第17花 「問題が起きる前に」
放課後の職員室は、昼間よりも静かだった。
コピー機の音。
キーボードを叩く音。
蛍光灯の微かな唸り。
その中で、ミモザはファイルを閉じ、ため息をひとつ落とした。
「……やっぱり、気になるわね」
独り言のように呟く。
机の上には、数枚のプリント。
事故報告書。
生徒からの聞き取りメモ。
そして――匿名の投書。
『あの子は知っていたと思う』
『事故の前に、ヒヤシンスくんを見ていた』
『何も言わなかったのが、気持ち悪い』
どれも、決定的な証拠にはならない。
ただの不安と憶測の集積だ。
けれど。
教師という立場は、
「何も起きていないから放置する」ことを許してくれない。
「……予防、か」
その言葉を、心の中で繰り返す。
予防。
問題が起きる前に、芽を摘むこと。
教育現場では、正義の言葉として使われる。
だが同時に――
最も人を追い詰めやすい言葉でもある。
ミモザは、ふと職員室の奥を見る。
そこに座っているのは、学年主任のアイリスだった。
厳格で、規律を重んじる教師。
生徒からは少し怖がられているが、管理能力は高い。
ミモザは、椅子を引いて立ち上がった。
「アイリス先生、少しいいかしら」
声をかけると、アイリスはすぐに顔を上げた。
「ええ、どうしました?」
ミモザは、机の上のプリントを数枚持って、歩み寄る。
「……アスターくんの件なんだけど」
その名前を出した瞬間、アイリスの表情がわずかに引き締まった。
「噂になっている、という話ですね」
「ええ」
ミモザは、持ってきた紙を机に置く。
「根拠はないの。でも、クラス内の空気が……よくない」
アイリスは、紙にざっと目を通す。
感情は、表情には出さない。
ただ、視線だけが少し鋭くなる。
「……集団の不安は、放置すると暴走します」
それは、経験に裏打ちされた言葉だった。
「ええ。だから……」
ミモザは、一瞬、言葉を選ぶ。
「念のため、生活状況の確認をした方がいいかもしれないと思って」
「生活状況?」
「持ち物とか、行動とか……
極端な例だけど、“危険なもの”を持ち込んでいないか、とか」
そこまで言って、ミモザは気づいた。
自分の言っていることが、
どれだけアスターを疑う前提に立っているか。
それでも、言葉を止めなかった。
止められなかった。
アイリスは、少し考えるように視線を落とす。
数秒の沈黙のあと、口を開いた。
「……抜き打ちの持ち物確認、ということですか」
ミモザの喉が、わずかに鳴る。
「“検査”とまでは言いたくないけど……
でも、結果的には、そうなるわね」
アイリスは、すぐには答えなかった。
ただ、机に指先を軽く置いたまま、静かに言った。
「もし、何も出なかったら?」
「……そのときは」
ミモザは、目を伏せる。
「私たちが、彼を傷つけたことになる」
職員室の空気が、わずかに重くなる。
「でも」
アイリスが、淡々と続けた。
「もし、“何か”が出てしまったら?」
その「何か」が、具体的に何なのか。
二人とも、はっきりとは想像していない。
ただ、
“普通ではない何か”
という漠然とした不安だけが、そこにあった。
「……保護者への連絡は、避けられませんね」
アイリスの言葉は、事務的だった。
だからこそ、現実味があった。
「ええ……」
ミモザは、小さく頷く。
その瞬間、決定してしまった。
もう、引き返せない。
「時期は……」
「クラスが落ち着く前にやった方がいいでしょう」
アイリスは、カレンダーに視線を落とす。
「……今週中が、妥当ですね」
今週中。
それはつまり――
あと数日以内に、アスターのカバンの中身が、誰かに見られるということ。
ミモザの胸に、嫌な感覚が広がった。
正しいことをしているはずなのに、
どこかで、取り返しのつかない一線を越えた気がした。
それでも、教師という立場は、
もう決定を取り消すことを許してくれない。
「……わかりました」
ミモザは、静かに答えた。
職員室の外では、
今日も何事もなかったかのように、生徒たちの笑い声が響いている。
その中に、
これから“調べられる側”になる少年がいるとも知らずに。




