第19花 見つかる音
朝の教室は、どこか落ち着かなかった。
いつもなら、机を叩く音や笑い声で満ちているはずなのに、今日は違う。
声が、小さい。
動きが、ぎこちない。
理由は、ひとつしかない。
「今日らしいよ」
「まじで?」
「抜き打ちって言ってた」
持ち物検査。
誰が対象なのか。
何を探しているのか。
正確なことは誰も知らない。
だからこそ、クラス全体が、薄い不安に包まれていた。
……いや。
俺だけは、はっきりと知っていた。
対象は、たぶん俺だ。
机の中に入っているノートの感触が、やけに生々しい。
教科書の裏。
プリントの束の下。
触れればすぐに、そこにあるとわかる位置。
完璧に隠しているわけじゃない。
むしろ、あえてそうしている。
見つかる可能性を、拒絶していない。
――それが、昨日の俺の選択だった。
「……おはよ」
隣の席に、スズランが座る。
声は、いつも通りだった。
少しだけ眠そうで、少しだけ柔らかい。
でも、目だけは違った。
最近、何かを測るような視線を向けてくることが増えている。
「おはよう」
それだけ返す。
それ以上、何も言えなかった。
もし、今日のことを知っているかもしれない。
もし、知らなくても、これから知るかもしれない。
どちらにしても、
今までみたいに、普通に話していい気がしなかった。
「……なんか、緊張してる?」
スズランが、ぽつりと聞く。
「みんな、そうだろ」
「そっか」
それ以上、踏み込んではこなかった。
でも、その距離が、逆に苦しかった。
――ごめん。
心の中でだけ、そう呟いた。
何に対してなのかは、わからない。
●
チャイムが鳴る。
担任のミモザと、学年主任のアイリスが、同時に教室に入ってきた。
空気が、はっきりと変わる。
ざわつきが、一瞬で消える。
「おはようございます」
アイリスの声は、静かだった。
けれど、教室の全員が背筋を伸ばす。
「今日は、少し時間を取ります」
黒板の前に立ち、クラス全体を見渡す。
「トラブル防止のため、全員の持ち物を確認させてもらいます」
誰も、声を出さなかった。
出せなかった。
「これは、誰かを疑うためのものではありません」
その言葉は、きれいだった。
でも、
この場にいる全員が、直感的に理解していた。
――これは、“誰か”のための検査だ。
「カバンと、机の中身を、順番に見ていきます」
ミモザが補足する。
その声は、どこか硬かった。
「個人の尊厳には配慮します。
ですが、協力してください」
クラスの空気が、さらに重くなる。
前の列から、順番に始まった。
一人ずつ、机の中身を出す。
カバンを開ける。
教師が、それを確認する。
ただ、それだけの光景のはずなのに、
やけに長く感じた。
誰かのペンケース。
誰かの漫画。
誰かの忘れ物。
教師の手が、それらをめくり、戻す。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
そして、少しずつ、列が近づいてくる。
俺の番が、確実に近づいてくる。
心臓の音が、やけに大きい。
隣では、スズランが、静かに前を見ている。
何を考えているのか、わからない。
……わからない方が、楽だった。
「……次」
アイリスの声。
前の席の生徒が、机を閉じる。
そして。
アイリスの視線が、俺の机に向く。
「アスターくん」
名前を呼ばれる。
たったそれだけで、空気が変わる。
クラスの中の、いくつもの視線が、こちらに集まるのがわかる。
立ち上がる。
机の中から、教科書、ノート、プリントを、順番に出していく。
最後に残るのは――
あの、黒い表紙のノート。
指先が、それに触れる。
一瞬だけ、ためらう。
でも、引っ込めなかった。
机の上に、すべてを並べる。
教師の手が、ひとつひとつを確認していく。
教科書。
問題集。
連絡帳。
そして。
最後に残ったのが、そのノートだった。
黒い、何の飾りもない表紙。
市販の、ただのノートにしか見えない。
……はずなのに。
なぜか、それだけが、異様に目立っていた。
アイリスの指先が、止まる。
ほんの一瞬。
たった、それだけの“間”。
でも、その沈黙は、
今までのどの瞬間よりも長く感じた。
そして――
アイリスが、そのノートに、指をかける。
持ち上げる。
ページを開く、直前の位置で。
その瞬間、
なぜか、教室の音が、すべて消えたように感じた。
誰も、何も言っていないのに。
何も、まだ読まれていないのに。
俺には、はっきりとわかった。
――ああ。
――ここで、終わるんだ。
アイリスの指先が、
ノートの表紙を、わずかに持ち上げる。
紙が擦れる、ごく小さな音がした。




