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枕式部日記  作者: 佐藤香
9/16

終章

「ちなみに、母の日記と間違えられると困るので、表紙には『枕式部日記』と書いておいた。……ですって」

 読み手の言葉を最後に、日記が閉じられる。

「最後まで付き合ってくれてありがとう。嬉しかったわあ」

 きっと目の前にいる彼女は微笑んでいるのだろう。しかし、凪にそれを確認する余裕はなかった。

 気づけば、凪の両目からは涙が溢れていた。昔の人の日記に感動したわけでもなければ、特に悲しかったわけでもない。

 ただ、胸のあたりに広がった温かさが、温泉のように涙を湧き出させる。

 凪にとっては全く予想外の涙であった。正直ものすごく気まずい。

 できるだけ泣き顔を見られないように俯いていると、突然手を握りしめられた。

 小さく、温かい手だ。指先は固く、たくましさを感じる。

(あれ……?)

 凪はその手に違和感を覚えた。凪とあまり変わらない、しわのない綺麗な手だったのだ。

 思わず顔を上げると、店主は予想通り微笑んでいた。

 肩のあたりで切り揃えられていたはずの髪の毛はたっぷりと彼女の背より長い。

 鈍色だった着物は、いつの間にか鮮やかな山吹色に変わっている。

 何より、凪の目の前にいたのは老婆ではなかった。

「私、あなたのこと好きよ。……結局、最後まで言えなかったけれど」

 そう言って微笑んだのは、凪と同じくらいの若い女性であった。

 よく通るその瑞々しい声だけは、あの老婆とも変わらない。むしろこちらの方が自然にも思えた。

「あなたは……」

 刹那、稲光が店の中を白く染めあげる。

 あまりに夢中で忘れていたが、外は土砂降りだったのだ。

 凪は思わず目を閉じてしまった。長く大きな雷鳴が轟く。

 瞼の裏の暗闇の中、雷鳴の音に混じって、別の音が聞こえる。

 箏の音だ。その音は力強く、美しかった。

 いつの間にか雷鳴が止んでいる。箏の音色だけが響いていた。

 きっと彼女が弾いているのだ。 

 凪は目を開いた。

 目の前には「貸倉庫」の貼り紙があった。凪は何故か店の外にいた。

 狐にでもつままれたような気持ちで、あたりを見回す。確かに、自分が通ってきた路地であった。

 しかし、どこにもあの小さな本屋を見つけることはできなかった。

 本屋であるべきはずの小屋は、貸倉庫として機能しているようだ。

「どうなっているの……?」

 思わず、凪はひとりごちた。長い夢でも見ていたような心持ちだ。

 先ほど大きな雷鳴を轟かせたばかりだというのに、空は嘘のように晴れやかだ。地面もすでに乾き始めている。

 凪は自分の手を見つめた。暗闇の中で握られた手の感触は、確かに現実だった。

 日は傾きかけていて、凪の手のひらをオレンジ色に染め上げる。

 夕飯だろうか、どこかの家からカレーの匂いがしている。

 凪は急速に自分の空腹を自覚した。随分と長いことあの店で過ごしていたのだ。

 夏だから日も長くなってきたとはいえ、あまり遅くなっては両親が心配する。

 何より、母に勘違いをされて夕飯を食いっぱぐれてしまうといけない。外で食べてくるときは連絡するといつも言ってあるのに、母はすぐに早とちりして私の分を用意し忘れる。

 スマホを取り出して、母のトーク場面を開く。「今日は遅いの?」というメッセージと共に、母お気に入りの猫のスタンプが表示された。凪はすぐさま返事を打つ。

「今から帰る! おなかすいた!」

 すぐに既読の文字が表示され、凪のスマホに猫が満面の笑みを浮かべているスタンプを受信された。

 帰ったら、新しい説明会でも予約しようかな。

 そう思いながら、凪は駅の方に足を向けた。

 真っ赤に燃えた夕焼けがまるで錦のように広がっている。

 明日はきっと快晴だろう。



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