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カメリア  作者:
2/6

 2.十二月






 2. 十二月


 夕方五時前。帰宅してリビングに入るなり頭上から突然けたたましい音が鳴って驚いた。何事だ、と一瞬軽くパニック状態になったが何てこともない。椿とみすずが僕に向かってクラッカーを鳴らしたのだった。


「メリー・クリスマス!」


 メリー・クリスマス、と笑って僕は返した。正確に言えば今日はクリスマスイブなのだが。明日椿が職場の仲間内でクリスマスパーティーをする、ということで僕達のパーティーは今夜になった。

 二人はすでに軽く出来上がっているようで僕は椿に諭すような目線を送った。日も暮れ終わらぬうちから宴会をはじめたことについてではない。みすずはまだ未成年で、しかも高校生だ。良くも悪くも影響を受けやすい感受性の強い年頃なのだ。周りの大人がしっかりしていなくてどうする、と言いたかった。僕の言いたいことについてはちゃんと気付いているはずだったが、椿はすでに僕に背を向け知らんふりをしていた。飯だ飯と言って。僕は肩をすくめる。椿はそういう男なのだ。

 いち早く椿が席に着いたそのダイニングテーブルには、所狭しとごちそうが並べられていた。早い時間から椿とみすずが仲良く作ったのだろう。

 土曜日だったが今日は休日出勤だった。年末年始はどうしてもこうなる。休日返上とはいえこんなに早い時間に帰宅できるなんて奇跡に近い。二年目である新入社員にはこなすべき雑務が天井にも届きそうなほど堆【うずたか】く山積みになっているのだ。くたくただ。


「みて! ローストビーフ作ったの、ふたりで」


 花が咲きひらくようにみすずが笑った。それだけで今日一日の疲れが吹っ飛んでいくようだった。キッチンのシンクで手洗いうがいをし、食器棚からグラスを取り出す。テーブルにつくと椿がワインをついでくれた。お礼を口にし、喉が渇いていたので三口で飲み干した。椿がいつも好んで買う、僕らの食卓では馴染みとなった銘柄の白ワイン。メインが魚だろうが肉だろうが彼は白ワインしか飲まない。


 不慮としか言いようのない事件があり、みすずをこのアパートに呼んでから一年余りが経っていた。三人で過ごす二度目の冬。この一年でみすずは随分元気になった。純粋に椿のおかげだと思っている。僕だけではきっと手が終えなかった。

 実家を出てもう六年近くになる。大学に進学したのを機にして僕は生まれ育った家を出た。僕の選んだ大学は地元の私立校で、実家からは十二分に通える距離――電車でたったの二駅ほど――であったが両親は、とくに母は、家を出ることを強くすすめた。理由は一つしか思い当たらなかった。僕は二つ返事で了承した。

 猛烈に反対するであろうことは簡単に想定できたので、みすずには事前に報せなかったし、引っ越し自体も彼女が学校に行っているあいだに済ませてしまった。


 ――こんなのは卑怯だ。


 その晩の電話でみすずは泣きながら抗議した。お父さんもお母さんも修司も、みんなみんな卑怯者だ、ひどい、こんなのはない、とまくし立て、彼女は泣き続けた。こちらが言い訳やなだめる隙もなく延々と泣き続けた。当時みすずはまだ中学生だった。このまま家に居続けることはたしかにとても危ういことに思えた。お互い確かめ合ったわけではなかった、というか確かめ合わずとも僕らの心は通い合っていた。それは兄妹としての愛というよりかは恋人としての愛だった。勘の鋭かった母親はそれをいち早く察知したのだろう。

 結局一時間、あるいはそれ以上ものあいだ受話器越しにみすずは泣いていた。いい加減泣き疲れ、勢いが衰えはじめたころを見計らって僕は言った。


 ――いつでも会えるよ。俺達は兄妹だろ。


 時々は帰るしこっちにも遊びに来ればいいから。

 うん、と蚊の鳴くような声でみすずは言ったが彼女の様子を心配してちょくちょく僕が実家に顔を出すことはあっても、みすずは一度も僕のアパートに来ることはなかった。




「修司、大変だ、みすずが潰れちった」

「お前ちょっとは考慮しろよな、何歳だと思ってるんだ、去年も同じことしただろ」


 気がつくとみすずはダイニングテーブルに突っ伏した状態で人形のようにぴくりとも動かなくなっていた。隣に座っていた椿も随分頬を上気させている。僕は彼を一喝するとため息まじりに立ち上がった。


