そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.8
さて、困ったことになったものだ。
ベイカーは倉庫の扉を見つめ、無駄を承知でノブを握る。
「……ダメか……」
ドアノブは右にも左にも回らない。それもそのはずで、この扉は一定時間が経過すると、自動的に鍵が掛かるよう設定されている。解除するには、扉の横の読み取り機にカードキーをかざす必要があるのだが――。
「……どうして……どうしてこんなことに……ッ!」
真っ二つに割れたカードキーを手に、ベイカーは天を仰ぐ。
事の起こりは四時間前、先代特務部隊長、アーク・アル=マハの呼び出しに端を発する。
旧本部を訪れたベイカーは食堂に通され、事情も説明されぬまま、席に着くよう促された。
食卓に並べられていくのはアル=マハの手料理。食欲をそそるスパイシーな香りはブラックペッパーとガーリックだ。部屋いっぱいに広がるその香りに、ベイカーは思わず笑みをこぼす。
「わざわざお手製ランチを御馳走してくださるということは、よほどの面倒ごとですね?」
目の前の皿に盛られているのは、根菜類と鶏肉をオリーブオイルで炒めたシンプルな家庭料理である。国内の広い地域で食されている料理で、特にこれといった名称はない。
熱々の炒め物の隣には大盛りのトマトパスタ。奥には色とりどりの野菜を盛り合わせた生野菜のサラダで、手前側にはオニオンコンソメのスープ。
一人で食べるには量が多すぎる。けれども、用意されたカトラリーセットは一人分。これはいったいどのような趣向の招待なのか。ベイカーはアル=マハの説明を待つのだが、アル=マハはピクルスの小瓶と小皿を並べ、何も言わずにキッチンに戻ってしまった。
「……?」
何かがおかしい。いつものアル=マハの動きとは、どこか違っていた。それに今、気のせいでなければアル=マハの姿に、別の誰かがダブって見えた。
ベイカーはそっと席を立ち、キッチンの中を覗き見る。
「……え?」
目を疑った。
そこにいたのはアル=マハではなく、中肉中背の中年女性だった。
彼女は手際よくフルーツを切り分けると、用意しておいたパイ生地の上に並べていく。並べたフルーツの上にカスタードクリームを重ね、その上にもう一段フルーツを。一番上には細長く切ったパイ生地を格子状に並べ、縁の部分にもパイ生地を巻き付けて形を整える。
溶かしバターを刷毛でひと塗りしたら、形が崩れないようそっと持ち上げ、予熱しておいたオーブンへ。オーブンのタイマーは20分にセット。あとは焼き上がりまで、じっと待つのみである。
そこまでの作業を終えると、女性はベイカーのほうを見て、ニコリと微笑んだ。
「……あ、あの……っ!」
あなたは誰か。そう尋ねようとしたベイカーは、再び我が目を疑うことになる。
「……あれ?」
オーブンの前にいる人物は、どこからどう見てもアル=マハだった。
男女兼用の赤いエプロンと、オーブン用のキルトのミトン、三角巾代わりの大判バンダナ。それらはあの女性が身に着けていたものと全く同じで――。
「見たか? 今のが、お前をここに呼んだ理由だ」
「その……今の女性は……?」
「彼女はこのエプロンに取り憑いた霊だ。お料理したくて仕方がないらしい。俺の体を勝手に使って、あれこれ作り続けている」
「心霊事案でしたら、有能な霊能力者に心当たりがございますが? 紹介しましょうか?」
「そうしてくれると助かる」
「確認させていただきたいのですが、なぜ、そのようなモノを身に着けることに?」
「二階の奥に、総務課の倉庫だった部屋があるだろう? あそこを片付けているうちに、このエプロンとミトンと三角巾が出てきたんだ。事件や事故の証拠品ではなく、市民見学会等のイベントで使用する備品類と一緒に発見された」
