くて長く、とても綺麗だったが、男の人のそれはあたしたち女の子のとはすこし違って骨っぽく、ごつごつとしていた。爪のかたちも整った卵形で、マニキュアなどを塗らなくても桜貝のような淡いピンク色をしていた。口元にごはん粒がついてる、やら、マスカラが取れてる、やら、その指はたびたびあたしの顔のごはん粒を取ったり、汚れを拭ったりした。一緒に昼寝をしたあとなんて、不覚にもよだれを拭かれてしまったことまであった。なんて恥ずかしい思い出なのだろう。
あたしのあらゆる場所を探る、椿の指、指、指。そのあたたかみや感触を、いまはまだ鮮明にのこっているそれらを、いつかは忘れてしまうのだろうな、と思った。それだけであたしのからだは竦んでしまって前に進めない。
明後日から新年度がはじまる、という日の夕方、その電話をはじめに取ったのはあたしだった。
「みすずちゃんね」とそのひとは穏やかに言った。やわらかな女性の声。
「侘助の母です。あなたにも大変お世話になったわね。修司君はいらっしゃるかしら」
はい、こちらこそ、兄に代わります、と行儀よく言ってあたしは電話の保留ボタンを押した。椿とは、一週間まえにこの部屋で会った。しかしここのところ、泊まって行くことはせず、夕食さえ食べていかない。修司は椿と、もう一ヶ月くらい顔を合わしていないのでは、と思う。
修司はいましがた仕事から戻ったところだった。椿の母さん? すでに部屋着に着替え終えていた彼に電話がきている、と言うと、修司は不思議そうに首をひねった。電話の内容について、あたしにも修司にも、まったく心当たりがなかった。
青天の霹靂。あたしたちは何度それを経験しなくてはいけないのだろう。
翌日は葬式日和、とでもいうべき天気だった。明日から四月だというのに、いやに肌寒く、風は頬を刺すようにつめたかった。空は一面どんよりとした灰色の重たげな雲で覆われていて、その重みでいまにも落っこちてきそうだった。低気圧のせいでじくじくと偏頭痛がした。昨日はいい天気だったのに。
朝から、あたしと修司は一言も口を訊いていない。椿のお母さんからの電話のあと、通夜からアパートに戻るまで、修司の行動は非常にてきぱきとしたものだった。しっかりとした口調でお悔やみを申し上げ、通夜の時間を訊ね、お手伝いできることがあれば何でも申し付けてくださいね、と言って電話を切り、突然すぎる訃報に茫然とするあたしに制服を着るように言うと、自分はすぐさま喪服に着替えた。ぐずぐずしているあたしをいさみ、そうしているうちにシンクに重ねてあった皿をぴかぴかに洗うと、ついでに掃除機までかけてしまった。通夜の席で、あたしは泣かなかった。修司も泣かなかった。今日はベッドで眠っていいよ、と椿家で持たされた鮨折りを片手に帰宅してすぐ、修司は言った。俺は鮨食べたいしまだ寝ないから、と。お言葉に甘え、すぐに寝る用意をし、布団に潜り込んでしばらくが経っても、まぶたは一向に重くならなかった。一緒に布団に入ってもらおうとリビングに戻ると、修司はこちらに背を向けた状態でダイニングテーブルに座っていた。彼にとってこれはずいぶん珍しいことだがまだスーツ姿のままだった。テーブルに両肘をついて白ワインの入
ったグラスを額につけるようにして、修司は泣いていた。鮨折りは開かれてもいなかった。入口からだったので顔は見えなかったけれど、彼の背中と纏うものではっきりとそれはわかった。もらい泣きしやすいあたしなのに、なぜだかそのときばかりは涙がでなかった。ただその場でぼんやりと立ちつくしていた。
あたしは薄情なのかな。永遠に感じるほどにつづくお経をききながら、あたしは思った。お葬式は椿家で行われた。出席者のほとんどが身内のようで、あたしと修司のような若者はあまりいなかった。告別式は明日にする、ということだったので、友人たちは明日揃ってやってくるのかもしれない。社交的な椿には、友人がとても多かった。
