第19話:金貨の「浸け置き洗い」が王国を揺らす
王都の裏通りにあるゼクスの店を後にした俺、アレンの精神状態は、極めて「不安定」だった。 正確に言えば、俺の脳内OSが、処理しきれないほどの「不快なエラー」を吐き出し続けている。 原因は、ゼクスから渡された「手数料」という名の金属片。 手の中にある数枚の金貨だ。
「……ひっ、……おえっ」
俺は指先だけで金貨の端を摘み、全力で腕を突き出した。 可能な限り、自分の肺から遠ざける。 だが、鼻腔を突く「饐えた脂の臭い」からは逃げられない。 それは、数千、数万の人間の皮膚を渡り歩いてきた、執念の記録だ。
「アレン様、またしても顔色が優れません! まさか、この金貨の中に潜む、邪悪な魔王の呪いと戦っておられるのですか!」
ティアナが、いつものように見当違いな心配をしてくる。 彼女の鎧は、俺が先ほど入念に施した「超撥水・防汚魔法」によって、一粒の埃も寄せ付けない。 その完璧な白銀の輝きだけが、俺の正気を繋ぎ止める唯一の「クリーンな参照点」だ。
「ティアナ……。呪いなんて、そんな綺麗なものじゃない」 「えっ、呪いよりも恐ろしいものが、この金貨に……!?」 「ああ。……これを見てみろ。システム的に"終わって"いる」
俺は網膜に【極清鑑定】のログを展開した。 視界が切り替わり、金貨の表面が「ミクロレベルの地獄」として描写される。
【鑑定対象:流通金貨(一般)】 【状態:致命的な情報の蓄積(手垢の多層積層)】 【汚染物質:酸化重合した皮脂、剥離した角質、および強欲の脂汚れ(レベル:測定不能)】 【特記事項:金貨同士が"物理的な接着状態"にあり、システム的なフリーズを引き起こしています】
「うわ、汚い。……見てくれ、この金貨同士がくっついて離れない様を」
俺が摘み上げた金貨は、二枚がぴったりと重なったまま、剥がれる気配がない。 それは魔法的な結合などではない。 歴代の持ち主たちが塗りたくった、酸化した皮脂が天然の「接着剤」と化しているのだ。 手垢と埃が重合し、コンクリートのように硬化した「不潔の地層」。 それが、金貨という名のハードウェアを物理的に固着させている。
「いいか、ティアナ。経済とは情報の処理システムだ」 俺は、震える声で持論を展開し始めた。 「情報の円滑な受け渡し、すなわち"トランザクション"こそがシステムの根幹だ。だが、この物理的な汚れという名の"ノイズ"が、その処理効率を著しく低下させている。物理メディアに依存した決済は、この"情報の拭き残し"という名のキャッシュの滞留を生む。これを放置すれば、王国全体の演算リソースは、このベタベタした不純物の処理に浪費され、最終的には物理層からのデッドロックを引き起こす。……つまり、この国は"不潔"によってシステムの実行速度が著しく低下しているんだ。キャッシュの不整合、データの断片化……。これを解消しない限り、俺はこの国の空気を吸うことすら、セキュリティリスクとして拒絶せざるを得ない」
「な、なるほど……! つまり、このベタベタは、世界の流れを止める『悪魔の鎖』なのですね!」 ティアナが、俺の言葉を独自の「騎士道ロジック」で変換する。 「そうだ。……一旦、全部除菌しましょうか。……いや、除菌だけじゃ足りない」
俺は王都の中央広場にある、巨大な「女神の噴水」を見据えた。 「……パイプラインの洗浄が必要だ。……大規模な、な」
「ゼクス! 今すぐ王都中の金貨を集めろ。……俺が、この国の"詰まり"を貫通させてやる」
俺の宣言から数時間。 ギルド職員ゼクスの怪しい交渉術により、広場には山のような金貨が運び込まれた。 誰もが、勇者アレンが「金貨を増やす魔法」でも使うのかと期待の眼差しを向けている。 だが、俺の目的は、ただの「洗濯」だ。
「ティアナ、準備しろ。……ここを、世界で最もクリーンな"洗浄槽"に書き換える」
俺は噴水の周囲に、巨大な魔法陣を構成した。 イメージするのは、水と油を分子レベルで繋ぎ、剥がし取る「仕組み」。 現代の清掃知識、すなわち「界面活性剤」の論理を、魔力によって再構築する。
「【魔力的界面活性魔法:浸け置き洗いの術】」
俺が手をかざすと、噴水の水が青白く発光した。 そこへ、運び込まれた金貨の山を、魔力の腕で一気に流し込む。 ジャラジャラジャラッ! と、不快な音が広場に響く。
「シュゥゥゥゥッ……!」
水面に金貨が触れた瞬間、猛烈な泡立ちが発生した。 それは、数千年の間、金貨にこびりついていた「強欲の脂」が、俺の魔法成分と反応して剥離している証拠だ。 白い泡が、瞬く間に「どす黒いヘドロ」へと変わっていく。
「うわ……。……想像以上に汚いな。情報の残骸が溢れ出している」 俺は顔をしかめ、さらなる魔力を流し込んだ。 「【苦円酸パルス(シトリック・パルス)】、さらに【重層魔法】で中和。……乳化を加速させろ!」
噴水広場全体が、巨大な超音波洗浄機と化した。 金貨の隙間に溜まっていた、黒カビ、ダニの死骸、そして持ち主たちの見苦しい「未練」という名の脂汚れ。 それらが、魔法の振動によって物理的に粉砕され、水の中へと溶け出していく。