「ということは、わたあめ屋台かポップコーン屋台で使うためのものでしょうか?」
「俺もそう思って、何気なく手に取った結果がこのありさまだ。事前に説明できなくて済まなかったな。さっきの連絡は鶏肉の下味をなじませている五分間で済ませる必要があったんだ。今こうして話していられるのも、パイが焼き上がるまではやることがないからだと思うが……それ以外は、俺の自由意志で動くことができない」
「そういう事情でしたら仕方がありませんね。それより、ほかの隊員はどちらに?」
「このエプロンについて調べてもらっている。総務課の備品箱に放り込まれていたなら、職員の誰かが自宅から持ち込んで寄贈したものだろう。あの女性は本部職員の身内と見当をつけて、過去の資料を総ざらいしてもらっている」
「そうでしたか。では、すぐにゴヤを呼んでまいります」
「ああ、頼んだ」
そうしてベイカーは旧本部を出て、ゴヤのいる備品倉庫のほうへ向かった。
ゴヤはこの時、備品類の使用期限をチェックしていた。特務部隊は独自に備品・消耗品の運用をしているため、毎月決められた期日までに発注リストを作成しなければならない。今月の締め切りは明日の朝九時。しかし、まだチェック作業は完了していない。
「え? 旧本部に? 今から!? 発注リスト、間に合わなくなるッスよ!?」
「こちらは俺が引き継ぐ。アル=マハ隊長が発狂する前に助けてやってくれ。淡々と話してはいたが、若干涙目だった」
「まあ、そりゃあ、旬のフルーツのカスタードパイなんて、全然あの人のキャラじゃないッスもんね……?」
「ああ……アル=マハ隊長が内股で歩いている時点で、異常に気付くべきだった……」
それは確かに異常事態だ。
ゴヤは表情を引き締め、ベイカーにチェック表を手渡し、旧本部へと駆けていった。
ベイカーは備品倉庫に残り、チェック表を片手に表示ラベルを確認していくのだが――。
「……ん? なんだこれは? とっくに廃棄されたはずのレーションセットが……あ! こっちにも! うわ! ネズミの死骸!? 掃除用具は……おい誰だ! 箒にギターっぽい弦を描いたバカは! 塵取りは……ぎゃっ! 中身があふれるほど溜め込むな! 毎回捨てろ! ……いや、これは、まさか……!?」
ベイカーは倉庫の奥へと駆けていく。
この倉庫に裏口というものは存在しない。奥にあるのは倉庫内で使用する台車や脚立、リフトの予備バッテリーなどを収めた物置部屋である。
「……やっぱり……っ!」
扉を開けた瞬間、ベイカーは絶望的な表情を浮かべた。
適当に山積みされた廃棄物品の山、山、山。
ホコリに埋もれたゴミの上にさらなるゴミとホコリが積層していくその様は、地層が形成されていく過程を簡略化したパターンモデルのようだった。
「……なにがどうしてこうなった……?」
特務部隊の伝統として、倉庫の点検作業は隊員たちが持ち回りで行うことになっている。現在はゴヤとチョコの二人が担当しているが、先ほどのゴヤの様子を思い出す限り、いいかげんな仕事をしている後ろ暗さも、ベイカーの監査を恐れる様子もなかった。ということは、ゴヤは前年度担当者から引き継がれた通りの手順で、いつも通りのことをしているのだ。それが正しい手順と信じているのだから、ベイカー相手に警戒心を抱くことなどあり得ない。
「……となると、ロドニーか……?」
ベイカーとキールが担当していたころは、もっと整然と物品が並んでいたし、点検のたびに清掃も行っていた。廃棄物品はきちんと集積場に運んで、害虫・害獣の駆除剤も定期的に散布した。
翌年度に担当したグレナシンとハンクも、綺麗好きと几帳面のコンビであったためか、月に一回どころか、週に一度は掃除に入っていた。
