彼女は俺の妄想の中にいた。
俺には彼女がいる。
歳は四つ下。髪をツインテールに結んでいて、あどけなさが残った顔の通り、性格も、どこか子どもっぽいところがある。
彼女は機嫌が悪くなると、頬を膨らませて、話しかけても拗ねてそっぽを向き、こっちから謝るまで、意地を張って、心の殻の中に籠城し続ける。
普段は少し棘のある言葉を話し、勝ち気で強気なやつだが、本当は甘えん坊で寂しがり屋であった。
そのくせ不器用で、甘え下手であったため、付き合い始めた当初は、こっちもかなり彼女の扱いに手こずった。
そんな彼女と付き合い始めて、ちょうど一年経つ。
俺からの告白で交際が始まったのは確か高校二年生の時。とすると、彼女が中学二年生の時になる。
デートもかなりしたが、デートは特に遊園地に行くとか、どこかの人気のデートスポットに行く事はなかった。
デートの際は、いつも俺ひとりだ。
いや、彼女と一緒にいるのは間違いない。
彼女は話しかけて来るし、手をつなげば、柔らかい肌の感触から温かみが掌に伝わってくる。
いよいよ俺も重症だと思い、何度か病院へ行ってみた。
異変に気付いたのは、交際を始めてからの周りの反応。クラスの男子から「あいつ、最近独り言激しくね?」と首を傾げ苦笑してこちらを見ていた顔が今でも忘れられない。
とうとう、ここまでこじらせてしまったかと、自分を責めたことも、しばしばある。
だが、今ではもう彼女を受け入れるしか俺にはできなかった。
彼女はここにいるのだが、実際にはここにはいないのだろう。
彼女の名前は、菅野英梨。
俺の妄想がつくりあげてしまった、彼女である。
* * *
「なぁ、お前って、やっぱり俺の妄想なの?」
珈琲カップを置き、彼女にまた尋ねると、英梨は少し眉をあげこちらを見たが、その表情はすぐに不機嫌な顔に変わった。
「またその質問?」
「いや、周りに見えてないし、それにお前、椅子に座るとかはできても、物を食べたり、持ち上げたりできないじゃねェか」
これを普通の声で話せば間違えなく、俺は独り言の激しい変人にみられる事間違いなしだ。そんなレッテルを貼られるのを避けるべく、俺はいつも英梨に話しかける時は、できるだけ小声で話す。
「何度も言うけど、私、本当にいるから。生きてるから」
妄想じゃないか、と彼女に尋ねれば、必ずこの一点張りである。
「それよりさぁ、また海連れて行ってよ。海」
「また行くのか」
「だって、海こっちじゃなかなか見れないんだもん。お願い!」
付き合って間もなく、彼女の正体を問い詰めると、彼女は、未来から来た、と訳の分からないことを打ち明けた。
未来から来たからこっちの世界に干渉することはできない。
なるほど、我ながらよくできた設定だ。
そういうことにしてしまえば、周りに見えないことも納得がいくし、物に触れられないことも府に落ちる。全ては過去を変えないためか。
彼女いない歴=年齢をこじらせるとここまで来てしまうのか、と俺は深くため息をついた。
英梨はいつも不定期に俺の目の前に姿を現せる。
ある時は登校時。ある時は授業中。ある時はカラオケ。そしてある時は、就寝前の俺の部屋。
風呂場に現われた時は、向こうも声を張り上げたが、こっちのほうが死ぬほど驚いた。
彼女という妄想はもはや、俺の手を離れ、無意識の域に入ってしまっているのだろう。
心療内科に行って見たところ、こういうことで悩む人はよくいるらしい。不気味な怪物に追われるとか、死んだおじいちゃんの声が聞こえてくるとか、そういった幻覚、幻聴で日々苦しむ人は、精神的な原因があると医師は言っていた。
それは、現実へのストレスや事故のトラウマなど様々で、きっと俺に彼女の姿が見え話しかけて来る幻聴が聞こえるのも、何かしら心のどこかに不調があるのが原因だろう。
処方された薬を飲めば、少しは落ち着くと思ったが、彼女は変わらず突然に姿を現してくる。
俺は決して彼女が嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。
大好きでなければおかしい。
彼女は俺の妄想なのだから。
しかし、その一方で妄想に憑りつかれた自分の異常さに苛まされる。
そんな中、俺が見つけた一つの最善の解決法は、彼女をそのまま受け入れることだった。
彼女の存在を認め、上手く付き合っていく。これしかない。
妄想であっても、彼女を消すことは、どこか心が退けるし、罪悪感がある。
妄想だから消すと彼女に言えば、彼女は絶対顔を曇らせ泣き出してしまうだろう。
それは何としても避けたい。
妄想をこじらせた俺がとれる、唯一の方法だった。
そう決意してから、どこか一人でいっても周りからおかしな目で見られないような場所を選び、彼女とデートした。
彼女にも、周りからは俺だけしか見えない事と周囲から変な目で見られるのは避けたいという旨を伝えると、彼女は快く了承してくれた。
一人デートの始まりである。
その一人デートの中、彼女が一番気に入ってくれた場所は、海であった。
