第21話:キャッシュは汚い、データは綺麗
ドミニクの屋敷で行った"強制デフラグ"(という名の、高圧洗浄と家宅捜索)は、王都の経済に劇的な流動性をもたらした。 滞留していた金貨は解放され、血管の詰まりが取れたかのように、街には活気が戻っている。
だが。 俺、アレンの精神状態は、回復するどころか、過去最悪のレベルまで悪化していた。
理由は単純だ。 俺の目の前にある、この"報酬"のせいだ。
「アレン様! ドミニクから押収した不当な利益、および王家からの追加報酬でございます! さあ、この素晴らしい富の山を、その聖なる手でお受け取りください!」
ティアナが、満面の笑みで差し出してくる巨大な革袋。 その中には、俺が先日、噴水広場で必死に洗浄したはずの金貨が詰まっている。
だが。 俺の【極清鑑定】は、その金貨の表面に、再び"許されざる汚れ"が付着しているのを逃さなかった。
「……ひっ、……寄越すな」
俺は反射的に、防御結界を展開して後退した。
「アレン様? どうされたのですか!」
「……汚染されている。再汚染だ。……先日、俺があれほど完璧に初期化したはずの金貨が、もう"手垢まみれ"になっている」
俺の視界には、金貨の一枚一枚に、数日前には存在しなかった"新しい指紋"が、ベタベタと幾重にも重なって張り付いているのが見えていた。 騎士団が回収する際に触れ、文官が数える際に触れ、そして今、ティアナが持ってくる際に触れた。 そのたびに、人間の皮膚から分泌される皮脂、汗、そして空気中の雑菌が、金貨という物理メディアに転送されているのだ。
「うわ……。……吐き気がする。見てみろ、この金貨の縁を。指の脂がパッキンのように詰まって、菌の培養土になっている」
俺は口元を押さえ、絶望的な溜息をついた。
「物理メディアの限界だ……。いくらデータをクリーンにしても、ハードウェアそのものを人が手で触る限り、汚れという名のバグは無限に増殖する。……金貨は汚い。構造的に、欠陥品だ」
物理層の脆弱性と「接触」の拒絶
俺は、王都のギルドの一室、ゼクスの店に避難していた。 目の前のテーブルには、ティアナが持ち込んだ金貨の袋が置かれているが、俺は半径2メートル以内に近寄ることを拒否している。
【鑑定対象:流通金貨(再汚染)】 【状態:重度な脂質汚れの再付着】 【汚染経路:騎士Aの手汗(40%)、文官Bの鼻の脂(30%)、空気中の浮遊塵埃(30%)】 【システム評価:物理的な接触回数に比例して、衛生指数が指数関数的に低下しています】
「……ゼクス。俺はもう、限界だ」
俺は、店の奥から引っ張り出してきた、洗浄済みの清潔な椅子に深く座り込んだまま、亡霊のように呟いた。
「へへっ、限界とは穏やかじゃありませんねぇ、勇者様。……これほどの巨富を前にして、何が不満なんです?」
ゼクスが、相変わらず薄汚れた手で金貨を数えようとする。 その指先が金貨に触れる瞬間、俺の脳内で「ピチャッ」という粘着質な音が再生され、鳥肌が立った。
「やめろ、触るな。……その音が聞こえるだけで、俺のSAN値が削られる」
「音? 何も聞こえませんが」
「脂が転写される音だ。……いいか、よく聞け。経済活動とは、本来は『価値情報の交換』だ。Aという価値をBに移転する。それだけの処理のはずだ。だが、この世界では、その情報の運び手として、金貨という『重くて、汚くて、誰が触ったかわからない金属片』を使っている」
俺は空中に、現在の通貨システムの図式を魔力で描いた。
「これは、USBメモリを泥水に漬けてから相手に渡すようなものだ。受け渡しのたびに、手垢、細菌、ウイルスという名の『不要なメタデータ』が付与される。……俺は、金貨を洗うことに疲れた。洗っても洗っても、お前たちが触れば一瞬でゴミに戻る。これは、イタチごっこですらない。賽の河原の石積みだ」
俺は決意を込めて、宣言した。
「だから、俺は決めた。……もう二度と、金貨(物理)には触らない」
「はぁ!? そ、それじゃあ、買い物はどうするんです!? 飯も食えませんよ!」
ゼクスが素っ頓狂な声を上げる。 隣で控えていたティアナも、悲痛な面持ちで叫んだ。
「アレン様! まさか、世俗の一切を断ち切り、霞を食って生きる仙人になられるおつもりですか! 那由多の汚れに絶望し、肉体という檻すらも捨て去ろうと……!」
「捨てない。……アップデートするだけだ」
俺は、懐から「ある物」を取り出した。 それは、ゼクスのガラクタ山から発掘し、俺が徹底的に研磨した、数個の宝石だ。 不純物を極限まで排除した結晶構造は、光を吸い込むような透明度を誇っている。
「これは、俺が洗浄し、魔力的にフォーマットした『記憶媒体』だ。……これに、俺の魔力認証コード(ID)を焼き付けてある」