問題はその次だ。その年はロドニーとトニーが倉庫の点検担当だったが、あの二人の間にはイヌ科種族特有の上下関係が形成されている。年長者の命令は絶対。それは年上のロドニーが白と言えば黒いモノでも白になるような、非常に極端な力関係である。
頼み事も命令も、ちょっとした相談も飲み会の誘いも、ロドニーとトニーの二人が一緒にいる場合、必ずロドニーのほうに声を掛けねばならない。それはイヌ科種族の絶対的なルールであり、赤ん坊の頃から身につけてきた『世の常識』だ。当然、引き継ぎは前年度の年長者グレナシンから、次年度の年長者ロドニーに対して行われたはずだが――。
「『綺麗好き』から『ものぐさ』に掃除の手順が引き継がれたのか……。話が通じるとは思えんな……?」
どれほど事細かに説明されたとしても、ロドニーが話を聞いていたとは思えない。彼の性格からして、最低限やるべき備品の点検以外は何もしなかったのだろう。そしてそのものぐさ点検手順を、相方のトニーと、翌年度のゴヤとチョコに、そのまま教えてしまったのだとしたら――。
「これはもう、作業手順をマニュアル化する必要があるな。まったく……どうして騎士団には、口伝で受け継がれる微妙な作業が多いのか……」
うんざりした声で愚痴をこぼしながらも、ベイカーはゴミの山に手を伸ばす。
具体的に何がどのくらい山積みにされているのか。中身や重量を確認しないことには、処分に掛かる時間や人手も計算できない。
「えーと……この袋はレーションか。毎年大量に廃棄されるのはもったいないな。期限切れ前に慈善団体に寄付できれば良いのだが……こっちの箱は……なるほど、医薬品。で、これは……うん? 寝袋……?」
なぜこんなものにまで廃棄期日が設定されているのか。メーカー保証期間はあくまでも無償修理が可能な期間であって、この日を過ぎた瞬間から突然使用できなくなるわけではない。ベイカーが担当していたころ、キャンプ用品の廃棄は一切行われていなかった。よほど傷んでいない限りは何十年でも使用できるはずだが――。
「……エマージェンシーキット、落下傘、防護服、胴長靴、漁網……どれもまだ使えるじゃないか! この箱は……着火剤? ……っと、待てよ? ロドニーの奴、可燃性物質まで一緒に山積みにしているのか!?」
ベイカーはゴミ山をあさり、まだ使える物と期限切れ食品とを仕分けていく。するとやはり、奥のほうからプロパンガスのボンベや合成炭、携行用の小型ガソリン缶が出てきた。
「……ふうううぅぅぅ~……」
長くて重い溜息は、突如として現れた強大な敵、『不用品の処分作業』に対する不戦敗の表明である。
勝てない。
勝てるわけがない。
少なくとも、ベイカー一人の手に負えるものではなかった。
期限切れ食品の廃棄と、危険物の適正処理。それから一度廃棄扱いにした寝袋や落下傘をもう一度正規備品に戻し、新たに購入された未使用の新品を予備物品扱いに登録変更して、棚と現品に貼り付けられた識別ラベルを一つずつ貼り直して、倉庫内を徹底清掃して――。
必要な作業を脳内シミュレーションし、工程数にめまいを覚えた。
「くっ……ロドニーに任せた俺が間違いだったのか? いや、しかし、ロドニーは汚れただけでテントや寝袋を買い替えたりしないはずだし……?」
そうなると彼一人の責任とは思えなくなってくる。なにしろ彼の前年度には、綺麗好きのオカマと、一度やり始めたら徹底的にやらないと気が済まない几帳面マッチョの二人が点検担当だったのだから。
「……読めてきたぞ。ああ、もう、嫌になるくらい読めてきた。なんなんだ、うちの連中の、あの極端な性格は……」
綺麗好きのグレナシンが従来よりも厳しい点検基準を設定し、ハンクに汚れや傷み具合のチェックを行うように指示したのだろう。几帳面なハンクはグレナシンの指示通り、汚れがひどいものを廃棄し、新たに購入した物品と交換していったはずだ。