あたしたち兄妹は、式のはじまる時間よりかなりはやくに椿家を訪れ、すこしだけお手伝いをした。椿のお母さんはとても綺麗なひとだった。涼しげな目元とすうっと通った鼻筋、耳のかたちが椿にそっくりだった。修司君とみすずちゃんのお陰で助かったわ、と彼女は疲れた顔でほほえんだ。電話口ではわからなかったが、まあ当たり前のことなのだけど、椿のお母さんはすごく疲弊した風だった。
式がはじまるそのまえに、どうしてもしなくてはいけないことがあった。お茶出すわね、と立ち上がった椿のお母さんの腕を、あたしは掴んだ。お母さんは驚いた顔をしていた。
「侘助椿を、みせてください」
あたしの顔は、鬼気せまるほどに真剣だったと思う。
ふすまを取っ払ってひとつなぎの部屋にした和室を抜け、板張りの廊下を歩き、ふたつ角を曲がると中庭にでた。中央に趣ある小さな池があり、立派な錦鯉が二匹、貫禄たっぷりに悠然と泳いでいた。風格のある石灯籠の奧にはいろんな木が植えられており、待ちわびた春の訪れを祝うように色とりどりの花――そのなかにはもちろん椿もあった――を咲かせている。赤、白、ピンク、レモン色……縁側を降りた椿のお母さんにつづき、あたしもあわてて揃えてあったつっかけを借りて庭に降りる。石灯籠の脇を通り、彼女は一本の木のしたにしゃがみこんだ。白い、小ぶりで控えめな花をつけた、あたしよりすこしだけ背の高い木だった。
「これよ」
こちらを振り返りもせず、いとおしそうにその葉を撫でながら、お母さんはやわらかな声で言った。このひとはこんなに疲れて悲しみの底にいるはずなのに、どうしてこんなにあたたかな声をだせるのだろう。あたしは神妙な顔でうなずいた。ぎゅっ、と下唇を噛みしめて。
「可愛らしい花でしょう」
「ほんとうですね」
椿らしくもなく、と言いたかったが失礼なので自粛した。しかし椿のお母さんの方がそれを言った。
「全然、あの子は似なかったわね、この花に。全くの名前負けだわ」
笑うべきなのか悩んだが、振り向いた彼女がふんわりほほえんでいたので、あたしもほほえみ返した。
「椿の花はみんな、花期が長くてね。でももうすぐ散るわ。こう、首のところからぽとっとね」
「……。」あたしは黙ってきいていた。
「だけど美しいでしょう。花はもちろん、葉のしっとりとした光沢感も、木の立ち姿も。名字がそうだからっていう贔屓目で言うわけじゃないけど、私は花の中で一番椿が好きよ」
そうですね、とあたしは静かに相槌を打った。沈黙があたしとお母さんのあいだを、錦鯉のように悠々と泳いだ。
すこし経ったあと、無礼きわまりないことかもしれない、と迷ったが、失礼しますと言ってあたしは携帯のカメラを構えた。ぴろりろりん、というまぬけなシャッター音。ちいさな画面のなかで、椿はお行儀よく、控えめにかしこまっていた。お母さんがしゃがんでいる地面には、すでに頭ごと散ってしまったつつましやかな白い花がたくさん落ちていた。
ぴろりろりん、ぴろりろりん、ぴろりろりん。あまりにも今日の日にそぐわない、そのまぬけた音が、その場を去ったあといつまでも、耳にのこっていた。
お焼香を終えるとすぐ、帰るよ、と修司は言った。まだ居たいと思ったが、あたしは無言でうなずき、修司のあとにつづいた。帰るまえに挨拶がしたかったけれど、迷惑になるからと修司にたしなめられたのでそのまま椿家をあとにした。
アパートまでの帰路、手を繋いで帰った。寄り道をしてスーパーでどっさりごちそうの材料を買い込み、それぞれひとつずつ片手に提げ、余った手と手をふたたび繋ぎ合った。
「知らなかった」
