4.二月
4. 二月
パチスロで小金を儲けた椿が正月に韓国鍋――真ん中に仕切りがあり、二種類のダシを入れられるようになっている鉄鍋だ――を量販店で買ってきて以来僕らは度々鍋をするようになった。ささやかな祝事がある時ない時、いろんな名目を取り付け鍋を囲んだ。二種のダシを堪能出来るこの鉄鍋には沢山の可能性があった。しかし大抵の場合は、みすずがどうしても食べたいしゃぶしゃぶと椿がこれだけは譲れないすき焼きと、その二つで構成される。時たまどちらかが決定権を僕にも与えてくれて、片方がチゲやちゃんこになったりするものの、大概は昆布ダシのしゃぶしゃぶと甘辛い割下のすき焼きになる。結局鍋ならどんなものでも好んで食べる僕には「絶対にこれ」といって強く主張出来るほどにも好きな鍋などないのだった。
「おまえのためにいい肉買ってきたんだから、がんがん食って大きくなれよ、修司」
「もう大人なんだから大きくなるも何もないよ」僕は苦笑する。
「修司がこれ以上大きくなったらちょっと困る」むすり、とみすず。
「はは、たしかに」椿はけらけらと笑った。
二月最後の土曜日、椿に遅れること四ヶ月僕は二十四歳になった。今日はそのためのお祝いらしい。太っ腹な椿は駅前の商店街で黒毛和牛の高級肉を買ってきてくれた。僕らの食卓では普段滅多にお目にかかれない代物だ。全部で2キロも買ったという。恐ろしくて一体いくらであったのかなんて訊けなかった。誕生日なんだから二種類とも修司にえらばしてあげる、とみすずも親切に言ってくれたが、とくにこれといった主張のない僕が選んだのは結局いつもと同じ二種だった。昆布ダシのしゃぶしゃぶとすき焼き。
「あ、たいへん、椿。割下がもうない、つくって」
「え、おれがつくんの?」
「あたしは修司のお肉をするのに忙しいもの」
「おれが代わってやんよ」
「だめ」
「なんでだよ」
「椿がしたほうがおいしいから、割下。おねがーい、ね」
「しょうがねーなあ」
ここ最近気付いたことがある。椿とみすずの仲の良さが以前に増して加速しているのだ。僕とみすずのあいだにあるそれとは少し異なった空気みたいなもの。目には見えないはずのそれがだんだんと浮かび上がってくるようなのだった。
以前週に四〜六日のペースでアパートに入り浸っていた椿だったが最近は少し頻度が落ちている。女と遊んでいるのかと思っていたが、椿は「最近風邪を繰り返してさ」と言う。おまえたちにうつしちゃ悪いと思って実家に戻ってんだよ、偉いだろ、と。
基本的に椿は彼女を作らない。必要なときに必要最低限の関係でいるのを好み、特定の女と付き合う時でも一人に絞られるようなことはまずなく、複数人と関係を持つことにしているようだった。椿いわく「女の子はみんなかわいいから好き」だし「もったいなくてひとりには絞れない」からだそうなのだが、ここ数ヶ月特定不特定に関わらず女の子と遊んでいる素振りがない。それどころか仲間との夜遊びする頻度もどうやら急減しているらしく、この一ヶ月ほどは風邪を引いて実家に篭もっているか僕らのアパートに入り浸っているかの二択になっている。鍋の名目には“椿の快気祝”というのも度々あった。
まだ未成年とはいえみすずももう一人前の女の子だし、兄である僕とほぼ同じ頻度でここ一年半以上も顔を合わし関わる男に対して好意を抱くようになるのは、当然と言ってしまえば当然のことだ。こうなることぐらい簡単に想定できたはずなのだ、僕には。身が心が裂かれる思いではあるがそれはもう仕方ないことだと最近は諦めはじめていた。
ただ一つだけ納得出来ていないことがあるとすれば、みすずも椿もそのことについて僕に全く何も触れないことだった。甘くてとろりとした何かが彼らのあいだに存在することは隠しようもない程明らかであるのに、気を使ってかそれ以外に理由があるのか僕には何も言わないのだ。これは背徳を犯した僕に対する罰なのだと、非常に親密な空気を醸し出す二人を横目に割り切ったつもりでいるが、正直に言えば辛かった。辛くないとは嘘でも言えない。
「椿ね、」とみすずが始めたので僕は慌てて我に戻る。
「あれからたびたび、パチ屋に出入りしてるのよ」