そんな二人から作業手順を引き継いだロドニーとトニーは、傷や汚れについては深く考えない性格である。廃棄する基準がよくわからず、『まだ使えそうだから奥にしまっておこう』と考えたに違いない。山積みになった廃棄物品はどれも箱やケースに収められた状態で、ホコリで汚れているのは外箱だけ。物品自体は非常に良い状態で保管されている。
そしてそんな二人から引き継ぎを受けたのは、あらゆる物事をニュアンスだけで判断する男と、人生の全ステージをテンションとバイブスだけで掻い潜ってきたカーニバル男だ。ロドニーの「分かんねえモンはとりあえず奥に突っ込んどけ」というあやふやな指示を、「だいたいこんなもんかな?」というニュアンスと、「きっとこれで大丈夫さ!」という根拠無き自信で、緩くふわっと実行してきたに違いない。
下のほう、地層に例えるならば『古い時代の堆積物』は、食品や可燃物以外の物品に限られている。よく見ればキャンプ用品、火力演習時に使用する物品、通常任務で使用する物品など、大まかな分類ごとに仕分けてあるようだ。イヌ科種族はなにかと大雑把な性格をしているが、役に立ちそうなものや気に入ったものを保管しておくスキルは高い。
上のほう、『新しい時代の堆積物』は、何もかもがゴチャ混ぜに置かれている。崩れてこないようにバランスよく積み上げる技術は評価できるが、取り出すときのことを考えないのが、いかにも南方系人種の仕事である。これは間違いなく、ゴヤとチョコの手によるものだ。
さて困った。
誰を何の用件で、どのように注意すれば再発が防げるのだろう。
それぞれの行動に、特に大きな問題はない。備品倉庫のチェック作業には決まったマニュアルもなく、個人の裁量にすべてがゆだねられていた。個別に呼び出して口頭注意しようにも、明確な規律違反に該当する項目が見当たらない。隊員各自が良かれと思って積み重ねた『独自判断』の結果、最終的にこうなってしまっただけのことだ。今のところ、明確に叱責対象となる事案は箒に落書きされたギターっぽい弦の絵と、責任者の監督不行き届きだろうか。自分で自分に喝を入れるのはたいそう苦労しそうだが、箒ギター男より責任が重いことは間違いない。
「……俺か。そうか、俺が悪いのか。ああ、もう……どうしてこんなことに……」
肩を落として手近な箱に腰を下ろす。
少し座って休みながら、これからのことを考えよう。
そう思ったのだが――。
「うわあっ!?」
その箱の蓋は、思ったよりも脆かった。
ベイカーは木箱の蓋を尻で突き破り、エビのように体を折りたたんだ姿勢で、木箱にストンと収まってしまう。
「え、ちょ、その……えええぇぇぇーっ!?」
深さのある木箱にスッポリとはまってしまい、体が抜けない。箱から突き出た手足をピコピコと動かしてみるのだが、安定感のある木箱はびくともしなかった。
「ど……どうしよう……?」
動揺しながらもがき続けること五分少々。ベイカーは悟る。
これは自力脱出が不可能なパターンだ。
こんな間抜けなポーズで仲間に助けを乞うことになるとは。泣きたい気持ちを必死にこらえ、携帯端末を取り出そうとして気づく。
尻のポケットに入ったものを、この体勢で、どう取り出せばよいのだろう。
ならば音声認証で内線端末を起動させれば、と考えて思い出す。倉庫の内線端末は故障している。だからこそ、ベイカーは自分の足でゴヤを呼びに来たのだ。
「し、仕方がない。それなら魔法で……って……あああぁぁぁーっ!」
ベイカーは思い出してしまった。この倉庫は最重要国家機密に指定された施設だ。すべての魔法、呪詛、錬金術の使用を制限する特殊結界が構築されている。通信魔法は一切使えないし、メッセージを届けるために小型のゴーレムを作り出すこともできない。
