鏡坂
昼休み、教室で椅子にもたれながら気だるげにカヤが呟いた。
「眠い。この陽気じゃ寝ろと言われている様にしか思えないな。
シュンもそう思わないか?」
僕も肯きながら同意した。
学校の先生たちは面白可笑しく授業を聞かせる能力をもっと高めるべきだと日々思っている。
「しかし眠いな。いいや、もうすぐ連休だし……」
カヤは眠そうに右手で頭を掻いている。
いつもの癖だ。
「……あっ!!」
カヤが突然何かに気づいた様に声をあげた。
一体どうしたのか。
「もうすぐ鏡坂の日だよ!!」
それを言われて思い出した。
今月末、つまり今日から四日後は北峠坂、通称「鏡坂」がオカルトスポットになる日だ。
北峠坂は僕の家から30分ほど車で行ったところにある、山中に続く峠道だ。
山頂に一本で続く坂道なのだが、急な曲がり道が右、左と八箇所続く非常に危ない道となっている。
起こった事故の数もそれなりに多い。
そんな北峠坂が鏡坂と呼ばれる所以は、それぞれの曲がり道にカーブミラーが一つず付いている事からだ。
それらは普段、きちんとした角度で道を写しているが、なぜか一年で一日だけ合わせ鏡になると言うのだ。
その日に山頂からカーブミラーを一つずつ見ながら降りて行き最後のカーブミラーを見ると、合わさった鏡の中に異世界の入り口が見えると言われている。
「去年は雨が降っていたし行けなかったからな。今年は真理姉ちゃん、俺の従姉妹が車で連れてってくれるってよ! 行くしかないよな!」
僕は強く頷いた。週末に決まった魅力的な予定で気持ちも高ぶる。
午後からのつまらない授業も少し楽しみになっていた。
当日はカヤの家の前で待ち合わせだった。
カヤの従姉妹、大学生の真理が二人を車で迎えに来ることになっている。
「真理姉ちゃん、三週間前に免許取ったんだってよ…」
オカルトスポットに行く前に自分たちがオカルト化する可能性が出てきた…。
気落ちしている二人の前に勢いよく軽自動車が止まった。
女の子が好みそうな小さくて可愛らしい緑色の車だ。
「ごめん。お待たせ! カヤは久しぶり。背伸びた?」
「いや、中学に入ってからそんなに変わってないよ。それよりも今日はありがとうね」
「そうか、前会ったのが小学六年生の時だからね。そりゃ背も伸びるわね。
──きみがシュン君ね。私の初ドライブに付き合ってくれてありがとう」
シュンは丁寧に挨拶をした。わざわざオカルトスポットに連れていってもらうのだ。
奇妙な人間に思われないように配慮をせざるを得ない。
しかし、初ドライブとは……。
「大丈夫よ、教習所じゃ『個性的な運転をするね』って褒めてもらっていたから。早速行きましょうか」
軽自動車で夕暮れの道を走って行く。
心配だった運転技術も初心者とは思えない安定したものだった。
安心した気持ちだったせいか、ウトウトしていると既に鏡坂近くまで来ていた。
日は沈みかけている。
「ここが鏡坂ね。本当に坂が多いわね」
運転席から少し前のめりになった真理が楽しそうに言った。
窓から坂を見てみる。
実際見てみると大きくゆったりと曲がる道だった。
軽自動車が左折しながら坂道を登りだした。
反動で少し窓に顔が当たった。
「あれが噂のカーブミラーじゃないか?」
カヤが指差した先には確かにカーブミラーが見えた。
所々錆びが見える。
鏡の中は暗くてよく見えないが、特に合わせ鏡になっているようには見えなかった。
一つ目の坂を過ぎてからは山頂までは10分ほど。
どうやら一つ目の坂が一番ゆったりとした坂だったようで、そこからの七つの坂は噂通り急な曲がり坂だった。
