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第7話:ティアナの勘違い「これは聖なる洗礼です!」

聖域の最深部。 台座に突き刺さった聖剣。 その周囲には、俺が撒いた特製洗剤の泡がこびりついている。 一晩置くと言ったが、俺の気は全く休まらなかった。 理由は単純だ。 この聖域という空間そのものが、絶望的に不潔だからだ。


「……ゲホッ、ゲホッ! なんだ、この空気の重さは」


俺は口元を袖で押さえながら、顔をしかめた。 聖域を覆っているのは、荘厳な神気などではない。 数千年の間、一度も換気されていない空気の淀みだ 。 そこに湿気が加わり、壁の至る所に黒カビが発生している。


「アレン様、大丈夫ですか? やはり聖剣の放つプレッシャーが……」


隣に立つティアナが、心配そうに俺の肩を支えてくる 。 彼女の鎧からは、昨日磨いたばかりの清潔な香りがした。 今の俺にとって、彼女だけが唯一の酸素補給源だ。


「ティアナ、勘違いするな。プレッシャーじゃない」 「えっ?」 「ただの“カビ胞子”だ。肺が汚染される音が聞こえるぞ」


俺は【極清鑑定】を起動し、空間のステータスを読み取った。


【エリア鑑定:王宮聖域】 【空気質:最悪(浮遊菌・カビ胞子・残留思念)】 【状態:換気不全によるシステムオーバーヒート】 【特記事項:未定義の生物学的バグが空中に充満】


視界に広がるのは、真っ赤なアラートの山だ。 魔法的に守られているはずの聖域。 だが、そのシステムは完全にメンテナンス不足だった。 俺の目には、空気が粘り気のある灰色の泥水のように見えている。


「魔法とは、物理現象を最適化するための“演算リソース”だ」 「はい、アレン様。昨日もそのように仰っていましたね!」 「なら、この“空気のバグ”も、演算で片付けるまでだ」


俺は腰のポーチから、予備の魔力触媒を取り出した。 イメージするのは、広範囲への“除菌”と“脱臭”だ。 特定の分子構造を魔力でシミュレートする。 現代知識にある、高濃度エタノールと除菌成分の配合だ。


「【界面活性魔法:エア・デフラグ】。……出力、最大」


俺が手をかざすと、手のひらから白い霧が勢いよく噴出した。 それはただの霧ではない。 空中に浮遊する不純物を吸着し、分子レベルで分解する特製ミストだ。 シュゥゥゥゥッ! という爽快な音が、静まり返った聖域に響き渡る。


「な、なんという光景でしょう……!」


ティアナが感嘆の声を漏らし、その場に膝をついた。 俺が撒いたミストは、差し込む日光を受けて虹色に輝いている。 だが、俺にとっては単なる“作業”に過ぎない。 舞い散る埃を、強制的に地面へと叩き落としているだけだ。


「アレン様……この霧は、もしや“精霊の息吹”なのですか!?」 「違う。ただの除菌ミストだ」 「いいえ、分かります! 私の肺が、魂が、洗われるようです!」


ティアナは瞳を潤ませ、深く深呼吸を繰り返した。 彼女の脳内では、またしても都合のいい変換が行われているらしい。


「この清らかな霧こそ、聖域を真の意味で浄化する洗礼……!」 「……勝手に言ってろ。それより、床に落ちた汚れを拭くぞ」


ミストによって湿り気を帯びた壁や床。 そこには、今まで見えなかった“黒いヘドロ”が浮き上がっていた 。 数千年の歴史が、汚れとして物理化したものだ。


「ティアナ。これを放っておくと、また空気が汚れる」 「承知いたしました! このティアナ、全力で“悪”を拭い去ります!」


ティアナは白い布を手に取ると、猛烈な勢いで壁を磨き始めた。 騎士としての筋力を、すべて“雑巾がけ”に注ぎ込んでいる。 その姿は、神聖な儀式というよりは、大掃除に燃える主婦のようだった。


「よし。これで空気の“ボトルネック”は解消されたな」


俺は鑑定ログを確認し、ようやく深く息を吸った 。 数値化された空気質が、急速に改善されていく。 システムの処理速度が上がったように、空間がクリアに見え始めた。 だが、その時だった。


「……ん? 何だ、あの泡は」


聖剣の根元。 昨日俺が塗布した洗剤の泡が、不自然な動きを見せていた。 脂汚れを分解して白くなっていたはずの泡が、次第に黒く染まっていく。 ドロドロとした黒い液体が、意志を持っているかのように蠢き始めた。


「アレン様! 壁から剥がした汚れが、一箇所に集まって……!」


ティアナが剣を構え、俺の前に立った 。 床に落ちた埃、壁から削ぎ落とされたカビ、そして聖剣から浮いた脂。 それらが魔力的に結合し、巨大な塊を形成していく。


「……なるほど。放置された汚れが、負のエネルギーで実体化したか」


俺の【極清鑑定】が、その正体を冷徹に映し出した。


【鑑定対象:不浄の集合体(汚れの魔物)】 【通称:ブラックカビ・スライム】 【状態:極めて不衛生・攻撃的】


目の前に現れたのは、部屋の隅に溜まったゴミを巨大化させたような化物だ。 強烈な腐敗臭が、せっかく除菌した空気を再び汚そうとしている。


「うわ……。……やっぱり、浸け置き洗いにはリスクが伴うな」


俺は眉間に皺を寄せ、二本目の除菌スプレーを構えた。 世界を救う前に、まずはこの目の前の“巨大な汚物”を消滅させなければならない 。 お掃除鑑定士アレン。 異世界での初戦闘は、あまりにも不潔な“ゴミ処理”から始まることになった。


「ティアナ、下がれ。その新品の鎧を汚されたくない」 「いいえ! 私が道を切り開き、アレン様に最高の“仕上げ”をしていただきます!」


蠢く黒い粘液が、俺たちに向かって触手を伸ばした。


次は、この汚れの魔物を相手にした、効率的かつ徹底的な“殺菌作業”の時間だ。

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