「ソファに運ぶから、お前は布団取ってきてやって」


 アイアイサー、とふざけた返事をして椿もふらつきながら立ち上がった。珍しい。随分酔ってるなと不思議に思ったがすぐに、カウンターにワインの空き瓶が二本も転がっているのが目に入った。テーブル上の瓶の中身も残りわずかしかない。そりゃあ酔いもする。僕は呆れた。

 去年のクリスマスも同じような感じであった。

 みすずちゃんは飲める? 高校生だもんね、だめだよね、飲めないか、残念残念。と煽るようなことを言うものだから、負けず嫌いのみすずは僕の制止も振り切りむきになってワインを飲んだ。結局ボトル半分ほど飲むと、ぱたりとテーブルに突っ伏しそれきり動かなくなってしまったのだった。

 その後こっぴどく椿には説教をしたのだが――そしてそれに椿はまったく耳を貸さなかった――、それでも僕は愉しんでいた。こんなに愉しいクリスマスは随分久しぶりだった。以前みすずとこうしてクリスマスを一緒に過ごしたのは随分遠い昔のことだった。千年も二千年も前、ずっと大昔のことだったように感じる。父がいて、母がいて、僕とみすずが並んで座っていて――。


「どうした、酔いに任せてキンシンソーカンかい?」


 僕はソファに寝かせた妹の顔をじっと覗き込んでいたらしい。頭上からの椿の声に驚いた。我に返った僕が慌てて離れると、椿は何事もなかったようにみすずに布団を掛けて再びダイニングに戻った。僕もその後に続く。


「ま、いまさらキンシンソーカンもなにもないよな、きみらには」


 僕は苦笑する。たしかに一風変わった兄妹ではあるかもしれない。それでも僕は僕なりに日々自分の理性と戦っている。ただ僕は世間一般の男性よりも少し辛抱強いだけだ。


「好きな女の子と一緒に風呂に浸かっててさ、こないわけ? こう、むらむらって」

「くるよ。でも大事だから、みすずが」

「坊さんみてえ。悟りでも開いてんのかよ、尊敬する」

「お前は一度寺で修行した方がいい」


 目の前であっけらかんと笑っている椿だったが、みすずが来た当初はいちいちのことにショックを受けていた。

 僕らは普通の兄妹とはすこし違う。世間一般の兄妹ならまずしないことを、ごく当たり前にしたりする。

 僕らは共に風呂に入り、ときには同じ布団で眠り、悲しくなれば抱き合い、そうするべきだと思えばキスもする。

 昔からすぐに精神バランスを崩しやすい妹だった。年の離れた兄妹だったし、昔から僕は彼女の世話係りだった。みすずを風呂に入れるのは僕の役目だったし、怖い夢を見て眠れなくなった彼女が一緒に寝たいといえば僕の部屋のベッドで共に抱き合って眠った。僕ら兄妹にとってはとくに珍しいことではなかったが、他人が見ればきっと異常に思うだろうことは理解していた。

 みすずがこのアパートにやって来た当時、僕には恋人がいた。しかしみすずを構う一方で彼女と付き合っていけるほど僕は器用ではないから、手に余した彼女を傷つけてしまうことは安易に予想できた。なので僕は恋人に別れを告げることにした。椿についてもそうだ。大学時代からこのアパートに居着いた状態だった彼にも初めは出て行ってもらうつもりだった。……そのつもりだったのだが、結局もう来るなとは言えなかった。なにしろ僕にとって唯一の友人と呼べる人間だったのだ。そのようにしてみすずと再び同居するようになって一年以上が経ったいまでも、椿は僕のアパートの半住人である。


 妹と暮らすことになった。傷ついていて普通の精神状態じゃないから、兄貴の俺に甘えてびっくりすることもあるかもしれないけど、とくに変わったことではないから。


 そっか、気の毒に、と椿は言ったが実際に僕達が一緒に風呂に入ったり普通の兄妹よりもスキンシップが多いのを目の当たりにして、愕然としていた。

 大丈夫か、とか、それはちょっとまずいんじゃねえの、とか幾度となく言われたそれらはすべて僕らにとっては至って日常的なことだった。


 過去が過去であるだけにみすずの元気の起伏は激しい。さっきまで椿と一緒に高い笑い声をあげてはしゃぎまわっていたかと思えば、部屋の隅に置かれたパキラの横でうずくまっていたりする。そんなとき、僕はいつでもやりきれない気持ちの余り世界の明るさが一段階暗くなってしまった気になった。