「うわ…けっこう人多いね。駐車場いっぱい」
真理は少し困っていた。
駐車場がほぼすべて埋まっており、空いているところは停めにくい所しかなかった。
どうやら駐車は苦手のようだ。
僕らは先に降りて、真理を待つ間に自動販売機で炭酸飲料を買った。
やがて真理が疲れた顔でこっちに来た。
カヤは買ったペットボトルを真理に渡しながら労いの言葉をかける。
「悪いわね。初心者にあの坂道と縦列駐車はきつかったわ」
真理がボトルの蓋を開ける時に右手の中指に指輪が見えた。
女性にしては太目の指輪だ。
「ああ、これ? 男友達に貰ったのよ、というか勝手に貰ったんだけどね」
笑いながらあっけらかんにそう言った真理の顔は少し曇って見えた。
「よし、行こうぜシュン! 真理はどうする?」
「私は少し休んでから車で追いかけるわ。下で待っているようにするから」
真理と別れて山頂のカーブミラー前に向かう。
人が数人溜まっている場所が見えた。
そこにカーブミラーがあるようだ。
「本当に人が多いな。物好きが多いぜまったく」
──人のことは言えないよね。
あきれて笑いながら二人でカーブミラーの前に向かう。
前に立って鏡を見てみると、特に変わったところは無い様だった。
合わせ鏡には見えない。次の角が少し見えるくらいだ。
「う~ん、ここは普通なんだな」
次のカーブミラーに向けて歩き出す。
カヤの歩くペースは早い。
まだ七つもカーブミラーもあると考えると当然だ。
前方に一組のカップルと三人の男性グループが見えた。
二つ目のカーブミラーに着いた。
中を覗き込んでみたが特に異常は無いようだ。
どの角度から見ても合わせ鏡には見えない。
「なんだ、ここもハズレか。次行ってみようぜ」
次の鏡に向けてまた歩き出す。
前には三人の男性グループと一人の女性がいた。
──あの女性、さっきのカップルの女性とは違うな。
それに男性もいない、どこにいったんだろう。
少し不思議に思いながら次のカーブミラーまで歩いた。
三つ目のカーブミラーは二つ目のカーブミラーからすぐのところにあった。
「またハズレかよ…」
カヤは少し眠くなってきているようだった。
カーブミラーがよく見えなかったので、何とか中を見ようとしたがなぜかよく見えない。
ぼやけて見えているような感じだ。
カヤお構いなしに、次のカーブミラーに向かって歩いていく。
小走りで後に続いた。
前方に歩くのは見覚えのある一組のカップルと一人の女性だけだ。
──今度は男の人たちがいない。
シュンは少し寒気を感じた。
しかし、寒気の正体がわからない。
偶然か自分の見間違いか。
四つ目のカーブミラー。
ここもなぜか中がよく見えない。
「まったく変わり無しだぜ」
──カヤは中が見えているんだろうか……?
カヤは本当に眠くなってきたようだった。
いつもの癖で左手で頭を掻いている。
──左手!?
なんで左手で頭を掻くんだよカヤ!
「うん? いつも左手で掻いてるだろ? どうしたんだよ、そんな大きい声だして」
──いつも左手で掻いている?
訳が分からなかった。
いつもっていつだ? そんな時は今まで一回も無かったのに…。
カヤは構わず次のカーブミラーに歩いていくす。
僕がいないような扱いだ。
慌てて追いかけた先に、三人の男性グループと女性一人がた。
──今度はカップルがいなくなってる。
人が少しずつ入れ替わってる。
でも、あの女性はずっといるんだな……。
あれ、最初からいたっけ? いつからいるんだ?
