第8話:汚れの魔物【黒カビ・スライム】襲来
聖域に散布した“除菌ミスト”が、白く幻想的に漂っている 。 かつてはカビと淀んだ空気に支配されていた場所だ 。 俺の魔力で生成した霧は、空間の隅々まで行き渡っていた 。
「ああ、ようやく空気が軽くなった気がするな」 俺は満足げに、自作の除菌スプレーを軽く振った 。 だが、平穏な時間は長くは続かない。 聖域の隅、湿った影の中から、不気味な音が響いた。
「……ジュルッ、ズゾゾ……」 それは粘り気のある、生理的に不快な音だった 。 影の中から、どす黒い塊が這い出してきたのだ 。 それは一見すると、異世界の定番モンスターであるスライムに見えた 。
しかし、その姿はあまりにも異常だった 。 表面には緑色のカビがびっしりと生え、悪臭を放っている 。 体液はヘドロのように濁り、這った跡には真っ黒なシミが残る 。
「……うわ、汚い」 俺は反射的に、五歩ほど後ずさった 。 あれに触れるくらいなら、魔王と握手した方がまだマシだ 。 「アレン様! お下がりください! 汚れの魔物が現れました!」
ティアナが聖剣の前に立ち、凛々しく剣を構える 。 だが、その剣の表面もまだ、数千年の手垢でベタベタのままだ 。 「ティアナ、その汚い棒を振り回すな。飛沫がこっちに来る」 「汚い棒……! 流石です、アレン様。呪いの塊をそう断じるとは!」
彼女は俺の言葉を、いつものように超ポジティブに変換した 。 俺は即座に、右手をかざしてスキルを発動させた 。 【極清鑑定】 視界が切り替わり、黒いスライムの構造がデータとして暴かれる 。
【鑑定対象:黒カビ・スライム】 【正体:放置された悪意の具現化(未処理の有機廃棄物)】 【状態:構造的バグによる増殖】 【不純物:高分子化されたカビ、酸化した魔力残渣、死滅した細胞】
鑑定結果を見て、俺は思わず吐き気を催した 。 こいつは生物というより、ただの“製造ミス”だ 。 掃除をサボり続けた結果、システムから排出されなかったゴミだ 。 魔力の循環が滞った場所に発生する、一種の計算エラーのような存在だ 。
「……なるほど。これは魔物じゃない。巨大なカビの塊だ」 俺は冷静に、スライムの核となる部分を特定した 。 そこには、魔力回路が複雑に絡まった“バグの特異点”が存在している 。
「アレン様、浄化の儀式を! 私が隙を作ります!」 ティアナが踏み込もうとするのを、俺は片手で制した 。 「待て。そんなもので斬れば、君の鎧まで細菌に汚染されるぞ」 「そ、そんな!? ではどうすれば……」
「魔法とは、物理現象を最適化するための演算リソースだ」 俺は体内の魔力を練り上げ、特定の術式を構築した 。 イメージするのは、汚れを根元から分解する“強力な洗剤”だ 。 【魔力的界面活性魔法】
さらに、そこへ殺菌能力を持つ成分を配合する 。 【次亜塩素酸・バースト】、出力最大。 俺の手のひらから、透明な光の波が放たれた 。 それはスライムに激突すると、一瞬でその表面を白く変色させた 。
シュゥゥゥゥッ! 激しい泡立ちと共に、スライムの体が崩壊していく 。 これは攻撃ではなく、分子レベルでの“分解”と“中和”だ 。 汚れという名のバグを、正しいプログラムコードで上書きして消去する 。
「ギ、ギギギィィ……ッ!?」 黒カビの魔物が、断末魔のような音を立てて霧散していく 。 一滴の血も流さず、ただ静かに、空間から不浄が取り除かれていく 。 数秒後、そこにはシミ一つない、ピカピカの石床だけが残された 。
「……よし。ようやく視界のノイズが一つ消えたな」 俺は額の汗を拭い、深い溜息をついた 。 一方、周囲にいた近衛騎士たちは、あまりの光景に呆然としている 。 「い、一撃も与えず、魔物を慈愛で消し去った……!?」
「なんという高位の浄化魔法だ! 聖なる輝きで悪を救済されたのだ!」 彼らは勝手に、俺を聖者のような目で見て崇め始めた 。 「慈愛……? 違うぞ。単に除菌しただけだ。不潔なものは存在してはいけない」 「流石はアレン様! 全ての汚れに等しく、無慈悲で完璧な浄化を……!」
ティアナが頬を赤らめ、感極まった様子で跪く 。 話が噛み合わないのはいつものことだが、彼女の鎧が綺麗なままで良かった 。 「さて、邪魔が入ったが、本題に戻ろうか」 俺は聖域の中央に鎮座する、伝説の聖剣へと向き直った 。
浸け置き洗いを開始してから、しばらく時間が経過している 。 俺が配合した【重層魔法】と【苦円酸魔法】が、着実に成果を出していた 。 「見てくれ、ティアナ。汚れの層が浮いてきた」 聖剣の表面を覆っていた、真っ黒な“執着の脂” 。
それが乳化し、ドロドロとした灰色の液体となって滴り落ちていた 。 その隙間から、これまで見たこともないような、鋭い輝きが漏れ出している 。 「ああ……! 聖剣が、本来の姿を取り戻そうとしています!」 ティアナが目を見開いて叫ぶ 。
その光は、数千年の間、手垢の下に隠されていた“世界の真実”だった 。 「……一旦、全部拭き取りましょうか。仕上げに入るぞ」 俺は特製の“魔力ワイパー”を生成し、聖剣の最深部に手を伸ばした 。 その時、俺の【極清鑑定】が、これまでにない奇妙な反応を捉えた 。
聖剣の“芯”にあるのは、勇者のための刃ではない 。 それはもっと、実用的で、それでいて致命的な“ある道具”の形をしていた 。