その時だった。 俺の背後で、もはや物理的な衝撃波に近い「熱量」が爆発した。
「ア、アレン様ぁぁぁーーーーっ!!!」
広場に、ティアナの絶叫が響き渡る。 彼女は、噴水から流れ出る「黒い汁」を見つめ、その場に崩れ落ちていた。 その瞳には、もはや崇拝を通り越して、狂信的なまでの「光」が宿っている。
「なんという……! なんという慈悲の深さでしょう! 今、私は世界の真理を、この魂に刻み込みましたっ!!!」
ティアナは、溢れ出る涙を拭おうともせず、噴水に向かって深く深く頭を垂れた。 その震える肩からは、彼女がいかに激しい「魂のデフラグ」を経験しているかが伝わってくる。
「皆様、ご覧くださいっ! あの噴水から流れ出る、どす黒い濁流をっ! あれこそが、私たち人間が、この数千年の間に金貨へ擦り付けてきた『業』そのものなのですっ! 富を奪い合い、他人を蹴落とし、自分だけが肥え太ろうとした……。その醜い心の脂が、アレン様の聖なる魔力によって、今まさに『救済』されているのですっ!!!」
「いや、ただの手垢と皮脂汚れを分解してるだけなんだけど……」
「いいえっ! アレン様はあえて『お掃除』という言葉を選ばれましたが、それは私たちのような愚かな人間にも理解できるように示された、至高の比喩なのですっ! あの黒い汁の一滴一滴には、借金に苦しんだ者の涙が、富に溺れた者の傲慢が、そして人を裏切った者の嘘が、物理的な『不浄』となって溶け込んでいる……。アレン様は、そのすべてを自らの魔力で引き受け、この世界そのものを『洗濯』してくださっているのですねっ!!!」
ティアナは、跪いたまま群衆に向かって叫び続ける。 その言葉は、広場に集まった数千人の民衆の心を、一瞬で鷲掴みにした。
「ああっ! 見てください! 黒い闇が晴れ、噴水の底から『真実の輝き』が現れましたっ! これはただの金貨ではありません! アレン様の洗礼を受け、あらゆる欲望から解放された『聖なる通貨』なのです! 私たちは今、歴史上初めて、自分たちの汚れを洗い流し、真っ白な心で経済をやり直すチャンスを授かったのですっ! アレン様、あなたはもはや勇者などという小さな器ではない! あなたは、この濁りきった現世(OS)を丸ごと再起動させ、すべての魂を工場出荷状態へと導く、経済の救世主……『大掃除の神』でございますっ!!!」
「神様って呼ぶのはやめてくれ。……それより、排水溝が詰まりそうなんだが」
「あああっ! どこまで謙虚であられるのか! 排水溝の詰まり……。それは、この王国の最深部に溜まった、救いようのない大きな罪のことですね! 分かっております! このティアナ、アレン様の雑巾となって、その不浄の根源を、この身を賭して抉り出して参りますっ! 全員、跪け! 奇跡だ! これは奇跡のデフラグなのだぁぁぁーーーーっ!!!」
ティアナの叫びに呼応するように、広場中の人々が、一斉に地面に頭をこすりつけた。 「勇者様ぁぁぁ!」「我々の強欲を洗ってくださったぁ!」 すすり泣きと、感謝の祈りが、除菌された空気の中に満ちていく。 中には、自分の財布を噴水に投げ入れ、「私の罪も洗ってください!」と叫ぶ商人まで現れる始末だ。
俺は、深い溜息をついた。 情報の最適化は、効率的な社会の基本だ。 だが、この世界の住人は、どうしてこうも「仕組み」を「宗教」へと飛躍させてしまうのか。
【システム状況:王都エリアのキャッシュクリア完了】 【清潔度:99.8%(物理的固着の完全解消)】
鑑定ログが、清々しい青色に染まる。 噴水の水は再び澄み渡り、底に沈んだ金貨たちは、かつてないほどの、いや、それこそ「新品」の輝きを放っていた。 これが、不純物という名のノイズを取り除いた、システムの「真のパフォーマンス」だ。
「……さて。ゼクス、ティアナ。これでようやく、まともに取引ができる」 俺は、金貨を一握り掬い上げ、満足げに頷いた。 かつてのベタつきは、一ミリも残っていない。 指の上を、サラサラと滑る黄金の感触。 これなら、素手で触っても「生存の危機」は感じないだろう。
だが、俺がその輝きに見惚れていた、その時。 【極清鑑定】が、広場の地下深くから、かつてない「深刻なバグ」の振動を捉えた。
【警告:下層レイヤーに致命的な不整合を検知】 【推定:洗い流された脂汚れ(業)が、地下の排水溝で魔力的に結合】 【ターゲット:不浄の集合体【グリード・ヘドロ】】
「……う、おえっ」 俺は再び口元を押さえた。 俺が洗い流した「強欲の脂」という名の情報の残骸。 それが、あまりにも濃密すぎたせいで、地下で実体化しようとしているらしい。
「ティアナ。……喜んでいる暇はない。……今、排水溝が物理的に"怒って"いる」 「排水溝の怒り……!? 救済から漏れた、最後の悪を討てと仰るのですね!」
俺のお掃除無双は、王国の表面を綺麗にしただけでは終わらない。 次なる戦いは、地下に溜まった「数千年の汚れのなれの果て」。 俺は、新しい除菌カートリッジを装填し、広場の石畳を見据えた。