「あーっ、それだけは修司に言わないでって」
「お前、もうみすずを連れて行ったりはしてないだろうな」
してません、椿は少ししおらしく言った。
「修司がお説教しないとだめだものね、わびすけくんは」
思わず苦笑してしまう。本人は茶化すつもりでわざとこういうときだけ侘助などと呼ぶのだろうが、その名前さえ最近までは知らなかったはずだった。僕は一度も椿を下の名前で呼んだことがないのだし、紹介すらしていないのだから。
「悪いとは思ってるんだよ」
みすずが寝静まってから僕達はダイニングで晩酌をはじめた。鍋とコンロはすでに片付けられ、テーブル上には椿のワインと僕がこしらえた即席の肴が数品のっている。アボガドの刺身、ツナとキムチを炒めてとろけるチーズをのせたもの、ダシ巻き玉子とチーズ各種。夕方からたらふく食べたというのに、酒が入るとどうして食欲が留まることを知らなくなるのだろう。
椿はずっと穏やかな様子だった。とくに何も喋らずに僕らは無言のまま肴をつつき白ワインを喉に流し込んだ。そうして半時間ほどが経った頃唐突に椿は言ったのだった。悪いとは思ってるんだよ――。
「何が」思いのほかひんやりとした声になった。「パチスロのことなら別に。そんなことで俺が怒るはずないだろ」
「そのことじゃないけど」
わかってるさ、と僕は憮然と思った。わかってるさ、もちろんそんなこと。
「みすずのことだって別に、お前が悪いと思う必要はないよ」
「……。」気付いてたのか、と目が言っている。僕は息を吐いた。
「悪いことじゃない。人が人を好きになることは当然のことだ」
椿はしばらく目を伏せワインの半分残ったグラスを弄んでいた。それからぽつり、とこぼした。
「修司は絶対怒ると思ってたんだけど」
「俺はそんなことじゃ怒らないよ」僕は呆れた。「そんなことを怒るほど心が狭かったらこんな風に家を出入りさせないよ、そもそもね」
「でも大事だろ、みすずが」
「大事だからこそ、妹が誰かを好きになったのなら全力で応援しようと思ってる」
椿は眉を下げて笑った。
「ほんとにおまえ、出家したらどうなんだ。本物の坊さんのほうがまだ煩悩だらけだと思うけどな」
「そんなことない。俺はお前が羨ましいよ」お前になれたら、っていつもそればっかりだ。そしたらこんな風にインセスト・タブーについて悩むこともなかった。
「……おれは逆におまえがうらやましいのに」
そう言って椿はグラスの中身を一気に空けた。
おれは逆におまえがうらやましいのに。何度か口の中で反芻させてみたが、その意向はわからなかった。
「いつから?」
「もうかれこれ五ヶ月ちかくになりますかね」
僕は愕然とした。思わず高い声が出てしまう。
「そんなに?」
「言うタイミングがわからなかったんだよ、ごめん」
「……。」
「みすずの気持ちもわからなかったし、」というかいまもよくわかってないけど、と少し自嘲気味に笑った。
「わからないことないだろ」僕はため息と共に苦く笑った。「お前のこと大好き、っていう、もうオーラがさ」
そうなの? 椿は目をまるくした。呆れることばかりだ。
「お前の方が専門だろ、恋愛に関しては」
「おれはただ女の子が好きだっただけだよ」苦笑してボトルに手を伸ばす。それを制して僕がワインを注いでやる。
「過去形になってるぞ」
「もうみすずだけで十分だから。去年――もう一昨年か――おまえが彼女と別れることにした気持ちがわかるよ、いまになって」
「なかなか手がかかるだろ、うちのお嬢様は」
「いっぱいいっぱいだよ、みだされっぱなし」
肩をすくめてみせた椿であったがその笑顔はとても嬉しそうだった。僕は諦めて微笑んだ。結局のところ僕は彼らが幸せだったらそれでいいのだ。
「大事にしてやって」そっと言い、ボトルが空いてしまったので冷蔵庫に新しいのを取りに席を立った。キッチンから戻ってきても、椿は俯いたままだった。彼はそのまま十分間ほども黙り込んでいた。
「……どうしてお前が浮かない顔をするんだ」
「悪い、って思ってんのはさ」
「付き合ってることだろ、別にそれは」
「いや」
どうも嫌な感じがして僕は眉間に皺を寄せた。何が言いたいんだ?
