第15花 大人は、もっと怖い
異変は、まず職員室の空気から始まった。
アスターは気づいていなかった。
けれど、教師たちは、もうとっくに気づき始めていた。
――クラスの空気がおかしい。
――生徒たちが、ひとりの生徒を過剰に意識している。
――そして、事故を境に、妙な噂が流れている。
それは、どれも断片的だった。
けれど、断片が揃い始めると、大人は“動く”。
●
「……最近、あのクラス、落ち着かないよな」
放課後の職員室。
担任のミモザは、成績表をめくりながら、ぼそりと呟いた。
「ええ。
特に……アスターくんの周り」
保健室の先生が、湯飲みを置く。
「事故のあと、ヒヤシンスくんのお見舞いに行った子たちが……
妙な話をしていて」
「妙な話?」
ミモザが顔を上げる。
「“予知していたんじゃないか”とか……
“前から知っていたような言動だった”とか……」
教師たちの間に、沈黙が落ちる。
「……さすがに、妄想だろう」
別の教師が苦笑する。
「中学生でもあるまいし……」
「でも」
保健医は、少しだけ声を落とした。
「そういう“妄想”が、クラスの空気を壊すことはあります」
視線が、ミモザに集まる。
担任という立場。
見て見ぬふりはできない。
「……一度、本人と話す必要があるな」
ミモザは、静かに言った。
●
翌日。
「アスターくん。
放課後、少し時間ある?」
ホームルームの終わり際、
担任のその一言で、教室の空気が一瞬止まった。
誰もが、見ている。
アスターの反応を。
「……はい」
短く答える。
ざわ、と小さなざわめきが起きた。
それはもう、
ただの関心ではなく、“期待”の混じった視線だった。
――何か出るぞ。
――ついに、何かが明らかになるぞ。
そう言いたげな空気。
アスターは、机の下で拳を握った。
●
放課後。
面談室。
向かい合う机の向こうに、ミモザが座っている。
いつもより、表情が柔らかい。
けれど、その柔らかさは、どこか作られたものだった。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「……してません」
「そうかな?」
ミモザは、苦笑してから、本題に入った。
「最近、クラスでね……
ちょっと妙な噂が立っていて」
やはり来たか、と思った。
「アスターくんが、
ヒヤシンスくんの事故を“予測していた”んじゃないかって」
直球だった。
試すような視線が、こちらを見ている。
「……馬鹿げてます」
「そうだよね」
ミモザは、すぐに頷いた。
「先生も、そんなこと信じてるわけじゃない」
――けれど。
その続きが、問題だった。
「でもね。
噂って、“事実かどうか”よりも、“信じる人がどれだけいるか”で広がるの」
アスターは黙って聞いていた。
「今、クラスの何人かが……
あなたのことを、少し怖がっている」
「……」
「それが、あなたにとって良くないことは、わかるよね?」
正論だった。
あまりにも正しい。
だからこそ、逃げ場がない。
「だから、もし何か心当たりがあるなら……
先生にだけでも、話してほしい」
やわらかい声。
やさしい言葉。
でも。
その奥には、はっきりとあった。
“管理したい”という意思が。
「……何も、ありません」
アスターは、そう答えるしかなかった。
ミモザは、しばらく黙って彼を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……そう」
それ以上、深くは踏み込まなかった。
だが、最後に、こう付け加える。
「でもね、アスターくん」
声が、少しだけ低くなる。
「先生たちは、
“何もない”って言葉を、そのまま信じて見過ごせるほど、甘くないの」
それは、脅しではなかった。
ただの事実だった。
「もし、何か問題が起きたとき――
大人は、“最初に疑われた人間”を、ずっと覚えているから」
それだけ言って、面談は終わった。
●
帰り道。
アスターは、ひとり歩きながら思った。
これで終わりじゃない。
むしろ――
ここから始まる。
生徒の噂。
教師の監視。
学校という組織。
もう、自分の行動ひとつで済む話ではなくなった。
そして、何より怖いのは。
大人たちは、
「世界の仕組み」なんて知らないまま、
それでも“正しさ”を盾に、介入してくるということだった。
ポケットの中で、ノートが、ひどく冷たく感じた。
まるで、こう囁いているかのように。
――次は、「教師の名前」か?




