3.新年1月
3. 新年一月
今年の冬休みこそはバイトを始めよう、と思っていたのだが、椿と修司がおおいに反対(これから社会に出たら嫌でも毎日働き倒さなくちゃいけねえんだから。貴重な青春の一時をどぶに捨ててまで苦労することはない、と椿。いまの暮らしに不満があるんだったら俺がもっと頑張るから、と修司)したため、あきらめた。
クリスマス――たのしいクリスマスだった。修司からはかわいいペンダントも貰った――も済んだ年の暮れ、時間は持てあますほどあったので、ネットでレシピを調べておせちを作ってみた。田作り、数の子、黒豆、伊達巻き、栗きんとんに、棒鱈、エトセトラ。
大晦日の晩は修司の運転で、隣の県まで初詣にでた。誰もかれもが参拝したいらしく、神社の手前2キロからすでに、凄まじい渋滞を起こしていた。痺れをきらした修司は渋滞を逸れてちかくのコンビニに車を停め、そこからは歩いて神社をめざすことになった。敷地内は人の波で、まっすぐまえに進むのもままならなかった。真夜中に、頬が凍りつきそうなほどの寒さのなか、わざわざ手を合わるためだけにこんな場所までくるなんて、と思うと不思議な気分だった。気温零下のなか、三十分以上も並んで参拝の順を待った。参拝が済んだらお汁粉を食べよう、という話であったが、ならんでいるあいだに三人ともがすっかりくたくたになってしまい、あたしたちはすみやかに神社を出てふたたび四十分ほど(!)かけて坂を降り、車を停めたコンビニまで歩いた。歩きながら、これから参拝に向かう車の数を数えた。駐車場入口からずうっと数えて、ざっと二百台。この国の住人ながら日本の風習ってほんと変わっているよなあ、としみじみ思う。結局この日のハイライトは、車に戻ってみんなでコンビニおでんを食べたことだった。
二日の日、あらためて近所の神社でお詣りをした。くじを引いたら、あたしと修司は兄妹そろって末吉、と冴えなかった。それを見て椿はとても得意そうな顔をした。なんだった? と訊かれるのをいまかいまか、と待っている風だったので(わかりやすい奴なのだ)、あたしたちは無視を決め込んだ。構わず目の前で大吉のくじを振りまわす椿。見た目よりずっと短気である修司はそれをさっと取り上げ、ぐちゃぐちゃと丸め、ぽいとほうり投げてしまった。椿は本気で怒った。
「何をお願いした?」と修司が訊ねた。訊ねられたら嫌だなあ、と思っていたところだったので、もぐもぐ言ってしまう。
「修司とうまくいきますように」、椿がにやにやと耳元で囁いた。小学生みたいなことしないでよ、とあたしは睨んだ。
「修司は?」
「また一年、みんな健康でいられますように」
「修司らしい」
「健康第一、だからね。椿も病院開いたら絶対予防接種して来いよ、絶対だぞ」
「しつけーなあ、修司は。わかったって言っただろうよ」
椿は心底鬱陶しそうな顔をして右手の小指で耳の穴を塞いでみせた。
元旦、椿が風邪っぽいなどと言うので、うつすなよ、と容赦ないあたしたちは口々に言った。インフルエンザかも、と椿。あたしたち兄妹は幼い頃から毎年秋が深まると、必ずインフルエンザの予防接種に行かされた。今年も例にもれずに十月末には行ってきた。ひとり三千円を払って。おれは予防接種なんてしないのだ、と椿がのたまったものだから、説教好きの修司はここぞとばかりに延々とはじめた。インフルエンザのおそろしさについて、いかに予防接種が大切かについて。防げる手段があるのならそれらをぬかりなく、完璧にやり遂げるべきだ。大体、お前は外から戻った時うがい手洗いもしないじゃないか。そこからはうがいと手洗いの重要性に話は逸れ、みすずもちゃんとききなさい、となぜかあたしまで巻き込んで、くどくどくど、とありがたい説教はつづいた。修司は、あたしたちのお父さんだ。どんどんうちの父さんに似てきている。