「おれ、みすずとは付き合ってるわけじゃないし」
は、と言った僕はきっと間抜けな顔をしていたことだろう。
「まだ、とかじゃなくて、これからもずっと友達だから」
「よくわからないな」
「でも好きだ。どうしていいかわかんねえくらい、みすずのことになると。みすずを抱きたいと思うし、実際そうしてる。おれの子供を産んでほしい」
そして椿は信じられないことを言ったのだった。
「……そのときはさ、お前とみすずの子として育ててくれないか」
耳を疑った。つい半笑いになってしまう。椿、それはどういう、
「結婚できないじゃん、おまえら。けど子供欲しいだろ」
「お前何を言ってるの?」
「みすずも、やっぱり一番はおまえのことが好きだと思うし。おれはずっとあいつと一緒にはいられないから」
「だからどういう」
「こんなこと、修司だから頼めるんだ」
「勝手なことを言うなよ!」
僕は声を荒げてテーブルを殴った。
「どういう意味だ? みすずの気持ちはどうなる」
「悪いとは思ってる」
「悪いで済むかよ。いい思いだけしてあいつのことを捨てるって言うのか?」
「違う」
「もしかして」僕は一度口をつぐんだ。指先が痺れていた。「コンドーム着けないでしてるんじゃないだろうな」
ちゃんと着けてる、と静かに言った椿は目を閉じ、ダイニングチェアに背中を預けて深くからだを沈めていた。僕は息を吐いて首を振った。酔ってるのだ、そう結論づけた。
「変なこと言ってないでさ、お前もう寝ろよ」明日は休日だ。ゆっくり休めばいい。いまのやり取りで急激に疲労が押し寄せてきたが僕は椅子から立ち、椿の横に回って彼を立ち上がらせた。寝室に連れて行くために。椿は目を閉じたまま僕に身を預けていた。そしてふふ、と息をもらした。
「修司しってるか?」
「何だよ」うまく歩けない椿を引きずるようにして運ぶ。ちゃんと一人で歩けよ酔っ払い。
「侘助椿ってさ、種子ができないんだぜ」
僕は答えなかった。ずるずる引きずられながら椿は続けた。
「雄しべの花粉袋は退化してるし、そもそも子房に胚珠がないんだ。だから子孫を残せない。枝を切って、植えてやるしかないんだ」
なんで息子にそんな名前を付けるかな、さもおかしそうに椿は笑った。どういった心積もりでそんなことを言い出すのかはわからなかったが、僕は適当に相槌を打った。
「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない」
なんとかベッドまで運び寝かせるとそんなことを言う。
何で寺山修司なんだ? と訊ねたがすでに眠ってしまったのか椿は答えなかった。
翌朝、僕達は三人で朝食を食べた。食パン――近所にとても評判のいいパン屋があり、そこの食パンには卵も牛乳も使用されていないのだが他の食パンではちょっと有り得ないほどもちもちとしていて絶品なのだ――にチーズをのせてトーストし、缶詰めのコーンをたっぷり入れたコーンスープと林檎を食べた。椿は昨夜の一悶着について何も覚えていないのか嘘みたいにすっきりとした顔をしていた。
「動物園に行こう」
朝食の席でみすずが唐突にそんなことを言った。彼女に甘い僕と椿は二つ返事をし、十時になると家を出た。
道中も園に着いてからもいつになく椿は大人しかった。酔いが残ってるのかもしれない、と僕は勝手に思い込んでいた。
みすずの好きな動物を好きな順で好きなだけ見て回り、お昼過ぎには園を後にした。昼食はどこで食べよう、と僕とみすずが思案を始める横で椿は「おれは帰る」などと言い出した。
なんだそれは? と僕は訊ねた。ほんとうにわからなかったのだ。
「どうせ家で飯食うのなら、一緒に食べてから帰ればいいじゃないか」
「いや、腹減ってないし」
「帰り道に何でもあるんだから。お前は横でコーヒーでも飲んでればいいよ。俺達は腹減ってるんだから付き合え」
「じゃあおれ電車で帰るよ」
「どうしてそうなるんだよ?」僕は眉をひそめた。
「おれのことは気にするな、ふと寄り道したくなっただけだよ。ふたりで好きなもん食って帰ればいいじゃないか、兄妹水入らずでさ」
「わがままな奴だな」
何か変だな、と思ったが椿はいつでもそういう奴だったと思い直した。一度言い出した主張を途中で変えることなんてまずない。気まぐれでわがまま、その上頑固。困った親友なのだった。
結局この日僕達は動物園前の駅で別れた。それから何度か電話でやり取りはしたものの、僕が椿に会ったのはこの日が最後だったと思う。
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