第10花 まだ、死んでいないだけ
その日は、何も変わらない朝だった。
教室はいつも通り騒がしくて、
廊下には寝不足の声が漂っていて、
スズランは、いつも通りの顔で笑っていた。
――だからこそ。
アスターは、朝からずっと落ち着かなかった。
ノートを開かなくても、わかる。
空気が、薄くひび割れている。
嫌な予感は、当たる。
それが、今までの経験だった。
「ねえアスター、今日放課後――」
スズランが話しかけてくる。
その瞬間。
視界が、歪んだ。
ほんの一瞬。
でも、確かに見えた。
スズランの背後。
黒い糸のようなものが、床に向かって垂れている。
――フラグだ。
今までで、いちばんはっきりとした。
「……スズラン」
「え?」
「今日は、まっすぐ帰れ」
言葉が、強くなりすぎた。
「え、なに、急に」
「寄り道しないで、誰とも話さず、階段を使わず、エレベーターも使うな」
「ちょ、ちょっと待って?」
スズランが目を丸くする。
「なにそれ、どうしたの?」
説明できない。
説明したら、壊れる。
でも、言わなきゃ、間に合わない。
「……理由は、あとで話す」
「あとでって……」
困惑する顔。
それでも、どこか真剣な空気を察したのか、頷いた。
「……わかった。今日は変なことしない」
それだけで、十分なはずだった。
はずだったのに。
●
事故は、放課後に起きた。
体育館の裏。
誰もいないはずの、用具倉庫の前。
スズランがそこにいたのは、
ただの偶然だった。
落とし物を届けようとしただけ。
たったそれだけ。
鍵のかかっていない扉を開けた瞬間、
天井の棚が、わずかにずれた。
古い金属製のラック。
積み上げられたバスケットボールのケース。
ガタン、と音がしたときには、もう遅い。
「――っ!」
倒れてくる。
重い影が、スズランの視界を覆う。
死ぬ、と思った。
でも。
次の瞬間、
誰かに腕を掴まれて、引き倒された。
床に転がる衝撃。
直後に、背後で金属が砕ける音。
ガシャアアアン、と。
息が、できない。
「……っ、……っ」
「スズラン!」
声が震えている。
アスターの声だ。
顔を上げると、
彼は青ざめた顔で、スズランを抱き寄せていた。
すぐ隣に、
倒れた棚と、散乱した器具。
もし、あと一歩でも遅れていたら。
もし、腕を引かれていなかったら。
――死んでいた。
その事実だけが、はっきりとわかった。
「……どうして、ここに」
スズランが震える声で聞く。
アスターは、答えない。
答えられない、というより、
答えるつもりがない顔だった。
それが、何より怖かった。
「……ねえ」
スズランは、アスターの制服を掴んだ。
「これ、偶然じゃないよね?」
問いは、静かだった。
でも、もう逃げられない種類の声だった。
「……私、なにかに」
喉が震える。
「……殺されかけた?」
アスターの目が、わずかに揺れた。
その反応が、答えだった。
スズランの背筋が、冷たくなる。
そして同時に、
胸の奥で、何かが静かに怒り始めた。
「……じゃあ」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「なんで、
あんたは……前から知ってた顔してるの?」
アスターは、答えない。
否定もしない。
ただ、スズランを強く抱き寄せるだけだった。
守るように。
隠すように。
その腕の中で、スズランは確信する。
――これは、ただの事故じゃない。
――そして、アスターは、すべてを知っている。
その日の帰り道。
スズランの中で、ひとつの感情が、はっきりと形を持った。
恐怖ではなく、疑念。
そしてもうひとつ。
「知らされていないこと」への、静かな怒り。




