第12花 それでも、手を伸ばさなかった
朝から、ノートのページが重かった。
開いていなくても、わかる。
書いてある。
もう、書かれてしまっている。
アスターは机に頬杖をつきながら、クラスを見渡した。
いつも通りの教室。
いつも通りの笑い声。
いつも通りの空気。
――その中に、ひとつだけ。
“終点”を持った存在がある。
ヒヤシンス。
窓際の席で、スマホをいじっている男子。
目立たない。
人気者でもない。
嫌われ者でもない。
「物語的には、ちょうどいい人間」
ダリアの声が、脳裏に蘇る。
> 世界は、バランスを取るんだよ。
ノートのページを、そっとめくる。
書いてある。
ヒヤシンス
放課後、校舎裏の階段
足を滑らせる
頭部打撲
致命
淡々とした文字だった。
感情の入り込む余地がないほど、機械的な記述。
……助ける方法は、いくらでも思いついた。
声をかける。
一緒に帰る。
階段を使うなと伝える。
物理的に先回りして、そこに立つ。
今まで、何度もやってきたことだ。
でも。
ダリアの言葉が、喉の奥に残っている。
> あなたが誰かを生かすたびに、
> 別の誰かが候補になる。
もし、ここでヒヤシンスを助けたら。
次は誰だ?
スズランか。
ダリアか。
それとも、まだ名前も知らない誰かか。
机の下で、拳を握る。
「……っ」
正しい選択が、わからない。
いや、違う。
わかっているから、苦しい。
誰かを助けるという行為が、もう“正義”ではないと、
理解してしまっているから。
●
放課後。
チャイムが鳴り、生徒たちが次々と教室を出ていく。
ヒヤシンスも、鞄を肩にかけて立ち上がった。
その動きを、アスターは見ていた。
ずっと。
声をかけようと思えば、今すぐできる。
「一緒に帰ろう」と言えばいい。
ただ、それだけで未来は変わる。
でも。
アスターは、動かなかった。
ヒヤシンスが教室を出る。
廊下を歩く。
角を曲がる。
その背中を、最後まで見送って。
それでも、席を立たなかった。
胸の奥が、じわじわと腐っていく感覚がした。
――これが、自分の選択だ。
――これが、自分の責任だ。
ノートの角が、指に食い込む。
痛い。
現実感がある。
それが、余計に残酷だった。
●
それから、十分後。
校舎のどこかで、
「ドン」という鈍い音が響いた。
遠くて、正確な場所はわからない。
でも。
なぜか、わかった。
アスターは、ゆっくりと立ち上がった。
足が、重い。
体が、他人のものみたいだった。
教室を出て、廊下を歩く。
階段を下りる。
角を曲がる。
人だかりができていた。
「……落ちたらしいよ」
「頭打ったって……」
「救急車、もう呼んだ?」
輪の隙間から、見える。
床に横たわる、ヒヤシンスの姿。
血は、ほとんど出ていない。
でも、動かない。
目は閉じられていて、
誰かが必死に名前を呼んでいる。
「ヒヤシンス! おい、しっかりしろって……!」
アスターは、動けなかった。
助けられた。
確かに、助けられたはずの命だった。
それを。
自分は、見捨てた。
わざと。
その事実が、胸の奥に、深く、重く沈んでいく。
そのとき。
「……見てるだけ?」
背後から、声がした。
振り返らなくても、誰だかわかった。
「……ダリア」
「うん」
楽しそうでもなく、
悲しそうでもなく。
ただ、観察するような声。
「これが、あなたの“選択”なんだね」
アスターは、何も言えなかった。
ダリアは、静かに続ける。
「世界は、ちゃんと動いた」
「……」
「誰かを助けない、って選択もまた、
“物語に参加してる”ってことだよ」
人だかりの向こうで、誰かが泣いている。
教師の声が響く。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
日常は、もう戻らない。
「ねえ、アスター」
ダリアが、小さく言った。
「今、どんな気持ち?」
答えは、ひとつしかなかった。
でも、それを口にするのが、怖かった。
怖くて。
醜くて。
取り返しがなくて。
それでも、ようやく、言葉にする。
「……最低だ」
声が、かすれる。
「俺は……ただの……」
続きが出てこない。
ダリアは、少しだけ微笑った。
「うん」
優しく、肯定する。
「それでも、続けるんでしょ?」
アスターは、答えなかった。
答えられなかった。
ただ、目の前の現実から、目を逸らせなかった。
床に倒れるクラスメイト。
泣き叫ぶ声。
動かない体。
――これが、自分の選択の結果。
ポケットの中で、ノートが、ひどく重たく感じた。