俺は、テーブルの上に置かれた石板――これも俺が回路を組み直した魔道具だ――に、クリスタルをかざした。 「ピッ」という澄んだ音が響く。
「見てろ。……今、俺のIDから、ゼクスのIDへ、数値を移動させる」
俺が空中の数値を操作すると、石板の表示が変わった。 物理的な接触は一切ない。 ただ、魔力的な信号が、清浄な空間を通って移動しただけだ。
「……これで、支払いは完了だ」
「は? ……へ? なんですか、今の光は」
「データの書き換えだ。俺の持っている『信用』という数値を、お前のクリスタルに転送した。……金貨を渡す必要はない。この石板上の数値が、金貨の代わりだ」
俺は、呆気にとられる二人に、勝利の笑みを向けた。
「名付けて『極清決済』。……物理的な実体を持たない、純粋な情報としての貨幣だ。これなら、手垢もつかない。重くもない。そして何より……誰の汚い手とも触れ合わずに済む」
そう。 俺が考案したのは、この世界初の「電子マネー(クリプト・カレンシー)」だった。 動機は、経済革命ではない。 ただ、「お釣りの小銭を受け取る時に、店員の指が俺の手のひらに触れるのが死ぬほど嫌だ」という、切実な生理的嫌悪感のみである。
聖なる「非接触」の衝撃
一瞬の沈黙。 そして、爆発。
「う……うおおおおおおおおっ!!!!!」
最初に叫んだのは、ゼクスだった。 彼は、震える手で自分のクリスタルを握りしめ(洗浄済みなので許可した)、石板の数字を見つめている。
「す、すげぇ……! すごすぎるぞ、勇者様! こいつは、革命だ!」
ゼクスの目が、金貨を見るとき以上にギラギラと輝き出した。 だが、その輝きは、単なる金欲ではない。 商売人としての本能が、このシステムの恐ろしさを理解したのだ。
「金の輸送コストがゼロ! 重さもゼロ! 盗まれるリスクも、このID認証がある限りほぼゼロ! いや、それどころか……『金貨の純度』や『重さのごまかし』をいちいち鑑定する必要もねぇ! なぜなら、これは『信用』そのものが形になった、究極の取引だからだ!」
「まあ、効率の話をすればそうなるな。I/Oのボトルネックが解消されるから、トランザクション速度は爆上がりする」
「物理を超えた……! そうだ、これこそが商人の到達点だ! 金貨という『物質』への執着を捨て、純粋な『価値』だけをやり取りする……! アレン様、あんたは商売の神だ! いや、泥臭い現金を否定した、天上の会計士だ!」
ゼクスが興奮のあまり、俺の足元に縋り付こうとする。 俺は無言で除菌スプレーを噴射し、結界で彼を弾き飛ばした。
「近寄るな。……で、ティアナ。お前はどうした」
俺が視線を向けると、ティアナはすでに泣いていた。 直立不動のまま、目から滝のような涙を流し、全身を小刻みに震わせている。
「……見えません」
「何がだ」
「アレン様のお姿が……眩しすぎて、直視できませんっ!!!!!」
ティアナは、その場に崩れ落ち、床(俺が磨いたので綺麗だ)に額を擦り付けた。
「あああ、なんという……なんという高潔な魂でしょう! 私のような凡愚は、アレン様が『金貨に触りたくない』と仰った時、一瞬でも『不便ではないか』と考えてしまいました。……恥ずかしい! 穴があったら入りたい! いえ、私が穴になって埋まりたい!」
彼女は顔を上げ、濡れた瞳で俺を見上げた。 その表情は、殉教者のように恍惚としている。
「アレン様は、物理的な富という『鎖』を、完全に断ち切られたのです! 人がなぜ金を欲しがるのか。それは、金が目に見える物質だからです! 触れられるからこそ、人は執着し、奪い合い、その手を手垢と血で汚すのです! しかし!」
ティアナは立ち上がり、剣を抜いて高らかに掲げた。
「アレン様が示された『極清決済』には、実体がありません! あるのは、透明なクリスタルと、清らかな光のみ! これはつまり、『物質への欲望を捨てよ』という神の教え! 相手を信じ、目に見えない絆だけを信じる心! これぞ、魂のキャッシュレス化! 肉体の汚れを超越した、天使たちの商取引なのですっ!!!!!」
「いや、ただのデータベース更新処理なんだけど……」
「皆様、お聞きください!」
ティアナは、もはや俺の話など聞いていない。 彼女は店を飛び出し、ギルド前の大通りに向かって絶叫した。
「勇者アレン様が、新たな奇跡を起こされました! もはや、あの重くて汚い金貨を持ち歩く必要はありません! アレン様は、我々を『物質の重力』から解き放ち、光の速さで価値を交換する『聖なる儀式』を授けてくださったのです! この石を持つ者は、強欲の手垢から永遠に守られるでしょう! さあ、今すぐその汚れた金貨を捨て、アレン様のクリスタル(聖石)を求めるのです!」
爆発的普及
その後の展開は、早かった。 早すぎたと言ってもいい。
