第13花 見てはいけない文字
教室は、昨日までとはまるで別の場所になっていた。
空気が重い。
笑い声がない。
誰もが、どこか余所行きの顔をしている。
ヒヤシンスの席は、空いたままだった。
担任は「しばらく入院になる」とだけ告げた。
命に別状はないらしい。
――それでも。
“あの事故”が、ただの事故だと思っている生徒は、ほとんどいなかった。
誰もが、言葉にしないまま、何かを疑っている。
アスターは、それを感じながら席に座っていた。
机の中に、ノートがある。
触れなくても、そこにあるとわかる。
今までなら、絶対に誰にも触れさせなかった。
けれど、昨日の自分は――もう、何もかもが雑になっていた。
罪悪感も。
疲労も。
自己嫌悪も。
全部が重なって、注意力を削っていた。
「……アスター?」
ふいに、声。
顔を上げると、ダリアが前の席から振り返っていた。
「顔、ひどいよ」
「……放っておけ」
「放っておくと死にそうな顔してる」
冗談とも本気ともつかない言い方だった。
アスターは、それ以上応じなかった。
それでもダリアは、しばらく彼を見つめてから、静かに前を向いた。
――その机の中に、何があるのかを知っている目で。
●
昼休み。
教室に残っている生徒は、数人だけだった。
アスターは、机に突っ伏していた。
眠っていたわけではない。
ただ、起きているのがしんどかった。
そのとき。
机が、わずかに揺れた。
気のせいかと思った。
でも、もう一度、かすかに振動する。
誰かが、机に触れている。
顔を上げようとした瞬間――
「……なに、これ」
小さな声がした。
自分の机の横。
聞き覚えのない、けれどクラスメイトの声。
アスターは、ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、
クラスメイトの女子――マーガレットだった。
クラスの中では目立たない方。
ヒヤシンスと、少しだけ話すことがあった子。
そして。
彼女の手には、
――ノートが、半分だけ開かれた状態で握られていた。
時間が、止まった。
「……それ、返せ」
声が、低くなる。
マーガレットは、びくりと肩を跳ねさせた。
「あ、ご、ごめん……!
机、揺れたから……落ちたのかと思って……」
言い訳の途中で、
彼女の視線が、ページに戻る。
そして、言葉を失った。
「……え」
目が、文字を追っている。
アスターは、立ち上がった。
遅かった。
「……これ……」
マーガレットの唇が、震える。
「……名前……」
ページの端。
そこには、はっきりと書かれていた。
――ヒヤシンス
――放課後
――階段
――転倒
致命、の文字までは、ページの折れで隠れていた。
けれど、それでも十分すぎた。
「……なんで」
マーガレットが、かすれた声で言う。
「……なんで、昨日の事故と……同じことが……」
教室の空気が、凍る。
遠くで、誰かが椅子を引く音がした。
でも、誰もこちらには気づいていない。
この空間だけが、切り離されたようだった。
アスターは、無言でノートを奪い取った。
乱暴だった。
けれど、構っていられなかった。
「……忘れろ」
低く言う。
「今見たこと、全部」
「……無理、だよ……」
マーガレットの目が、揺れている。
「だって……だってこれ……」
声が震える。
「……ヒヤシンスのこと、知ってたってことじゃん……」
その言葉は、
ほとんど“告発”だった。
アスターは、何も言えなかった。
否定できない。
肯定もできない。
沈黙が、答えになってしまう。
マーガレットは、一歩、後ずさった。
「……こわ……」
かすかな声だった。
でも、はっきりと、拒絶の響きがあった。
「……なに、それ……」
アスターの胸が、鈍く痛む。
――これが、他人の目に映る自分。
守っていたつもりで、
ただ、気味の悪い存在になっていただけなのかもしれない。
マーガレットは、しばらくアスターを見つめたあと、
何も言わずに、教室を出ていった。
振り返らなかった。
それが、いちばん重かった。
●
放課後。
誰もいない教室で、アスターは一人、席に座っていた。
机の上に、ノートを置いている。
閉じたままなのに、
まるで中身が外に滲み出してくるような気がした。
「……ついに、だね」
背後から、声。
振り向かなくても、わかる。
ダリアだった。
「時間の問題だと思ってたけど、
思ったより早かった」
「……お前の仕業か」
ダリアは、くすりと笑う。
「さあ?
私は、何もしてないよ」
近づいてくる足音。
「でもね」
アスターの机の横に立つ。
「秘密って、“守ろうとするほど”、誰かに見つけられるものだから」
机の上のノートを見る。
開いていないのに、
まるですべてを見透かしているような視線。
「これで、ようやく始まったね」
「……なにがだ」
「“あなただけの地獄”じゃなくなるってこと」
ダリアは、静かに言った。
「他人が知った瞬間から、
これは“個人の選択”じゃなくなる」
その言葉は、予告だった。
「疑われるよ。
噂になるよ。
怖がられるよ」
優しい声で、残酷なことを言う。
「そして――」
少しだけ、楽しそうに。
「誰かが、利用しようとする」
背筋が、冷たくなる。
ダリアは、アスターの顔を覗き込む。
「ねえ、アスター」
小さく、問いかける。
「あなたは、“正義”のままでいられるかな?」
答えは、もうどこにもなかった。
ノートの表紙に、アスターの指が、強く食い込んでいた。