「え、前にいる人たち? ごめん、そんな気にしてなかったよ。
……今は女性一人と男女のカップルがいるみたいだな」
寒気がいっきに増した。
カヤと自分が見えているものが、どうやら違う。
だけど、女性は共通して見えているみたいだ。
こうして考えると、共通して見えている女性の方が怪しく思える。
五つ目のカーブミラー、六つ目のカーブミラーも特に異常は無かった。
男性グループとカップルは交互にいなくなり現れる。
しかし、女性は常に目の前にいる。
カーブミラーで足を止めることもなく歩いているのに、自分たちの前に一定距離で存在しているように思える。
七つ目のカーブミラーでカヤが止まった。
うんと背伸びをしながら右手で頭を掻いている。
──なんだよ、やっぱり右手で掻いているじゃないか。
「え? 頭を掻く時は右手だろ?」
何なんだこの状況は。
立ち止まってよく考えてみる。
もうカーブミラーは怖くてしばらく覗けていない。
坂道で自分の友達が別人になっているような事が起こり、そして目の前にいるものが騙し絵みたいに移り変わる。
あの前を歩く消えない女性を見つけてからおかしくなってる…。
立ち尽くすシュンの前に緑の軽自動車が止まった。
「あなた達けっこう足早いわね。もうこんなところまで来たんだ」
後から来た真理が追いついたようだ。
「おっ、いいところに! 真理姉ちゃん下まで乗せてってよ。ちょっと疲れてきてさ」
カヤは真理にそう言うと車に乗り込んだ。
つられて車に乗る。
「しかし、人が多い割りに陰気な雰囲気ね。カーブミラーも別に合わせ鏡じゃなかったし」
「まあ、イベントが起こるのは山頂から一番下に見ながらってことだから、下の鏡を見たら何かあるのかもな」
軽自動車が最後のカーブミラーに走って行く。
男性グループを抜き、カップルを抜き、そしてカーブミラ-に着いた。
──女性はどこにいったんだ。
もう何も考えたくなくなっていた。
気だるげに車の窓に体をもたれさせ、成り行きに身を任せる。
「どうしたシュン。体調悪くなったのか?」
目の前にいるカヤも自分が知っているカヤじゃないのかもしれない。
こんな状況で気分が悪くならないことはないだろう。
「ほら、最後のカーブミラーに着いたわよ」
カヤと真理が車から降りる。
ずっと車の中にいたかったが、なぜか鏡を見なくてはいけないと思た。
鏡を覗きこむと、そこには自分とカヤと真理が映っていた。
それはそうだ。鏡を覗けば自分たちが見えるに決まっている。
──あれ、でも待てよ。
そういえば今までも同じように正面から見てたのに自分たちが映らなかったんじゃないか?
僕は思い出した。
鏡は自分たちを一度も映していなかった。
──それじゃあ鏡に映らなかった僕らはどこにいたんだ?
「なんだよ、結局合わせ鏡は嘘っぱちかよ」
カヤはつまらなそうに近くの石を蹴る。
その石は勢いよく道路を跳ね、運悪く真理の車に当たってしまった。
「このバカ! 新車よ!」
「痛って! 殴らなくてもいいだろ!」
真理が思い切りカヤの頭に拳骨をした。
その様子を見て思わず笑ってしまう。
「お、シュン体調良くなったか? やっぱり変な場所だったのかな」
カヤはいつものカヤに見える。
何となく安心してよい気がした。
──一人で歩いていた女性は結局見当たらない。
男性グループとカップルはさっき山頂に帰っていった。
ただ、彼女が前を歩いていた事、
鏡に自分が映らなかった事、
これらは関係があるように思えた。
拳骨をした右手を痛そうにする真理を見た。
その手には指輪が無い。
「あれ、真理姉ちゃん指輪どうしたんだ?」
カヤも不思議に思ったのか真理に尋ねていた。
「うん? 指輪? 指輪なら左手の中指につけているわよ?」
──左手!?
行きは右手にしてたじゃないか!
「え、最初から左手にしていたけど……」
首をかしげながら答える真理。
本当に最初から左手にしている様な言い方だった。
「そ、そうだったか…な? まあ、いっか! 帰ろうぜ!」
強引に引き上げようとするカヤ。
カヤも途中で何か気づいていたのかもしれない。
シュンも深く考えることはやめた。
──そうだ、別に指輪がどっちの手についていようが関係ないじゃないか!
虚勢を張りながらも少し寒くなってきたのでシャツのボタンを留めようとした。
しかし、なぜかシャツのボタンが上手く留められない。
シャツを見てみると、ボタンの付いている側が左右逆になっていた。