父さん。文学が大好きで、物心がつくまえから寝るまえには宮沢賢治を読み聞かせてくれていた、らしい。覚えていないけれど。お前は銀河鉄道の夜がなにより好きでね、毎日のようにそればっかり読んだな、といつか言っていたが、いまでは銀河鉄道の夜がどんな話であったのかも覚えていない。小学生になれば夏目漱石をとくに読まされた。坊ちゃんやこころ、三四郎。吾が輩は猫である、はいまいち理解できず、途中で断念した。それを機に、最後まで読まずに断念する、というずるをおぼえてしまい、度々するようになった。しかし、本を読み終えると必ず感想を訊かれるので、最後のページだけ暗記するつもりで何度も繰り返し読んだ。暗誦【あんしょう】を交え、すこしさびしい気持ちになった、最後は幸せそうにみえたから安心した、だのと適当に言えば、父は満足してあたしの頭をなでてくれた。そういうとき、あたしの幼い良心は、すこしだけずきん、と痛んだ。ほんとうにごめんなさい。と、いまになって思う。
詩と俳句をとくに好み、家族で出掛けるたび外出先で一句詠んだりした。父は母と、大学の俳句サークルで出会い、恋に落ちたという。
しかし、そんなふたりも、もうこの世にはいない。
両親と三人、父の運転で旅行中、居眠り運転のトラックと正面衝突した。一昨年の夏のことだった。相手のトラック運転手と両親は即死、重傷を負ったもののあたしだけが生きのこった。お葬式は入院中に終わってしまった。父にも母にも兄弟はいなかったし、どちらの祖父母もはやくに亡くしており、親戚はいなかった。あたしと修司はふたりきりになってしまった。退院の日、修司が「父さんも母さんももういないけど、俺はずっとみすずと一緒にいるから。安心しろよ」と言って笑い、堪えきれなかった分の涙がその目からこぼれ落ちたのをみて、あたしは、一生修司のことだけ好きでいよう、と思った。
――しんだひとたちが戻ってきますように。
去年の初詣にも、両親が亡くなってから何度も何度も、そんなことを祈った。馬鹿なことであってもあたしは本気で祈った。祈ることを止められなかった。でもそれを口にだすのはいけないことだとわかっていたから、願いについて訊かれると嫌だなあ、と思っていた。嘘も嫌だったし、なによりもう、修司にかなしんでほしくなかった。
ふたりでもいまは十二分に幸せだった。そのうちのたった一割くらいは、椿のお手柄であると認めてやっても、まあいいかな、と思う。
「エクスタシーチャーンス!」と椿が興奮しきった声をあげた。あたしも思わず息をのむ。スロット左端は中央に赤い7。どきどきして椿の横顔をうかがうと、普段みたことのないような真剣な面もちをしていた。中央のボタンを押す。今度は中央に緑色の7。つぎ。あたしは思った。いつの間にか、唇を噛みしめていた。つぎだ、つぎで決まる。緊張のあまり息ができなくなりそうだった。覚悟を決めた椿の指が、右端のボタンを押した。一瞬、騒音公害と認定してしまっても誰も損しないだろうほどに煩いホールがしいん、と静まり返ったような錯覚に捕らわれた。中央に、緑色の7。キモチいいー、と色っぽい女の子の声がし、あたしと椿は椅子から飛びあがって大騒ぎした。スーパービッグボーナス確定だ。
翌日三日。三が日であるのに、修司は今日が仕事初めだ。晩ご飯はご馳走にしてやるか、稼ぎに行くぞみすず、と椿が言って、朝一番にあたしは彼に連れ出されてこんなところにいる。高校生をパチンコ店に連れて行く。椿は今年も断然、ろくでなし街道まっしぐらである。
それからもしばらく、椿が真剣にスロットマシンと対峙している様子を隣の椅子に座って見守っていたのだが、それにも飽きてしまったので、あたしは周囲のお客さんを観察した。驚いたことに、意外とカップル客が多いのだった。お正月だというのに、はたして他に行くところはほんとうに思いつかなかったのだろうか。人間観察にもはやばやと飽きてしまったあたしは階段をのぼって休憩スペースに入った。自販機でエメラルドマウンテンのあたたかいものを買い、大きな白いソファでくつろぐ。年明け早々、彼氏とこんなところでデートなんて、とあたしは思った。あたしだったら絶対に嫌だ。
彼氏ができたことこそないあたしであったが、人並みにデートをしたことくらいある。中学三年生のときにおなじ男の子と三度ほど、高校生になってすぐに一度。いずれも、恋人関係への進展を望まれているのがわかって、そそくさと逃げだした。どちらの男の子も悪そうなひとではなかった。すくなくとも椿よりは紳士だったし、たのしいデートを企画してくれた。映画を鑑賞したり、プラネタリウムやお花見にも行った。美術館、というのもあった。あたしはかなりたのしかったのだけど、友人一同は不満のようだった。ならば彼女たちはどのようなデートを好むのだろう――だめだ、パチンコ店なんかでデートをする男たちと変わらない。
