第18花 それでも、俺が決める
夜の部屋は、静かすぎた。
冷蔵庫の低い唸り。
時計の針が刻む秒の音。
それ以外、何もない。
机の上に、ノートが開かれている。
黒い表紙。
何の変哲もない、ただの大学ノート。
なのに、これ一冊が、
俺の人生も、周りの人生も、壊しかねない。
「……持ち物検査、か」
昼休み、廊下の端で聞こえた会話。
「今週中らしいよ」
「やばい人いないといいけど」
「誰が原因なんだろ」
原因が、俺だなんて。
誰も思っていない声だった。
――いや。
思っている人間も、もういる。
だからこそ、動き始めた。
教師が。
学校が。
“システム”が。
机の上のノートに、視線を落とす。
これを持っている限り、
いつか必ず、見つかる。
時間の問題だ。
じゃあ、どうする?
答えは、もう出ている。
捨てる。
燃やす。
隠す。
誰かに預ける。
選択肢はいくつもある。
でも――
どれも、同じ結末にしか見えなかった。
ノートを閉じる。
手のひらに伝わる、紙の感触。
軽い。
あまりにも軽い。
なのに、重すぎる。
ページをめくる。
そこには、今まで書いてきた名前がある。
ヒヤシンス。
カンナ。
リンドウ。
……スズラン。
助けた名前。
助けなかった名前。
迷った名前。
全部が、ここにある。
「……消せばいい、のか」
呟いてみる。
名前を、線で塗り潰す。
ページを破り取る。
証拠をなくす。
それで、俺は“普通”に戻れる?
……無理だ。
もう知ってしまったから。
誰が、いつ、どんなふうに死ぬ可能性を持っているか。
どの選択が、どの未来につながるか。
ノートを失っても、
この記憶までは消えない。
だったら。
「……なら、せめて」
ノートを、ゆっくりと引き寄せる。
新しいページを開く。
何も書かれていない、真っ白なページ。
そこに、ペンを置いた。
書くべきか。
書かざるべきか。
今までは、「起きそうなこと」を書いてきた。
起きる前に。
間に合うように。
でも、これからは違う。
もし、どうせ見つかる可能性があるなら。
もし、どうせ疑われ続けるなら。
――だったら。
俺は、書く内容を変える。
未来の記録ではなく、
自分の意思の記録にする。
ペンを走らせる。
> これは、予測ではない。
> 記録でもない。
> 俺の選択だ。
一行ずつ、書きつけていく。
> 助けるかどうかは、俺が決める。
> 世界でも、運命でもなく。
> 他人の期待でもなく。
手が、わずかに震える。
怖いのは、検査じゃない。
バレることでもない。
怖いのは――
自分が、どこまで冷たくなれるかだ。
ページの下に、最後の一文を書く。
> このノートは、正しさのためのものじゃない。
> 俺が壊れないための、言い訳だ。
ペンを置く。
書き終えたページを見つめながら、
胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。
……もう、戻れない。
これで、このノートは、
ただの「未来予測ツール」じゃなくなった。
俺自身の歪みを、はっきり刻んだ証拠になった。
誰かに見られたら、終わる。
社会的にも、精神的にも。
それでも。
「……それでも、俺が決める」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
机の引き出しを開ける。
ノートを、奥の奥に押し込む。
雑誌の下。
教科書の裏。
一番手前には、何でもないプリントの束。
完璧な隠し場所じゃない。
でも、今までとは違う。
“守るために隠す”のではなく、
“覚悟を持って持ち続ける”ために、しまった。
部屋の電気を消す。
暗闇の中で、天井を見つめる。
もし、このまま検査で見つかったら。
もし、教師に読まれたら。
もし、スズランに知られたら。
――それでも。
もう、逃げないと決めた。
この選択が正しいかどうかなんて、わからない。
たぶん、正しくなんてない。
でも。
これは、初めての「自分で選んだ行動」だった。
そして、その選択が、
確実に次の破滅を呼び込んでいることを――
アスターだけが、もう理解していた。




