第23恋 静かな相談
放課後の教室には、俺とダリアの二人だけが残っていた。
窓の外では、部活の掛け声が遠く響いている。
その音が、やけに現実感を伴って聞こえた。
「今日は、何も起きなかったね」
ダリアが、窓際の席に座ったまま言った。
「ああ……そうだな」
俺は自分の席に座りながら、机の中のノートの感触を思い出す。
今日は、まだ開いていない。
「でも、それって……いいことだよね?」
「もちろんだろ」
「うん、そうなんだけど……」
ダリアは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「最近、“空白の日”が増えてきてるでしょ」
「……気づいてたのか」
「そりゃ、気づくよ」
軽く笑いながら、ダリアは続ける。
「前は、もっと……張りつめてた感じがしたから」
「……」
「最近のアスターくん、ちょっとだけ、普通の高校生っぽい」
その言い方が、なぜか胸に引っかかった。
「それって、悪いことか?」
「ううん。むしろ、いいこと」
ダリアは即答した。
「ちゃんと笑ってるし、ちゃんと疲れてるし」
「無理してる感じが、前より減ってる」
そう言われて、初めて気づく。
たしかに、最近は夜も少し眠れている。
「……それなら、よかったじゃないか」
「うん」
ダリアは頷いたあと、ほんの少しだけ視線を落とした。
「でもね」
その一言で、空気がわずかに変わる。
「もし、“何も起きない”って状態に……慣れすぎたら」
「……」
「逆に、気づけなくなるんじゃないかなって、思って」
俺は言葉を失った。
「ちょっとした違和感とか」
「ほんのわずかなズレとか」
「そういうのって、油断してると、簡単に見落としちゃうでしょ?」
声は相変わらず柔らかい。
理屈も、正しい。
でも――
「……だから?」
「だから、ちゃんと……見ておいたほうがいいと思う」
「何を?」
「ノート」
その単語が出た瞬間、心臓がわずかに強く打った。
「毎日、ちゃんと開いてる?」
「……一応な」
「“一応”じゃなくて」
ダリアは、こちらを見て微笑った。
「習慣にしたほうがいいと思うんだ」
習慣。
その言葉が、妙に重く響いた。
「何も起きない日でも」
「予定が書いてなくても」
「ちゃんと確認する」
「そうすれば、もし何かが変わったとき……すぐに気づけるでしょ?」
正論だった。
正論すぎて、反論の余地がない。
「……わかったよ。気をつける」
「ほんと?」
ダリアは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「うん、それなら安心」
安心。
誰のための言葉なのか、わからなくなる。
「私ね」
ダリアは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「アスターくんが、“気づけなかった”って後悔する顔、もう見たくないから」
静かな声だった。
優しい声だった。
なのに、その言葉は
「だから見続けてほしい」
という願いにも、
「見続けてほしい」
という要求にも聞こえた。
「……ありがとう」
そう言うと、ダリアは小さく笑った。
「どういたしまして」
それだけだった。
それ以上、何も言わなかった。
やがて、ダリアは鞄を持って立ち上がる。
「じゃあ、先に帰るね」
「ああ」
「無理しすぎないでね」
最後まで、優しかった。
教室のドアが閉まったあと、俺はしばらく動けなかった。
机の中に手を入れて、ノートに触れる。
たしかに――
ここ最近、開かない日もあった。
“何も起きない”という安心感に、甘えていたのかもしれない。
でも。
――本当に、それだけだろうか。
ダリアの言葉を思い返す。
「習慣にしたほうがいい」
「ちゃんと、見ておいたほうがいい」
「気づけなくなるといけないから」
どれも、正しい。
どれも、優しい。
なのに、胸の奥に残る、この小さな違和感。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
俺は今日、
「自分のためにノートを見る」のか
「誰かの安心のためにノートを見る」のか
わからなくなり始めていた。
ノートを開く指が、ほんの少しだけ重く感じられた。