そしてそんな特殊結界を嫌がって、神も天使も精霊も、ここには絶対近づかない。
端的に言って、絶体絶命だった。
視界に映る手足と天井が、涙でゆらゆら揺れている。
何がどうしてこうなった。
いくら自問してみても、すべての出来事のきっかけは、エプロン姿でお料理を作る、内股気味のアル=マハなのだ。思い出せば思い出すほど、言語化不能なモヤモヤとした気持ち悪さが込み上げてくる。
混乱と動揺は正常な判断力を奪い、事態の打開に役立たない記憶をいくつも想起させる。様々な悲しみと空腹、情けなさ、食べ損ねた鶏肉の炒め物の香り。それらがいっぺんに思い出され、ベイカーは今にも闇堕ちになりそうだった。
「誰か……誰か、早く気付いてくれ……」
かなり無理な体勢で収まっているせいか、足先への血流が弱い。今は午後一時半過ぎ。隊員たちが異常に気付いて助けに来るまで、最長で六~七時間ほどかかるだろう。
この姿勢で六時間は耐えられない。冗談のような話だが、これは命の危機である。
「うう……嫌だ。こんなところで死にたくない……」
このまま死ねば、騎士団史上に燦然と光り輝く『究極のアホ』として名を残せるだろう。だがしかし。そんな形で後世の若者に語り継がれたくはない。
「何かないのか……何か、脱出できる手は……」
ベイカーは必死で考え、ある方法を思いつく。
振り子の要領で一定速度、一定幅の反復運動を繰り返せば、ブランコを揺らすのと同じ要領で、振れ幅を大きくできるのではないか。
木箱から出ているのは両足の膝から先。関節から先の部分を根気強く動かし続ければ、箱を横倒しにできるかもしれない。
「よし……やるだけやってみよう……!」
そうして始めた試みは、想像以上に過酷であった。
この様子を第三者目線で録画したら、どれだけ滑稽で間の抜けた残念動画になるだろう。そんな想像が脳裏によぎり、容赦なく精神的ダメージを与えてくる。努力すればするほどむなしさが込み上げ、妙な虚無感が胸を満たす。
これは己との戦いだ。
がんばれ、負けるな、負けたら死ぬぞ。
己の心を鼓舞し、ベイカーは誰にも誇れない地味な戦いを続けた。
そして心を無にして足掻くこと十分少々。ついに箱は横倒しになり、ベイカーは九死に一生を得る。
重力のかかる方向が変われば、あとはもう簡単だった。ジリジリと少しずつ身をよじり、箱から脱出して床に倒れ込む。
「や……やった……出られた……!」
ひどく乱れた呼吸を整え、のろのろと立ち上がる。
腕時計を見れば、時刻は午後二時ちょうど。ゴヤの除霊が順調に進んでいるとしたら、心を揺さぶる熱い説得パートから感動的なクライマックスを経て、大団円を迎えている頃だろう。そして最後に、「せっかくだから、みんなで食べるッス!」などと爽やかなことを言い出し、食卓を囲む幸せな笑顔で締めくくるのだ。
そんな情景がありありと思い浮かび、ベイカーは涙目になる。
「うぅ……なんで……なんで俺だけ……!」
空腹のせいで僻みっぽくなっている。それは自分でも分かっているのだが、さすがに今は、心のコンディションを立て直すだけの余力がない。
「……とにかく出よう。外に出て、何か食べよう……」
妙な体勢でジタバタしていただけでも、運動量としては相当なものであったようだ。全身にかいた汗はあっという間に冷え切り、背筋には嫌な寒気が走っている。喉はカラカラ、おなかはペコペコ。積もり積もったホコリだらけの床に転がったせいで、全身くまなく汚れている。どこの戦地から逃れてきた難民かという有様だが、顔いっぱいに書きなぐられた「助けてください」というメッセージを読んでくれる他人はいない。