病気のこと。ぽつり、とこぼした修司のひと言が、惨めな色した空にのぼって溶けた。それきり修司は口をつぐみ、それに対してあたしも相槌ひとつ打たず、お互い無言のままに帰宅した。
玄関に入るなり、荷物を乱雑に床にほうり投げあたしたちは抱き合った。そうしたくてたまらなかったのをずっとずっと我慢しいたのだ、といわんばかりに。そしてひとつの儀式としてのキスをした。長い時間をかけて。普通の兄妹ならまずしないこと。それを終えると、ひと区切りがついたようにあたしたちは解散し、お互い示し合わせるでもなくそれぞれの業務に取りかかった。修司はお湯を溜めに浴室に向かい、あたしは買い込んだ食材を丁寧にひとつひとつ冷蔵庫に閉まった。ふたたび集合し、浴槽につかり、ふたり向かい合ってもまだ、あたしたちは黙り込んだままだった。
夕飯には腕を振るった。携帯のレシピサイトをみながら料理をこなすあいだに、修司は風呂を磨き、トイレを洗い、掃除機をかけて床を拭いた。だいの音楽好きである修司が、BGMもかけずに。
部屋がひととおり綺麗になったころ、ようやく食事の用意が済んだ。ダイニングではなく、ソファまえのちいさなガラステーブルで、あたしたちは食事をすることにした。まるで宴会のように華々しい料理ばかりになった。修司が椿の白ワインをだしてきたので、あたしはグラスを取りにキッチンに戻った。水屋の戸をひいて、三つ取りだしてから、思いなおしてひとつ棚に戻した。
「ではあらためて」
リビングに戻ったあたしが座ると、修司は言った。昨日の夕方から、はじめての笑顔でもって。
「故人の冥福を祈り、告別式をはじめます」
乾杯。
弔いの席で、乾杯って変じゃない?
そうか。
そうだよ。
じゃあ何て掛け声かけるんだろう?
……わかんない。
乾杯でいいよ、あいつはそんなことじゃ怒らないよ。『そんなことより飲もうぜ、はやくさー』。
超言いそうー。
じゃ、乾杯。
乾杯。
グラスになみなみと注がれた液体を、あたしは一気にぐびぐびといった。
つめたいはずのそれは食道から胃に向かって一直線に落ちた。つうっとあたたかいものが体内を這っていく感じがした。修司も一気に飲み干して、ぷは、と息をつき、それから「俺ほんとうはさ、ワインってあんまり好きじゃないんだよね」と告白した。
「そうなの?」目をまるくして言う。いまはじめてしった。
「甘い酒って嫌。あいつもびっくりしただろうな、言えよ! って」
「驚愕の事実だ」
「死人も驚愕の事実だ」
一気に煽ったせいか、アルコールはすぐにあたしの血液を支配し、からだ中にまわった。これ以上飲めば確実に気分が悪くなるだろうことは簡単に予想できたので、あたしはおとなしく飲むのを止め、のこりをあまりワインの好きでない修司に任せた。そのかわりたくさんたべた。もりもりとたべた。お腹がはちきれそうになるまで、たらふくたべた。
修司もめずらしく酔ってしまったようだった。昨夜ろくに寝てないせいかもしれない。うつらうつら、とまぶたを重たそうにしだしたので、もう寝なさい、とあたしは言って立ち上がった。修司を寝室に連れて行くために。あたしに片手を引っ張られながら、修司は「ねえ、みすず」と言った。そしてされるがままに立ち上がったかと思うと、そのままあたしを抱きしめ、ソファに倒れ込んだ。
「修司!」
「セックスしよう」
修司は酔っているとは思えないほど、まじめな顔をしていた。そのままキスをされる。
あたしの唇をいつくしむように、やさしく、やさしく、丁寧に愛撫しつづけた。そんな官能的なキスの合間、好きだよ、と修司は何度も何度もささやいた。あたしは身を固くした。
「できない? 俺とは嫌? 椿が好きだから? あいつに抱かれたから?」
そんなあたしの様子をみて、修司はかなしそうに言った。ひとつひとつの言葉が重く胸に落ちる。あたしは首を振った。だめだよ、と。
「兄妹だから?」
