第16花 聞いてしまった
廊下は、放課後になるとやけに音が響く。
誰かの笑い声。
部活の掛け声。
窓の外を走る風の音。
その全部が、今日はひどく遠く感じた。
スズランは、職員室の前で立ち止まっていた。
用事があったわけじゃない。
ただ、なんとなく、足が向いただけ。
最近、胸の奥がずっとざわついている。
事故のこと。
アスターの態度。
クラスの噂。
名前を伏せたひそひそ話。
「予測してたらしい」
「前から知ってたって」
「だから、助けなかったんじゃないかって……」
最初は、信じなかった。
笑って流せる話だと思っていた。
でも。
聞けば聞くほど、
どれも、アスターの沈黙と噛み合ってしまう。
だから、ここに来てしまった。
答えがある気がして。
●
職員室の奥。
小さな面談室の扉が、少しだけ開いている。
中から、声が聞こえた。
「……噂って、“事実かどうか”より、“信じる人の数”で決まるの」
ミモザ先生の声だった。
スズランは、思わず足を止める。
そして、もうひとつ。
「……はい」
聞き覚えのある、低い声。
アスターの声だった。
胸が、きゅっと締まる。
盗み聞きするつもりはなかった。
けれど、身体が動かなかった。
「クラスの中で、あなたを怖がっている子がいる」
ミモザの声が、静かに続く。
「理由は……ヒヤシンスくんの事故のこと」
やっぱり、その話題だった。
スズランの指先が、わずかに震える。
「“知っていたんじゃないか”
“止められたんじゃないか”
……そんな声が出ているの」
一瞬、沈黙。
その間に、何が交わされたのかはわからない。
でも、スズランには、はっきりとわかった。
――アスターは、否定していない。
空気が、そう告げていた。
「……だから、先生としてはね」
ミモザが、少しだけ声のトーンを変える。
「もし、何か隠していることがあるなら……
あなた自身のためにも、話してほしいの」
その言葉は、優しいはずだった。
でも、スズランの胸には、別の意味で刺さった。
――隠していることがある。
その前提で、話が進んでいる。
「……何も、ありません」
アスターの声は、静かだった。
でも、その静かさは、
今までスズランが聞いてきたどの声よりも、遠かった。
「……そう」
ミモザの声が、少しだけ間を置く。
「でもね、アスターくん。
大人は、“何もない”という言葉を、ただ信じて放っておくほど、無関心ではいられないの」
そこで、会話は途切れた。
椅子が引かれる音。
面談が終わった気配。
スズランは、はっとして、反射的に壁際に身を寄せた。
扉が開く。
アスターが出てくる。
少し疲れた顔。
少し、諦めたような目。
そして。
その目が、廊下の端に立つスズランを捉えた。
一瞬、時間が止まった。
「……スズラン」
先に名前を呼んだのは、アスターだった。
驚きよりも、困惑の方が強い声だった。
「……偶然?」
スズランは、うまく笑えなかった。
「……うん。偶然」
嘘だった。
でも、今はそれでよかった。
沈黙が落ちる。
今までなら、どちらかが軽口を叩いて、
すぐに空気を戻せたはずなのに。
今日は、それができなかった。
「……聞いてた?」
アスターが、ぽつりと聞いた。
それだけで、
すべてを悟られている気がした。
「……全部は」
正直に答えた。
「でも……
噂になってることと、同じ話は、聞こえた」
アスターの視線が、ほんのわずかに揺れる。
それが、スズランには答えに見えた。
「……ねえ」
声が、少しだけ震える。
「私さ」
一歩、近づく。
「事故のとき、助けてもらったよね」
「……ああ」
「ありがとうって、言ったよね」
「……うん」
「でも」
スズランは、アスターの目を見た。
「それって……
“たまたまそこにいた”から?」
空気が、張り詰める。
「それとも――
“そうなるって、知ってた”から?」
問いは、静かだった。
でも、その奥にある感情は、静かじゃなかった。
アスターは、答えなかった。
すぐには。
その沈黙が、何よりも重かった。
「……そっか」
スズランは、視線を落とした。
納得したわけじゃない。
でも、理解してしまった。
――彼は、何かを隠している。
――そして、それは、自分に関係している。
「……もう、いい」
小さく言う。
「今は、まだ聞かない」
アスターが、わずかに目を見開いた。
「でも」
スズランは顔を上げた。
その目は、泣いていなかった。
むしろ、強かった。
「いつか、ちゃんと聞くから」
逃げ道を、与えない言い方だった。
「逃げないでね」
それだけ言って、スズランは踵を返した。
振り返らなかった。
廊下を歩きながら、胸の奥がずっと痛かった。
でも。
ひとつだけ、はっきりしたことがある。
――これは、もう他人事じゃない。
アスターの秘密は、
確実に、自分の人生の中心にある。
そう、直感でわかってしまった。




