第20花 それ、違います
紙が、わずかに擦れる音がした。
アイリスの指先が、ノートの表紙を持ち上げる。
あと少しで、ページが開かれる。
その瞬間。
「……それ、違います」
声が、教室に落ちた。
小さな声だった。
でも、なぜかはっきりと、全員の耳に届いた。
空気が、止まる。
アイリスの手が、ぴたりと止まった。
ミモザが、ゆっくりと声のした方を見る。
俺も、反射的にそちらを見た。
――スズランだった。
席に座ったまま、まっすぐ前を見ている。
震えているようには見えない。
ただ、唇だけが、強く結ばれていた。
「……スズランさん?」
ミモザが、戸惑いながら名前を呼ぶ。
「どういう意味かしら?」
スズランは、一瞬だけ視線を落とした。
それから、もう一度、顔を上げる。
「……そのノート」
指先が、俺の机の上を指した。
「危ないものじゃ、ありません」
教室が、ざわりと揺れる。
誰かが、小さく息を呑んだ。
誰かが、信じられないものを見るような目で、スズランを見る。
――なぜ、彼女がそんなことを言える?
その疑問が、教室中に浮かんでいるのが、痛いほど伝わってきた。
「……どうして、そう言えるの?」
アイリスの声は、冷静だった。
けれど、明らかに空気が変わった。
これは、ただの検査じゃなくなった。
「中身を、見たことがあるの?」
その問いに、スズランは答えなかった。
否定もしなかった。
肯定もしなかった。
ただ、少しだけ、言葉を選ぶように間を置いてから、言った。
「……少なくとも、誰かを傷つけるためのものじゃないってことは、わかります」
教室の空気が、さらに重くなる。
ミモザが、困ったように眉を寄せた。
「スズランさん、それは……推測よね?」
「……はい」
スズランは、正直に頷いた。
「でも」
視線を逸らさない。
「推測だけで、アスターを疑ってるのも、同じじゃないですか」
一瞬、言葉が止まった。
その一言は、
教師だけじゃなく、クラス全体に向けられていた。
空気が、張り詰める。
誰もが、何かを言われた気になって、何も言えなくなった。
アイリスは、ノートを持ったまま、スズランを見つめる。
「……あなたは、彼を信じているの?」
「……はい」
即答だった。
迷いのない、声だった。
俺の胸の奥で、何かが、ひどく歪んだ。
なんで、そんな顔で言えるんだ。
なんで、そんなふうに言い切れるんだ。
何も知らないくせに。
いや――知ったら、もっと否定したくなるようなことを、俺は抱えているのに。
「……信頼だけで、すべてを片付けるわけにはいきません」
アイリスの声は、どこか硬くなっていた。
「私たちは教師です。
生徒全員の安全を、守らなければならない」
「わかってます」
スズランは、頷いた。
でも、引かなかった。
「でも……それでも」
一度だけ、視線が揺れた。
ほんの一瞬だけ、俺の方を見た。
そして、また前を見る。
「……それでも、私は」
言葉が、教室に落ちる。
「アスターが、悪いことをする人だとは、思えません」
ざわめきが、今度ははっきりと起きた。
誰かが「え……」と声を漏らす。
誰かが、「なんでそこまで」と呟く。
視線が、俺とスズランの間を行き来する。
関係を測るような目。
勘繰るような目。
理解できないものを見るような目。
……最悪だ。
これ以上ないくらい、最悪の展開だった。
俺は、守りたくて、隠してきた。
誰にも背負わせないために、黙ってきた。
なのに。
今、彼女は――
何も知らないまま、俺のために、クラスと教師を敵に回している。
「……スズラン」
気づいたときには、声が出ていた。
自分でも、驚くほど、掠れていた。
スズランが、こちらを見る。
「……やめろ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
それ以上、言葉にできなかった。
やめてくれ。
これ以上、踏み込むな。
これ以上、俺に関わるな。
そう言いたかったのに。
スズランは、首を横に振った。
小さく。
でも、はっきりと。
「……やめない」
その一言が、決定打だった。
アイリスの指が、ゆっくりとノートから離れる。
机の上に、そっと戻される。
教室が、再び静まり返る。
「……わかりました」
アイリスは、静かに言った。
「今日は、ここまでにします」
その言葉に、誰もが驚いた。
「ただし」
視線が、俺に向く。
「この件については、保留ではありません。
後日、改めて話を聞かせてもらいます」
それは、宣告だった。
先延ばしにされた審判。
猶予期間のようでいて、逃げ場のない予告。
教師たちが、教室を出ていく。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
静寂。
クラスの誰もが、何も言えずにいる。
視線だけが、痛いほど集まっている。
俺は、机の上のノートを見る。
開かれなかった。
読まれなかった。
なのに。
それ以上に、取り返しのつかないものを、失った気がしていた。
スズランの方を見る。
彼女は、まだこちらを見ていた。
怖がっていない。
疑っていない。
ただ、まっすぐな目で。
――どうして。
どうして、そんな目で見られるんだ。
俺は、君が思っているような人間じゃない。
君が信じているような、綺麗な存在じゃない。
そう、叫びたかった。
でも、声は出なかった。
代わりに、胸の奥に、ひとつだけ、確かな感覚が残っていた。
――もう、戻れない。
検査は止まった。
発覚は先延ばしになった。
それでも。
今日という日は、
確実に、すべての関係を変えてしまった。
俺とスズランの間にあった「何も知らない距離」は、もう存在しない。
クラスの中で、
俺はただの“静かなやつ”ではいられなくなった。
教師の目も、
以前より、はるかに鋭くなった。
そして何より――
スズランの中で、
俺はもう、「守る対象」になってしまった。
それが、何よりも、怖かった。




