第51話:黒カビ聖女は今日も笑う。俺は全力で逃げる。
聖域と呼ばれる大聖堂に一歩足を踏み入れた瞬間、俺の視界は絶望で塗り潰された。
人々が敬虔に膝を突き、祈りを捧げるこの空間は、俺の目には"巨大な情報のゴミ溜め"にしか見えない。
空気中に漂うのは、清らかな香油の匂いではない。
それは、数千年にわたって蓄積され、腐敗し、発酵した"精神的な排気ガス"の濁流だ。
「……おえっ」
思わず口元を押さえる。
信者たちの祈りが空中に放出されるたびに、"情報の煤"が黒い粉塵となって舞い上がり、ステンドグラスの裏側にこびりついている。
この場所は、癒やしの場などではない。
善意という名の不法投棄が繰り返された結果、デッドロックを起こした"精神的最終処分場"だ。
そこへ、彼女が現れた。
王国が誇る「慈愛の聖女」クラリス。
民衆は歓喜に沸き、彼女の通る道に花を撒く。
だが、俺には見える。
彼女が微笑むたびに、その背後から"恩を売った粘着質な汚れ"が、黒い触手のように伸びて周囲の人間を絡め取っているのを。
彼女の全身は、もはや元の肌の色など判別できないほど、分厚い"黒カビ"の層に覆われていた。【極清鑑定:対象・聖女クラリス】
【不純物濃度:99.8%】
【状態:重度の"情報の隠蔽(不法投棄)"、および"自己暗示によるファームウェアの破損"】
【詳細:外面は"純白のシルク"を幾層にも重ねているが、その内部では"データの不整合"が飽和状態にある。
信者から吸い上げた感謝の念を、一切の処理を行わずに内部ストレージへ直接保存した結果、"暗号化された負の遺産"が膿となって溢れ出し、全身を"黒カビ(バグの集合体)"として侵食中。
現状は、ただ"膿んだ傷口の上に、純白のシルクを幾層にも重ねて隠しているだけ"である。
シルクを剥ぐたびに、中から饐えた発酵臭と、黒く変色した"情報の膿"が溢れ出すことが予想される】 「うわあ……。汚ねえ、マジで汚ねえ……」
俺の呟きは、熱狂する信者たちの歓声に消された。
だが、その視線に気づいたのか、聖女がこちらを向いた。
「あら、そちらの方は……?」
彼女が歩み寄ってくる。
一歩ごとに、床に"ベトベトした液体"が染み出していくのが見える。
「来るな! 寄るな! 除菌されるぞ!」
俺が必死で後ずさると、守護騎士団長が剣を抜いた。
「貴様! 聖女様に対してなんたる無礼! 聖女様の身体に刻まれた聖痕は、民の苦しみをお引き受けになった尊い犠牲の証なのだぞ!」
「……その聖痕、ただの"情報の膿"だぞ」
俺は冷徹に言い放った。
「それは自己犠牲なんかじゃない。未処理のログを放置して、システムをパンクさせているだけだ。早くガベージコレクションしないと、メモリリークを起こして王都ごと爆発するぞ」
「なっ、何をわけのわからないことを!」
騎士団長が斬りかかろうとした、その時だった。聖女クラリスの体が、不自然に膨れ上がった。
「あ、あ、あああああああ!」
彼女の口から、どす黒い霧が噴き出す。
それは人々が「呪い」や「厄災」と呼ぶ現象だが、俺にはわかる。
抱え込みすぎた汚れが限界を超えた、"未処理データのオーバーフロー"だ。
「助けて……アレン様……助けて……!」
黒カビの塊と化した聖女が、俺に向かって手を伸ばす。
その手からは、情報のゴミが腐敗した異臭が漂ってくる。
「……汚ねえな、本当に。もういい、俺が全部まとめてフォーマットしてやる」 俺は携帯していた「魔力洗浄スプレー」の出力を最大に引き上げた。
狙うのは、彼女の心臓部にある「腐ったコード」の起点だ。
「ティアナ! 邪魔な"ノイズ"を散らせ!」 「御意にございます、アレン様! この不潔なメタンガスどもを、私が一掃して差し上げますわ!」 相棒のティアナが、聖剣(俺が洗浄して短剣に戻ったやつ)を振り回し、迫り来る黒い霧をなぎ払う。
俺は聖女の、いや、"黒カビの塊"の中心に手を突っ込んだ。
指先に、ヌルヌルとした"強欲の脂"と、ザラザラした"捏造のノイズ"が絡みつく。
吐き気をこらえ、俺は魔法回路を「整理整頓」し、実行コマンドを入力する。【フルシステム・フォーマット、実行】 それは、洗浄などという生温いものではなかった。
聖女という機能を構成するすべての"不整合なデータ"を論理消去し、世界を真っさらな「工場出荷状態」へと書き換えるプロセスだ。
聖女の体から、真っ黒な情報の膿が爆散した。
俺はそれを次々と「消去」していく。
黒い霧が晴れるたび、空間が"デフラグされた状態"へと戻り、空気中の煤が消えていく。
視界が、みるみるうちにピカピカになっていく。
「……ふぅ。ようやく、石鹸の匂いがするようになったな」 光が収まった後、そこにいたのは、聖女としての重圧も、魔力も、そして"汚れ"もすべて失った、ただの「清潔な村娘」だった。それを見た瞬間、隣にいたティアナが膝から崩れ落ちた。
「ああ……あああああああ! なんという……なんという慈悲深き光景でしょうか!」
彼女の瞳からは、大粒の涙が、鼻水とともに溢れ出している。
「皆様、ご覧になりましたか!? 今、アレン様の手によって、全人類の歴史に蓄積された"情報の不法投棄"が、宇宙の真理を記した黄金の経典のごとき所作でデフラグされましたわ!」
ティアナは震える手で地面を叩き、失禁せんばかりの熱狂で叫び続ける。
「これこそが! これこそがアレン様による、全人類のデフラグの序章ですわ! 聖女という名の偽装ファイルを削除し、あるべき"工場出荷時の魂"へと回帰させる……! おお、我が魂までもが、今、アレン様の除菌スプレーによって洗浄され、内臓の隅々までがキュキュッと音を立てて輝いておりますわあああ!」
彼女の暴走は止まらない。
信者たちもまた、その熱狂に呑み込まれていく。
「聖女様が……本来の姿(ただの人間)に戻られた……」
「これこそが真の救済、真の転生だ!」
「アレン様! 我らも除菌してください! 全人類をフォーマットしてください!」
押し寄せる信者たちの群れ。
その熱気が、俺には新たな"集団感染"のように見えて吐き気がした。「……やめろ、こっちに来るな。触るな、汚染される」 俺は全力で大聖堂から逃げ出した。
後ろからは、「アレン様ぁー! 洗浄を! 魂のスクラブ洗浄をお願いしますわー!」というティアナの絶叫が追いかけてくる。
だが、逃げる俺の鼻先を、不意に別の"臭い"が掠めた。
それは、今までのどんな汚れとも違う。
圧倒的な、死の匂い。
地平線の彼方から漂ってくる、"究極の汚染"――魔王の死臭の予兆だった。「……チッ。次から次へと、この世界はどいつもこいつも、掃除のしがいがありすぎるだろ」 俺は新しい除菌スプレーを懐から取り出し、走り続けた。




