第41話:伝説の防衛術式? いいえ、ただの情報の不法投棄です
"おえっ"
王都の正門前に立った瞬間、俺、アレンは胃の底からせり上がってくる酸っぱい液体を必死に飲み下した。
視界が、うるさい。
脳が、拒絶している。
目の前には、この国の誇りであり、数千年の歴史を守り抜いてきたとされる"伝説の聖障壁"がそびえ立っているはずだった。
だが、俺の目に映っているのは、そんな高尚な代物ではない。
それは、数百年分の脂ぎった手垢と、継ぎ接ぎだらけの古い配線が幾重にも絡まり合い、その隙間に黒ずんだ埃が堆積してコンクリートのように硬執化した、巨大な"情報のゴミ溜め"だった。
空中に固定された魔力の術式は、もはや元の形状を留めていない。
本来は清浄であるはずの魔力粒子が、メンテナンスを放棄された機械の廃油のようにドロドロと濁り、術式の継ぎ目から漏れ出しては、地面にへばりついて饐えた腐敗臭を放っている。
「……ひどすぎる。これは、生理的に無理だ」
俺は震える手で口元を押さえた。
隣で、この国の王宮魔導師たちが「おお、なんと神々しい輝きか」などと抜かしているのが聞こえる。
輝き? 冗談だろう。
あれは、過負荷で焼き切れる寸前の回路が発している、断末魔の放電現象だ。
古い規格の術式に、無理やり新しい術式をガムテープで貼り付けたような、見るに堪えない"継ぎ接ぎ"の痕跡。
そこには知性も美学もなく、ただ「動けばいい」という怠慢と、過去の遺産にすがりつく無能たちの執着が、カビの生えたスパゲッティのように絡み合っている。
俺はたまらず、右手をかざした。
こんな"不潔"を視界に入れておくだけで、俺の脳内メモリが汚染されていく。
【極清鑑定:起動】
網膜に、無機質なログが猛烈な勢いで流れ始める。
それは、この国の歴史がいかに"不潔な情報の積み重ね"であったかを証明する、絶望のリストだった。
【鑑定対象:王都広域聖障壁(通称:女神の抱擁)】
【状態:重度汚染・構造崩壊・情報腐敗】
【エラーログ:物理層における魔力導線の絶縁破壊を確認。冗長なサブルーチンが12万箇所。メモリリークにより、王都全域の魔力リソースが毎秒15%消失。ガベージコレクションは……紀元前より未実施】
【警告:この術式を構築した個体の知性を疑います。これは魔法ではなく、魔力の不法投棄です】
鑑定結果の文字が、赤く点滅する。
脳が焼けるような嫌悪感が襲う。
システムが叫んでいる。
これを作った奴は、一体何を考えていたんだ?
まるで、食べ残しの生ゴミをそのままクローゼットに押し込み、その上から香水を振りかけて「整理整頓した」と言い張っているようなものだ。
術式の隙間には、長年の運用で蓄積された「思念の残りカス」がこびりつき、それが魔力の循環を阻害している。
結果として、魔力は行き場を失い、不完全燃焼を起こして、真っ黒な"概念上の煤"を撒き散らしているのだ。
「……アレン様? お顔の色が優れませんが、もしやこの障壁のあまりの神々しさに、中てられてしまいましたか!?」
ティアナが心配そうに覗き込んでくる。
神々しい?
俺は、震える指で障壁の「最も醜い部分」を指差した。
「ティアナ、あれを見て何も感じないのか? あの、術式の隙間に詰まったドロドロした魔力の凝固物を。あれは、数百年分の不精の結晶だ。メンテナンスもされず、ただ上書きに次ぐ上書き。ドキュメントも残っていないレガシーシステムを、素人が改造し続けた結果の、情報のヘドロだぞ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
王宮魔導師たちが顔を赤くして詰め寄ってくる。
「貴様、何を言うか! これは女神から授かった至高の術式だぞ!」
「女神? もしこれが女神の仕業なら、その女神は相当な片付けられない女だな」
俺は吐き捨てた。
「この回路を書いた奴は、今すぐ首を吊って死んで詫びろ。これは魔法への冒涜だ。世界の演算資源を浪費するだけの、ただのゴミだ」
俺は、我慢の限界だった。
ポケットから、魔力を極限まで精製した"概念上の研磨剤"を取り出す。
掃除ではない。これは、世界の再構築だ。
「どけ。そこに立っているだけで、お前たちの体から出る情報のノイズが、このゴミ溜めをさらに汚染する。今から、この世界をデフラグする」
俺は歩み寄った。
王宮魔導師たちの制止など、耳に入らない。
目の前の「ドロドロした光の壁」に手を触れる。
指先に、脂ぎった粘液のような感触が伝わる。実際には物理的な実体はないはずなのに、俺の潔癖症はそれを「腐ったゼリー」として認識した。
「……汚ねえな、本当に」
【システム最適化:リビルド開始】
瞬間、俺の魔力が障壁の内部へと潜り込んだ。
それは、迷宮のように入り組んだ、悪夢のようなコードの海だった。
俺は迷わない。
不要な「死にコード」を片っ端から削除し、循環を止めている「詰まり」を粉砕していく。
"削除。削除。削除。"
100年前に追加された、意味のない防御強化のパッチ。
500年前に書き込まれた、当時の王を称えるための無駄な装飾術式。
それらすべてが、俺の目には「カビ」に見える。
「ガベージコレクションを強制実行する。世界のメモリを、これ以上汚すな」
俺の手の中で、ドロドロに濁っていた魔力のヘドロが、一瞬で蒸発していく。