「……。」そうだよ、でもそうじゃない。
「今夜くらい忘れればいいよ。俺は俺で、みすずはみすずだ。十分じゃないの?」
ふたたびキスが降ってくる。こんなのまっとうじゃない、とあたしは思った。
たしかにあたしは修司を愛している。幼い頃からずっと、修司以外のひと、椿をしってからいまなおも。長年の思いがいま、実を結ぼうとしている、そう思ってみたけれどちっともうれしくなかった。まっとうじゃない。兄妹だから、とかそういうことではない。こんなのは違うと思った。そうしたら、椿が死んではじめて涙がでた。
椿には、結局いちども好きと言わなかった。あたしは彼を、修司とおなじくらい大切に思っていた。椿も言葉にはしなかったが、からだを通し、何度も何度も好きと伝えてくれた。あたしも何度も何度も好き、と思った。ちゃんと伝わっていたのだろうか。伝わっていなかったかもしれない。好き好き、と、からだでは言いながら、性交のあとで椿は平然と、みすずは友達だ、なんてことを言った。あたしは椿とのあいだにいつも浮遊していたもののことを思った。
とろり、としていて、甘ったるくて、あたたかい、というか、生ぬるいもの。修司とあたしのあいだにあるものとそれとは、全然違ったものだった。
恋人のようだが恋人でない、兄である修司と、兄とも恋人ともつかなかった椿。なんだったのだろう。考えても考えても考えても、よくわからなかった。あたしと椿のあいだにあったもの。それは一体、なんだったのだろう。
あたしの涙をみて、修司は苦そうに表情を歪め、それからひっそりとほほえんだ。
「俺達はどんどん周囲をなくしていくんだな。ふたりぼっちだな」
その目が涙に潤んでいるのをみつけ、あたしは力いっぱい修司の頭に抱きついた。ぎゅう、っと抱きしめると、修司の匂いがした。甘くてやさしい、いとしいひとの匂い。椿とはまったく異なる、兄の匂い。
あたしは恋人のようなものをなくしたけれど、修司はたったひとりの親友をなくしたのだ。五年六年来の親友。あたしなんかよりずっとずっと、何倍も何十倍も、修司のほうがつらいに決まっている。ぎゅうぎゅう締めつけるあたしの腕のなかで、苦しいよ、と修司が言ったので、あたしはすこし腕の力を緩めた。それから、泣いていいからね、と思った。
両親を亡くしたあたしがこのアパートにやってきた当初、まだ現実と過ぎ去ったものとが複雑に交錯し、混乱することがあった。
日曜日の朝に目を覚まし、いけない、いい加減家に帰らなきゃ母さんに怒られる、とあわてて荷物をまとめようとしたこともあった。「みすず!」と修司のどなる声がしてあたたかい腕に抱きしめられ、そのときやっと、母が死んだのだ、ということを思い出した。それ以外のときにも、死人はたびたびあたしの周囲を漂っては記憶をかき回し、そのたびに絶望を繰り返した。
あたしは後悔をしていた。もっと椿にやさしくしてやればよかった、と思った。
いつか、あたしがふたたび笑えるようになったのは修司のおかげで、そのうち一割ほどくらいは椿の手柄かもしれない、と言ったことがあったが撤回する。修司と椿、とんとん、とは言えないが、6:4、ぐらいであったと認めてもいい。
祈っても祈っても、死人はかえってこない。ほんとうはちゃんとわかっている。生きていた人間が死人になっても、その逆はありえない。死人はずっと死人のままなのだ。当たり前のことだ。
いつか椿が言ったのは、そのことだったのだろうか。
いまは延々とつづく闇しかみえないが、いつか視界は晴れるのだろうか。
あたしは修司の頭をいつまでも抱きしめていた。時間がかかったとしても、今度はあたしが、修司を元気にしないといけない、と思った。
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