倒木とみかん
秘密基地を、持っていた事ならあった。
大嵐の翌日、いつもの裏山のちょっと開けたところへ、丁度良くドでかい木が倒れ込んでいたから。
まだぬかるんだ足元と、じっとりと濃い緑の気配。
風によって強引に引き抜かれた根は、あちこちで千切れ、木の匂いを漂わせている。
青々と茂ったままの葉は、その木が本来倒れるべき木で無かった事を示しているようだった。
太く瑞々しい枝へ腰掛けると、その向こうの一番太い木の幹は、まるで机のような高さだった。反対側にも同じように椅子になりそうな枝があって、子どもなら両側で八人ほどは座れるかも知れない。
まるで、お話の中で騎士や王様達が囲むような、豪華なテーブルセットだ。
地に伏せられた枝葉の間をくぐれば、そこは子供が一人大の字になれるほどの空間になっていた。
屋根や壁になる部分も十分に厚みがあって、ここなら、少々雨が降っても濡れずにすみそうだと思った。
僕だけのテーブルセットに、僕だけの部屋。
裏山に突然現れた夢のような贈り物に、僕の心は踊った。
『ここを僕だけの秘密基地にしよう』
僕は、木の幹に石で大きく名前を彫った。
後から他の奴に見つかっても、僕が先だったと、僕のものだと、主張できるように。
でも、今までこの裏山で他の子どもの姿を見たことはほとんどなかった。
だから、この場所が見つかるようなことはまずないだろうと、どこかで油断していた。
毎日、家から飴玉の入ったブリキ缶だとかボールだとか、そんなものを持ち込んでは、僕だけの部屋を飾り付けて満足していた。
青々と茂っていた葉が色褪せ始めた頃、いつものように家にランドセルを放り込んで裏山に向かうと、大木にブルーシートがかけられていた。
あたりを見回すも、人の気配はない。
慎重に耳を澄ますが、聞こえるのは木々の音だけだった。
誰が持ってきたんだろうか。
この木は他のやつに見つかってしまったのか。
そう思いながら、シートの端をめくって中に入ると、新聞紙と、みかんが三つ。それと、見覚えのない、ぼろぼろで大きなリュックサックが置いてあった。
こんなに大きくてくたびれた荷物、子どもの持ち物じゃない。
これは、大人の仕業だ。
遊びではない気配に、僕は僕の秘密基地が乗っ取られたことを知った。
浮浪者だろうか。
荷物がここにあるという事は、その誰かはここへ戻って来るつもりなのだろう。
いつ帰ってくるのか分からないその存在に、すぐここを離れた方が良いと頭の隅で警鐘が鳴る。
残念ながら、理不尽な大人に理不尽に暴力を振るわれる想像ならすぐ出来た。
手を上げられずとも、苛立ち紛れに怒鳴られる可能性は高いだろう。
その想像だけで、足が震えそうになる。
けれど、すっかり見慣れた愛着のあるこの部屋から、僕の名前が彫られたこの場所から、僕が逃げなきゃならないなんて許せない。と心が叫んでいた。
そこへ、ガサガサと草を踏み分ける音がした。
僕は咄嗟に、みかんをひとつ、掴んで逃げた。
音は山の上側から聞こえてくる。
僕は振り返ることもできないまま、身を低くして必死で山を駆け降りた。
ある程度の距離を稼いで、木の裏に身を隠したまま、そっと様子を伺う。
そこからはブルーシートの上側がちらりと見えるだけで、中に人が入ったのかどうかは分からなかった。
僕の秘密基地を奪った誰かは、僕の仕業に気付いただろうか。
気付いたその人は、……どんな気持ちになっただろうか。
僕は、手の中のみかんに視線を落とす。
そんなに大きいみかんではないのに、盗ってきたみかんは、ずっしりと重かった。
食べる気には、とてもなれない。
かといって、何も知らない妹と母の居る家にも、持ち帰りたくはなかった。
森に捨てて帰ろうかと思ったが、食べ物を粗末にするのもまた気が引けた。
仕方なく、僕はみかんをポケットに詰め込むと木によじ登った。
三本ほど枝を渡れば、あのブルーシートがよく見えた。
あそこは、僕の秘密基地だったのに……。
そんな思いを噛み潰しながら、四本目の枝によじ登って腰掛ける。
渋々みかんを剥くと、柑橘の爽やかな匂いが広がる。
淡い黄色のみかんは、まだ熟していないように見えた。
あの人は、どうやってこのみかんを手に入れたんだろう。
そんなことをあれこれ想像しながら口に運んだみかんは、想像以上に酸っぱかった。