絡まり合っていた導線が、俺の意志に従って「幾何学的な結晶構造」へと整列を始める。
それは、まるで無秩序なゴミ屋敷が、一瞬にして純白のシステムセンターへと変貌していくような光景だった。
音が、変わった。
「キィィィィィィン」という耳障りな高周波(情報のノイズ)が消え、澄み切った、鐘の音のような純粋な振動が空間を満たす。
障壁の色彩が、濁った黄色から、透き通ったダイヤモンドのような透明へと変化していく。
「あ……ああ……」
周囲の魔導師たちが、その場にへたり込んだ。
彼らの目には、何が起きているのか理解できていないだろう。
だが、本能が理解している。
「本物」が、今ここに現れたことを。
俺は、術式の最深部にある"コア"に手をかけた。
そこには、数千年の手垢が幾層にも重なり、真っ黒な塊となった「核」があった。
「……これが、諸悪の根源か。情報のデッドロックを起こしているな」
俺は、その黒い塊を素手で掴み、握りつぶした。
パリン、と。
世界が、音を立てて割れたような気がした。
その瞬間。
王都を覆っていた巨大な障壁が、一度完全に消失した。
そして次の瞬間。
空から降り注いだのは、これまで誰も見たことがないほど純粋な、一点の曇りもない「透明な光」だった。
再構築された障壁は、もはや壁ではなかった。
それは、空間そのものを洗浄し、ノイズを一切許さない「聖域のグリッド」へと進化したのだ。
「……ふぅ。これで、ようやく呼吸ができるレベルになったな」
俺は額の汗を拭った。
目の前には、あまりに透明で、存在していることすら疑わしいほどに美しい「理」が整列していた。
魔力の流れは最短距離で結ばれ、余計な摩擦熱すら生じない。
空気が、美味しい。
これまで鼻をついていた「概念上の饐えた臭い」が、完全に消し去られている。
「!! アレン様ぁぁぁーーーーっ!!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫。
ティアナが、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、俺の足元にスライディング土下座をかました。
「あああ! なんという! なんという慈悲深き光景でしょうか! 私は今、神が世界を創りたもうたその瞬間に立ち会っている気分ですわ!! 1000回死んでも足りないほどの感動が、今、私の魂を粉砕しましたわ!!」
彼女はアスファルトに額を叩きつけ、全身を激しく震わせながら叫び続ける。
「! 見てください、皆様! アレン様は今、この国の数千年の歴史という名の"垢"を、たった一振りの手で拭い去られたのです! それはつまり、我々が後生大事に守ってきた伝統など、アレン様の前では"使い古してカビの生えた雑巾"に過ぎないという真理の証明! ああ、なんという潔癖! なんという神聖! 過去の汚れをすべてリセットし、我々を強制的に再起動してくださったのですわ!!」
ティアナの言葉に、周囲の魔導師たちも、あるいは門番たちも、一人、また一人と膝をついていく。
彼らは、自分たちが信じてきたものが「ゴミ」であったと突きつけられ、絶望する暇もなかった。
あまりに美しく整えられた、アレンの「整理整頓後」の世界が、彼らの魂を圧倒していたからだ。
「アレン様!! あなた様は、この世界の管理者……いいえ、この世界の汚れたコードを書き換える唯一無二の"神のプログラマー"でいらっしゃいますのね!? この国の歴史そのものを『不法投棄』と断罪し、塵一つ残さず消し去り、真っ白な未来をインストールしてくださった! この奇跡を前にして、跪かない者がいるでしょうか!? いえ、いませんわ!! もし跪かない不届き者がいるならば、その魂のデータこそが汚物! 私が今すぐガベージコレクションして差し上げますわぁぁぁ!!」
ティアナの狂信的な演説は、1時間以上も続いた。
彼女は、アレンが「ただ魔力の導線を整理しただけ」だと言っても、全く聞く耳を持たなかった。
「整理とは破壊であり、整頓とは創造である」という、よくわからないアレン神話の新しい章を、彼女は今この瞬間に勝手に執筆し始めていた。
「……いや、本当にただの整理整頓なんだが」
俺の呟きは、群衆の祈りとティアナの絶叫にかき消された。
王都の空は、これまでで最も澄み渡っている。
物理的な埃だけでなく、魔力の淀みまで消し去られた世界は、あまりに眩しすぎた。
だが。
そんな爽快感に浸っていた俺の鼻を、またしても「不快なノイズ」が掠めた。
「……っ。なんだ、今の臭いは」
せっかく綺麗にした空気を、再び汚しにかかるような、粘り気のある臭い。
それは、魔力の腐敗臭ではない。
もっと、生理的に。
もっと、根源的に。
善意という名の「湿ったカビ」のような、ねっとりとした腐敗。
俺は、王都の奥深く、聖堂の方向を睨みつけた。
そこには、この国の人々が崇めてやまない「聖女」がいるはずだ。
だが、今の俺の鑑定眼には、その方向から漂ってくる「概念上の真っ黒なカビ」の胞子が、はっきりと見えていた。
「……ふん。どうやら、まだこの世界には、大掃除が必要な場所が残っているらしいな」
俺は、次のターゲットを決めた。
"聖女"という名の、この世で最も不潔な「黒カビ」を根こそぎ除菌してやる。
アレンの戦いは、まだ終わらない。
世界が、完璧な「工場出荷状態」に戻るその日まで。




