第21花 「ねえアスター、それ……何?」
放課後の教室は、思ったより静かだった。
窓の外では部活の掛け声が遠く響いている。
いつもなら、俺はこの時間を狙って教室を出る。
――ノートを書き換える時間が、必要だから。
なのに今日は、席を立てずにいた。
視線を感じている。
背中に、ずっと。
「……帰らないの?」
静かな声だった。
振り返ると、ダリアが机に腰掛けてこちらを見ていた。
机の上には何もない。カバンも閉じたまま。
「……今日は部活、ないのかよ」
「うん。サボり」
あっさり言う。
それがダリアらしくて、余計に怖い。
「珍しいな」
「珍しくしたの。今日は」
言葉の選び方が、妙に意図的だった。
俺はノートの入ったカバンに、無意識に指をかけてしまう。
――しまった。
その動きを、ダリアが見逃すはずがない。
「……それ、大事なもの?」
きた。
「別に」
「ふうん」
ダリアは机から降りて、ゆっくりと俺の方に歩いてくる。
足音がやけに大きく聞こえる。
俺は席に座ったまま、立てない。
近づく距離が、怖いんじゃない。
近づくことで、ノートの存在が現実になることが、怖い。
「最近さ」
「……なに」
「アスター、ずっと何か隠してるよね」
心臓が、嫌な音を立てた。
「別に」
「嘘」
即答だった。
「嘘つくの下手だもん。昔から」
……知ってる。
幼なじみだから。
俺の癖も、沈黙の意味も、考え込む時の視線の動きも。
だからこそ、最悪だった。
「最近、事故が減ってる」
「……は?」
「私が知ってる限りでね」
ダリアの視線が、カバンへ落ちる。
「クラスの人たち、前はもっと……“運が悪かった”」
「……偶然だろ」
「偶然って便利な言葉だよね」
ダリアは、俺の机の前で立ち止まった。
逃げ道は、もうない。
「ねえアスター」
声が、優しい。
だから余計に、残酷だった。
「もし、誰かの未来が見える人がいたら……どうすると思う?」
「……知らねぇよ」
「助ける?」
その問いは、軽すぎた。
でも、重すぎた。
「……当たり前だろ」
反射で答えてしまった。
しまった、と同時に思った。
ダリアの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「……やっぱり」
「な、なにがだよ」
ダリアは俺の机に手を置く。
距離が、近すぎる。
「アスター、最近ずっと“間に合ってる”んだよ」
「……」
「事故の前に、声をかける。トラブルの前に、動く。偶然にしては、精度が高すぎる」
喉が、動かない。
「……それで?」
なんとか絞り出した。
ダリアは、少しだけ首を傾げて言った。
「だから思ったの」
そして、俺のカバンに視線を落とす。
「それ……ノートでしょ?」
世界が、一瞬止まった。
風の音も、廊下の足音も、全部が遠のく。
「……何言ってんだよ」
声が、自分でもわかるほど、震えていた。
ダリアは笑わない。
冗談っぽくもしない。
ただ、静かに言った。
「見せて」
「……」
「信じたいから」
その言葉が、一番きつかった。
「見せてくれたら、何も聞かない。
もし違うなら、私が謝る」
俺の手は、カバンの取っ手を強く握りしめていた。
逃げればいい。
拒否すればいい。
今までだって、そうしてきた。
――でも。
このまま誤魔化し続けたら、ダリアはもっと深く疑う。
もっと鋭く探る。
もっと近づいてくる。
そしていつか、スズランも。
教師も。
クラス全体も。
「……少しだけだぞ」
自分でも、信じられない言葉が口から出た。
ダリアの目が、わずかに揺れた。
「……うん」
俺はゆっくりと、カバンのファスナーを開ける。
中に入っている、黒いノート。
表紙には、何も書いていない。
でも、そこに書かれている中身は――
ダリアは、そっとそれを手に取った。
ページを、めくる。
数秒。
たったそれだけの時間で。
ダリアの顔から、すべての血の気が引いた。
「……なに、これ」
声が、震えている。
当然だ。
普通の人間が、読める内容じゃない。
名前。
日時。
事故の内容。
回避方法。
失敗した場合の結果。
――人の「死」が、淡々と記録されたノート。
「……これ、全部……本当なの?」
俺は、答えなかった。
答えなくても、伝わってしまったから。
ダリアの手が、ノートを握りしめる。
「……じゃあ」
息を飲む音。
「……私も……?」
そのページは、開かれていなかった。
でも、俺は知っている。
ダリアの名前は――
もう、かなり上の方に書いてある。
沈黙が、教室に落ちる。
破裂しそうな静けさの中で、ダリアが小さく言った。
「……ねえ、アスター」
「……」
「これ、ひとりで抱えてたの?」
責める声じゃなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、痛そうな声だった。
「……なんで、誰にも言わなかったの」
その問いに、俺は答えられなかった。
答えたら、たぶん、全部壊れる。
俺たちの関係も。
今まで保ってきた「秘密」も。
そして――この世界のバランスも。
ダリアは、ノートを胸に抱えたまま、呟いた。
「……これ、もう……戻れないやつだよね」
その一言が、すべてだった。
――ああ。
やっぱり。
触れた時点で、世界は壊れ始める。