 抱きしめてやればいいのだろうが、それは僕の手――近親者である兄の手では力不足のような気がする。やりきれない、というのはそういうことだった。



「修司くーん、アタシも眠たくなっちゃった。今夜は一緒に寝ましょうよ」

「勝手に寝に行けよ。片付けないと」


 修司君はつれないのネー、などと酔っ払いの椿はぶつくさ言いながらリビングを出て行った。

 皿を重ねシンクに運び、余った料理にはラップをかけて冷蔵庫にしまう。洗い物をしながら、椿との出会いをふ、と思い出していた。僕は椿とは対照的な人間だ。当初考えていたより随分長い付き合いになったな、と思う。彼との関係は言わば一過性のものだとばかり思っていた。


 大学の入学式でのことだ。会場の体育館に入る前から椿は目立っていた。彼の頭は、人間の髪の毛の色とは思えない程にぱっきりとした燃えるような真っ赤に染められていたのだ。地毛とはとても思えない、何らかの被りものでもしているかのような――例えば歌舞伎役者のような――見事なまでの真っ赤だった。入学式の日すでに沢山の仲間に囲まれていた彼を横目に、僕のような背だけ高くてぱっとしない人間とは一生関わり合いにならない種類の人間だと思ったものだった。しかし人の縁とはおかしなものだ。この日のことを思い出す度僕はそんなことをしみじみと思う。


 ――気分悪い振りしてくんない?


 きっかけは些細な――というか非常に突拍子のないことだった。式も後半にさしかかった頃(入学生総代が宣誓をはじめた頃だった)僕の後ろに並んでいた真っ赤頭の彼が、突然僕の肩をつついた。そして鋭い目をして振り向いた僕に、そんなことを言ったのだった。全くもって意味がわからなかった。意味もわからないまま僕は腕を引っ張られ、無理やり会場の外に連れていかれた。いくら入口近くの席だったとしても、ただでさえ目立つ頭の彼が式の最中に堂々と出て行こうとするものだから多くの視線を集めることになり(ライブ中継までされていたのに!)、腕を引っ張られながら僕はすごくいたたまれない気分になった。


 ――いやあ、まったく。息がつまるかと思ったね。


 中央体育館を出て裏手にまわり、北広場まで来てようやく彼は腕を離してくれた。そしてそう言ってのけた。


 ――ねえ君さ、


 一体どういうつもりで、どうして全く関係のない僕を巻き添えにしたのか訊きたかったし、このあとどうすればいいのかも訊きたかった。しかし彼は僕の言葉を遮って自己紹介を始めた。


 ――君じゃない。椿って言うんだ。椿侘助。よろしく。


 全くよろしくなかった。僕はとても腹を立てていた。


 ――どうしてくれるんだよ? 移動だのなんだの、説明もあったはずなのに。

 ――大丈夫。おれ初等部からここの付属通ってたんで、友達いっぱいいるし。そいつらに訊けばいいよ。


 最悪なファーストコンタクトとなったはずなのに、僕と椿はこの日のうちに仲良くなってしまった(それについてどのようなきっかけがあったのかは全く覚えていない)。

 椿って名字だからそんな色に染めているのかと訊ねた僕に、椿は呆れたように笑い、違うとでもいうように手をひらひらさせた。


 ――おれん家のは全部白い椿ばっかだから関係ねえよ。


 と言って。




 洗い物を済ませてちらりとソファを見ると布団が床に落ちてしまっていた。僕は少し笑ってみすずの布団をかけ直しにソファに寄った。みすずの寝顔はまるで天使だ。幼いころからずっと変わらない。じっと見つめていると時折眉をひそめたり、ううう、とちいさな声をもらしたりする。また怖い夢でも見ているのかもしれない。僕はその華奢な白い手を握ってやる。そうすると幾分か穏やかな顔になってすうすう寝息を立てはじめた。

 キスがしたい、と思ったけれどいまはそうすべき時ではないような気がして止めた。変わりにビジネス鞄からちいさな包みを取り出し彼女の頭の脇に置いた。


「明日はどこに行きたい?」


 返事を期待するでもなく呟いた。今年のクリスマスは日曜日だ、どこもかしこも混雑することだろう。しかし明日の晩椿はきっと帰ってこないから兄妹水入らずで一日を過ごせる。嬉しい。

 僕はみすずの頭をやさしく撫で、シャワーを浴びに風呂場に向かった。今夜浴びなくともまた明くる朝みすずと一緒に入ることにはなるのだが。

 リビングの灯りを消す。部屋の片隅で昨夜椿がふざけてパキラに巻いた装飾ライトがぴかぴかと張り切っていた。ソファではみすずが聖なる寝息をたてている。とても特別な空間だと思った。こうして聖夜は静かに厳かに更けてゆくのだ。おやすみ、と心のなかでつぶやき僕はそっと扉を閉めた。








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