「やべー、軍資金が十倍になっちまった」
からになった缶を持て余していると、ほくほくとした椿がやって来た。福沢さんを三人、ひきつれて。
「大学んとき以来なんだけど、やっぱたのしいな、パチスロ」
「そうなの? こなれた感じだったから普段から仕事の合間にしてるのかと」
「そんなろくでもない男にだけは引っかかっちゃいけないぞ、みすず」
あたしは思わず椿の顔をまじまじとみてしまう。なんて説得力のない。
「意外にパチ屋って綺麗なんだね」
「おれも、家の近くのうらぶれた店にしか行ったことなかったからなあ」みろよこのソファ。ふかふかだな、もって帰るか、どこまで真剣なのかわからないが、そんなことをまじめな顔で言う。
「とにかく、これで今晩はすき焼きだな」
「あたしはしゃぶしゃぶがいい」
「いいや、ご馳走といえばすき焼きに決まってるから」これは決定事項だから。
「わがままだよね」大人げない椿は譲らない。
ところで、と椿が言った。
修司の車をパチンコ店に停めたまま、歩いて駅前の牛丼屋にきていた。お好み焼きがたべたかったのだけど、三が日にあいている飲食店は、ファーストフードかファミレスくらいのものだった。
「そろそろいいんじゃない?」
「なにが?」
「その、普段から名前を呼んでくれても?」
「なにその疑問形。椿」
「だから、侘助だって」
「つばきー」
「……。」
椿はむくれた。
「だいたいさ」とあたしは言った。よくわからないのだけど。
「なんだよ」
「名前で呼ぶことの意義ってなんなの」
椿は一瞬背後から金槌でいきなり殴られたひとのような顔をした。そんな顔のまま数秒固まっていたかと思えば、たはーっ、と言って片手で顔を覆ったきり黙ってしまった。言葉にならないらしい。やっとこちらをみたかと思うと、無言のまま首をふり、肩をすくめた。
「お子ちゃまネー、みすずは」
「なっ」
かちん、ときた。どういう意味でしょうか。
「わかってない」
「なにがよ」
「おれのこと、名前で呼んでいいオンナはいま、みすずしかいないんだぜ」
「調子いーことばっかですネ」
「まじめにきけよ。大マジなんだから」
はいはい、と安く請け合ったが、内心はすごくどきどきしていた。しっかりしろ、みすず、自分を叱咤する。この男のろくでなしがろくでなしたるゆえんは、こういったところにあるのだから。あたしなんかを口説いて、まったく。親友の妹をたぶらかそうなんざ、まったく、椿はほんとうにろくでなしだ。
「名前で呼び合うだけで、お互いの絆が深まったりするとか、そんなの馬鹿みたいよ、信じてるひとは」
呼び方なんて関係ない、とあたしは思う。大切なのは言葉の重みである、と思う。
「あたしは椿、って呼ぶときはあらんかぎりの親しさを込めて呼んでるよ」
「わかってるよ」と椿は苦笑した。「それでも、もっと親密性を求めちゃうんだな、どうしてだろう、恋かな」そう言って胸をおさえてみせる。
「椿が言うとさ、」
「なんだよ」
「いや」どうしてこうも、重みに欠けるのだろう……。
とにかく、椿がわざとらしく咳払いをする。ここで区切りをつけますよ、の咳払いだ。
「名前を呼んで。まずはふたりきりのときだけでいいから、手始めにさ」
「そんなこっぱずかしいことできない」
「呼んで」
「えー」
「呼んで、みすず」
やだよー、馬鹿じゃないのー、とか、いろいろ茶化す台詞は喉元までせり上がってきていたのだが、椿の顔はあまりに真剣だった。先ほど、大当たりがかかったスロットを打っているときの比にもならないほどに、真剣な顔をして、まっすぐとあたしの目を見据えていた。冗談にはできなくなった。仕方なく、ちいさくわびすけ、とつぶやいてみた。椿は心よりうれしそうに笑った。そしてすぐ何事もなかったかのように、そろそろ行こうか、と言ってお愛想のために店員を呼んだ。
「きょうの勝利は女神様のおかげだな、バーゲンでも行きましょうか」
「やった、わびすけ、ありがとう」
「ゲンキンなやつ」
店をでたあたしたちは、自然と指を絡めていた。
.