ふらりふらりと出口に近付き、上着の腰ポケットからカードキーを取り出し――。
そして話は振り出しに戻る。
「……は?」
真っ二つに割れたカードキーを見て、ベイカーは真顔でフリーズした。
見た目重視でデザインされた特務部隊の制服は、胸ポケットに物を入れると内容物の形がくっきり浮き出てしまう。大柄なハンクやアレックスならばカードケースや手帳を入れても目立たないのだが、ベイカーは身長も横幅もないため、胸のポケットには本当に薄っぺらな物しか入れられない。たまにしか使わない倉庫のカギなどは、胸ではなく、腰のポケットに入れる癖がついていた。
これは、そんな前提条件があるからこそ起こってしまった悲劇である。
「な……なな……なんと……なんとぉぉぉ~っ!?」
エビのように体を折りたたんだとき、最も激しく押し縮められるのは両足の付け根付近であろう。上着の腰ポケットがあるのはまさにその位置。そこに大した強度もないプラスティック製のカードキーが突っ込まれていたのだ。冷静に考えれば、『なぜ割れていないと思った?』と突っ込みを入れたくなる出来事だ。
「……ど……どうしたら……?」
ここは最重要国家機密に指定された備品倉庫。物品の不正持ち出しを防ぐため、入庫時も出庫時も、必ずカードキーを使う必要がある。
駄目で元々、無駄を承知で握るドアノブ。
「……ダメか……」
回らない。開かない。うんともすんともなんとも言わない。
建付けの良すぎる倉庫の扉は、力いっぱい押したところで一ミリも動きはしない。
扉付近の内線端末には『故障中』というメモ紙が貼られ、空調機器は備品の劣化を防ぐべく、除湿と冷房を二十四時間全自動でかけ続けている。
寒くて乾いた倉庫の中、ベイカーの唯一の希望は、尻のポケットに突っ込んだ携帯端末であった。しかし、ポケットに手を突っ込んだところで、ベイカーは顔色を変える。
手触りがおかしい。
表面が異様にざらついているし、本体から、なんらかの部品が外れてしまっているようだ。
恐る恐る端末を取り出し、その様を見て絶望した。
「……画面が……!」
画面のガラスはバキバキにひび割れ、電源ボタンは反応せず、バッテリーパックの保護カバーは歪んで外れて復元不能。どこをどう操作しても反応しない。接続可能な周辺機器がない以上、この場で端末を復旧させることは不可能だった。
「そ、そんな……これでは、本当にもう……」
木箱に落ちたとき、全体重をかけて押し潰してしまったのだ。当然といえば当然の壊れ方なのだが、外界との連絡手段を断たれた人間の心をへし折るには十分すぎた。
自力脱出は不可能。仲間が気付いてくれるまで、無音の孤独に耐えるしかない。
眼前に突き付けられた残酷な現実に、ベイカーは膝から崩れ落ちた。
「なにが……何がどうしてこうなった……!?」
目から鼻へとひとつながりの涙腺。涙を堪えれば鼻水が垂れてくることは、人間である限り、絶対に逃れられない構造的問題の一つである。
とめどなく押し寄せる鼻水の激流は、イケメン特務部隊長の『最後の砦』に総攻撃をかける。ズビズビと鼻をすする音は必死の抵抗の証であったが、その戦力差は如何せんともし難く、ついに防衛線は突破された。
垂れる鼻水。
崩壊するイケメンのアイデンティティ。
この瞬間、ベイカーの中で何かが弾けた。
「う……ううっ……うっ……もうヤダ。寒い。お尻痛い。お腹空いた。おうちに帰りたい……うわあああぁぁぁーんっ! 助けて、ママァァァーッ!」
二十数年ぶりに心の底からママのぬくもりを求めた男の声は、誰の耳にも届かず、無人の倉庫の虚空へ消えた。
ベイカーはこの五時間後、無事に発見・救出されるのだが、備品倉庫で遭難した史上ただ一人の特務部隊長として、末永く語り継がれることになったという。