第22花 ダリアの条件
放課後の教室は、もうほとんど空っぽだった。
カーテン越しの夕陽が、机の角を鈍く光らせている。
誰もいないはずの空間なのに、息が詰まるように静かだった。
「……帰らないの?」
背後から、声がした。
振り返らなくてもわかる。
この距離感、この声色。
ダリアだった。
「用事があるなら、先に帰ればいいだろ」
「ううん。今日は……帰らない」
足音が近づく。
俺の机の隣まで来て、止まった。
視線を感じる。
まっすぐ、逃げ場のない視線。
「ねえ、アスターくん」
「……なんだよ」
「そのノート」
心臓が、一拍だけ遅れて跳ねた。
机の中に入れてある、あのノート。
誰にも見せないように、誰にも触れさせないように、何度も位置を確かめてきたそれ。
「……何の話だ」
「とぼけなくていいよ」
ダリアは笑っていた。
いつもの、少し楽しそうな笑い方。
なのに、その声がやけに冷たかった。
「見ちゃったから。昨日、保健室の前で」
「……」
「落としそうになってたよね? 机から出すとき」
記憶が、嫌なほど鮮明に蘇る。
あのとき、確かにダリアは廊下にいた。
「……見ただけなら、わからないだろ。中身までは」
「うん、全部はわからない」
そこで、ダリアは少しだけ首を傾げた。
「でもね、“普通のノートじゃない”ってことはわかるよ」
沈黙が落ちる。
俺は何も言えなかった。
「びっしり書き込まれてた。日付と、名前と……それから、変なマーク」
「……」
「消しゴムで消して、上から書き直した跡もあった」
まるで、観察日記を読み上げるみたいに、淡々と。
「ねえ、あれってさ」
ダリアは、ゆっくりと言った。
「“未来のこと”、書いてるんでしょ?」
空気が、凍りついた。
教室の時計の秒針だけが、やけにうるさく感じる。
「……証拠は」
「ないよ。だから誰にも言ってない」
ダリアはあっさりと言った。
「でも、私は信じてる」
「……なんで」
「だって、辻褄が合いすぎてるんだもん」
机に手をついて、俺の顔を覗き込んでくる。
「怪我しそうだった子が、直前で助かってる」
「問題起こしそうだったクラスが、なぜか未然に収まってる」
「そして、その中心に、必ずアスターくんがいる」
やめろ、と言いたかった。
でも声が出なかった。
「……安心して」
ダリアは、ふっと声を柔らかくした。
「私は言わないから」
そこで初めて、俺は顔を上げた。
「……本当か?」
「うん。その代わり」
その言葉に、嫌な予感がした。
ダリアは、にっこりと微笑った。
「条件があるの」
「条件……?」
指先で、机の縁をなぞりながら言う。
「これから先、何かを“助ける”とき」
「……」
「私にも、教えて」
言葉は穏やかなのに、意味は重かった。
「一人で全部背負わないで」
「私にも、選ばせて」
選ばせて。
その一言が、胸に深く刺さった。
「アスターくんが決めてる“正解”が、本当に正しいとは限らないでしょ?」
「……」
「だったら、二人で考えたほうがいい」
理屈は、正しかった。
あまりにも正しすぎた。
だからこそ、怖かった。
「……もし、断ったら」
「そのときは――」
ダリアは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……私は、私のやり方で動くよ」
やり方、という言葉の中に、含みがあった。
それが何を意味するのか、聞くことはできなかった。
俺は、ただ机の中のノートを思い浮かべる。
あのノートがある限り、
誰かが傷つく未来を、俺は“知ってしまう”。
そして今――
その重荷を、ダリアが半分持とうとしている。
「……わかった」
ようやく、そう答えた。
ダリアの表情が、少しだけやわらかくなる。
「よかった」
その笑顔が、安心なのか、それとも別の何かなのか。
俺には、まだ判断がつかなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この瞬間から、もう――
俺は一人じゃなくなった、ということだ。
それが救いなのか、
それとも、もっと深い地獄の始まりなのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。