「おい聞いたか? 勇者様が使ってる『ゴクジョウ・ペイ』、あれすげぇらしいぞ」 「なんでも、金貨を持ち歩かなくていいから、盗賊に襲われないって話だ」 「それに、あのクリスタルを持ってると、なんだか自分が『選ばれた清潔な人間』になった気がして、背筋が伸びるんだよ」
王都の商ギルドは、雪崩を打ってこの新システムを採用した。 理由は「アレン様が使っているから」という信仰心と、「実際にめちゃくちゃ便利だから」という実利が奇跡的に噛み合ったからだ。 特に、日々の現金の数え間違いや、重い金庫の管理に辟易していた大商人たちが、こぞって俺の元へクリスタルを求めに来た。
俺は、ゼクスに命じて、廃棄された魔石クズを大量に回収させ、それを洗浄・加工してIDを付与する作業に追われた。
「……ふぅ。これで、王都の取引の約4割がデジタル化されたな」
数日後。 俺は、自分の端末(石板)を見ながら、満足げに頷いた。 街を行き交う人々が、ジャラジャラと汚い音を立てる金貨ではなく、静かで清潔なクリスタルをかざして買い物をしている。 屋台の親父が、濡れた手で釣り銭を渡すという「バイオテロ行為」も、激減している。
【システム状況:王都エリアの物理接触率、60%低下】 【衛生指数:大幅に改善】 【俺の精神的平穏:安定傾向】
「素晴らしい。……これこそが、あるべき文明の姿だ」
俺は久しぶりに、吐き気を催すことなく、深呼吸をした。 空気中に漂う「金銭欲」という名の脂ぎったノイズが、デジタル化によってフィルタリングされ、澄んだデータストリームに変わっている。
「アレン様! すごいです! 街が、どんどん静かで、綺麗になっていきます!」
ティアナが、目を輝かせて報告に来る。
「人々は、金貨という物質を手放したことで、心まで軽くなったと言っています! 『支払いのたびに、心が洗われるようだ』と! これも全て、アレン様の『極清決済』のおかげです!」
「ああ。……物理的な接触機会を減らせば、感染症のリスクも減るし、何より俺が快適だ」
俺は、自分の作り上げた「クリーンな経済圏」を眺め、悦に入っていた。 だが。 俺は忘れていた。 システムが高度になればなるほど、そこに巣食う「バグ」もまた、高度で悪質なものへと進化することを。
新たなるバグの影
その日の夕方。 ゼクスが、青ざめた顔で店に駆け込んできた。
「ア、アレン様……! た、大変だ!」
「なんだ、騒々しい。……入店前に消毒はしたか?」
「それどころじゃねぇんです! ……こいつを見てください!」
ゼクスが差し出したのは、俺が発行したはずの「決済用クリスタル」の一つだった。 だが、俺の【極清鑑定】が、その石を見た瞬間に、激しい警告音を鳴らした。
「……っ!? なんだ、これ」
一見すると、俺が作ったものと同じ、ピカピカのクリスタルだ。 だが、その内部構造は、決定的に狂っていた。
【鑑定対象:不正なクリスタル(偽造トークン)】 【状態:悪意あるコードの埋め込み】 【詳細:表面のID情報は正規のものをコピーしていますが、内部の数値定義が改ざんされています。これを使用すると、支払ったふりをして、逆に相手の口座から数値を吸い取る『スキミング術式』が発動します】
「……偽造、だと?」
俺の背筋に、冷たいものが走った。 金貨の偽造なら、重さや見た目で分かる。 だが、これは「データ」の偽造だ。 魔法的なセキュリティホールを突き、システムそのものを汚染しようとする、極めて知能犯的な「汚れ」だ。
「ゼクス。これはどこで手に入れた」
「市場に出回ってるんです……。何個か、妙に魔力の流れが悪い石があるって噂になってて……」
俺は、その偽造クリスタルを凝視した。 その奥底に、ベタリとした、粘着質な「悪意」が見える。 それは、手垢のような物理的な汚れではない。 もっと陰湿で、計算高く、システム全体を腐らせようとする、ウィルスのような汚れ。
「……許せない」
俺の中で、久々に明確な殺意――いや、「消去衝動」が湧き上がった。
「俺が作った、この完全無欠で清潔な決済システムに、ウイルスを仕込んだ奴がいる。……俺の『聖域』に、土足で踏み込んだ馬鹿がいる」
俺は、スプレーのボトルをきつく握りしめた。 物理的な汚れは、洗えば落ちる。 だが、この「論理的な汚れ」は、根源から断ち切らなければ、無限に増殖して世界をクラッシュさせるだろう。
「ティアナ、ゼクス。……出動だ」
俺は立ち上がり、冷徹な目で王都の闇を見据えた。
「王都に蔓延る『偽造金貨』を、一匹残らず駆除する。……セキュリティ・アップデートの時間だ」
【次なるターゲット:経済システムを蝕む「不正コードの偽造者」】 【推奨アクション:全データのフィルタリング、および発生源の物理フォーマット】
俺の戦いは、物理層から論理層へと、そのステージを移そうとしていた。




