第8花 見てはいけないページ
朝の教室は、まだ静かだった。
俺は窓際の席に座り、
机の中に入れたノートの感触を、ずっと意識していた。
持ってきたのは失敗だったかもしれない。
でも、家に置いておくのも、怖かった。
――書いてあることが、あまりにも現実すぎて。
「おはよ、アスター」
背後から声。
振り返らなくても、分かる。
「……おはよう」
ダリアだった。
机の横に立って、
いつも通りの距離で、いつも通りに笑っている。
「今日、早いね」
「たまたま」
「ふーん」
間延びした返事。
視線が、俺じゃなく――机の中に向いている。
嫌な予感が、背骨をなぞった。
「それ、なに?」
ダリアが言った。
「……なにって」
「鞄じゃないよ。机の中」
心臓が、はっきりと音を立てた。
俺は、答えない。
ダリアは気にしない。
勝手に、しゃがみ込む。
「ちょ、やめろ――」
言い終わる前に、
彼女の指が、ノートの端をつまんでいた。
引き抜かれる。
ページが、ぱらりと開く。
「……へえ」
ダリアの声が、ほんの少しだけ低くなった。
最悪だ。
見られた。
条件。
名前。
印。
優先順位をつけようとした、あのページ。
「これさ」
ダリアは、ページをめくりながら言う。
「思ったより、ずっと具体的なんだね」
「返せ」
手を伸ばす。
でも、ダリアはひょいと避ける。
「スズラン、モモ、私」
名前を、順番に読み上げる。
笑っていない。
「……これ、なに?」
問い方が、変わった。
からかいじゃない。
探りでもない。
確認だ。
「お前には関係ない」
「あるよ」
即答だった。
「だってここに、私の名前あるもん」
視線が、真っ直ぐ刺さる。
「これ、どういう意味?」
空気が、張りつめる。
周囲にはまだ、誰もいない。
逃げ場も、ごまかしも、ない。
「……予測だ」
ようやく、それだけ言った。
「何の?」
「……未来の」
ダリアは、じっと俺を見ていた。
数秒。
それから、ノートを閉じる。
表情が、読めない。
「そっか」
小さく、そう言った。
「じゃあさ」
一歩、近づいてくる。
「私は、どの未来なの?」
言葉が、出なかった。
ダリアは、俺の沈黙を見て、理解したように目を細める。
「あー……なるほど」
苦笑に近い笑み。
「これ、“選別表”なんだ」
核心を突かれて、背中が冷たくなる。
「誰を優先して、
誰を後回しにするか」
ダリアは、淡々と続ける。
「……で、私は?」
問いは、柔らかい。
でも、逃げ道はない。
「教えてよ、アスター」
声が、わずかに低い。
「私は……どっち側?」
その瞬間。
視界の端で、
ダリアの周囲にある光が、かすかに脈打った。
反応している。
この会話そのものに。
俺は、理解する。
――知られてはいけなかった。
――選択は、共有されるものじゃない。
ダリアは、まだ俺を見ている。
答えを、待っている。
でも、俺は言えない。
言った瞬間、
彼女が「選ばれた側」でも「選ばれなかった側」でも、
フラグは、確実に動く。
沈黙が、答えだった。
ダリアは、ふっと息を吐く。
「そっか」
さっきと同じ言葉。
でも、今度は意味が違う。
ノートを、机の上に置く。
「……ごめんね」
謝るような声。
けれど、その目は、どこか決定的だった。
「やっぱり、
ひとりでやらせちゃだめだわ、これ」
背筋が、凍る。
「……何をする気だ」
ダリアは、微笑った。
いつもの、軽い笑み。
でも、その奥にあるのは――
覚悟だった。
「踏み込むって言ったでしょ?」
くるりと背を向ける。
「もう、戻れないみたいだから」
教室のドアに手をかけて、振り返る。
「安心して」
どこか優しい声で。
「あなたが選ぶ前に、
私も選ぶから」
そう言って、ダリアは出ていった。
教室に、俺だけが残る。
机の上のノートを、見下ろす。
たった数ページの紙切れが、
今や、爆弾みたいに見えた。
――見られた。
――知られた。
――共有された。
これはもう、
俺一人の物語じゃない。
世界が、また一段階、形を変えた。