初めて近くの海水浴場へ自転車を走らせ立ち寄った時には、彼女はその場で飛び跳ね、波打ち際に走り、バシャバシャと海に足をつけ、英梨は楽しそうに笑い声をあげながら、海を満喫していた。
それ以来、海は英梨のお気に入りの場所になり、気が向けば、俺は自転車を走らせ、脳内にいる彼女を海へ連れて行くようになった。
自転車の後ろに英梨は乗り、暑い日差しの中、色々に話を振って来る。
「今日暑いねー。何か飲み物持って来れば良かったなー」
片手で俺の肩を掴み、もう一つの手をパタパタさせながら、英梨は風を送った。
この言葉も、俺が無意識に思っていることなのだろうか。
「あっ、あそこのお店できたんだー。ね、ね、今度行って見ようよ」
この前まで改装中であったカフェを英梨は見て、耳元で話しかける。
俺はあのお店に行きたいのだろうか。
「ねぇ、ちょっと。聞いてる?」
英梨が、少し顔をしかめて言うと、俺はようやく英梨に反応を返した。
「あ、ごめん。ちゃんと聞いてるよ。今度時間があったら、行くか」
「やったー!」
片手をグーにして手を天へ突きあげ喜ぶ英梨の声を聞くと、とてもこれが妄想とは思えないと感じてしまう。
英梨が妄想であるという証拠は、英梨を観察しているうちに、いくつか発見した。
一つは、彼女の着ている中学の制服は、俺自身が通っていた中学の制服であること。
二つは、彼女の性格、容姿が完璧に俺好みのドストライクであること。
三つは、彼女の家族や住所など詳しい事については教えてくれないこと。
一つ目のやつは、実際に中学に通っている弟を使って確かめさせたが、英梨という名の生徒はいないことが分かった。三つ目については、直接彼女に問いただしたが、過去の人に未来について詳しい事は教えられない、という回答のみで、これは未来のことを予測などできない俺自身が、未来から来たという設定の彼女について妄想できないため、という結論に落ち着いた。
深くため息をついた俺に、「どしたの?」と不思議そうに聞いてきた彼女に、俺は、何でもない、と返事をかえした。
海に着くと、そこは多くの人で賑わっていた。
流石、夏本番。
自転車を駐車場の端に止めると、彼女は、わーっと声を上げ、海へ向かって砂浜を駆けだした。
「誠ぉ! こっちこっちぃー!」
手を振り、海へ向かって駆けて行く彼女に着いていくと、彼女は裸足で波に浸かり始めた。
まだ冷たいのか、少し足を震わせるも、気持ち良さげに、バシャバシャと足を上げては水面につけた。
俺も、波打ち際まで歩き、こちらまで伸びてきた波に右手をそっとつけると、海の優しい冷たさが肌に伝わった。
「見て見て! ワカメ!」
水面をゆらゆらと泳ぐ、それを英梨が指差すと、俺はそれを手に取り、英梨に見せた。
「すげーヌルヌルしてる」
「味噌汁にしたら、食べられるかな?」
「食べられない事はないけどな」
俺が苦笑して言うと、英梨もクスクスと笑い声を漏らした。
俺はこの時間が好きだった。
英梨は確かに俺の妄想だろうが、その人格は間違えなくこの世に存在している。
妄想として生み出してしまった彼女とこうして楽しめる場所はとても少ない。
だから、彼女とのこうした時間は、数ある優先順位の中でも大切な位置を占めていた。
英梨が海で楽しそうにはしゃぐ姿を、珈琲の缶を開け、飲みながらずっと見つめていた。
* * *
俺が高校を卒業すると同時に、彼女も中学を卒業した。
卒業式の日は、偶然にも一緒で、同級生たちと別れを惜しんだ後の帰り道、一人になった時に、彼女が現われた。
彼女は手に卒業証書を持ち、制服のポケットに花飾りをつけ、俺の目の前に立っていた。
黄色の空の下の公園。
ベンチに腰を下ろすと、彼女もその隣にそっと座った。
「卒業おめでとう」
俺が彼女に言うと、彼女も微笑みお礼を言うと、同じ言葉を俺に向けて返してきた。
「あっという間だったな」
噴水の飛沫が上がるのを見つめながら、どこか遠い景色を見ているように浅く息をつき、俺が言うと、英梨も「そうだね」と同じような声調で頷いた。
彼女ともこれまでに色んな思い出をできる限り作って来た。
修学旅行もこっそり連れて行った。
水族館にも行きイルカショーも見たし、山登りもした。
山頂から夕陽を見た時の英梨の感動したあの表情が昨日のように目に映る。
本当に、たくさんの思い出を作ったな。
俺がそう言うと、英梨は、うん、と静かに頷いた。
それは、どこか寂し気な声でもあった。
「ごめんね」
「え?」
英梨は、何かを決心したような表情になると、俺に向かい、その口を開いた。
「今日で、私。もうこっちには来れなくなるの」
英梨がそう言うと、俺はしばらく黙った。
何か黒く、重たいものが、胸の底に沈む様に落ちていった。
「……そっか」
静かに息をつき、俺がそう言うと、英梨は、俺の手を、そっと触れる様に片手で優しく握った。
「今まで、ありがとう」
英梨の顔は、泣きそうであったが、心の底からそう思っていたのだろう。その和らいだ笑顔は、言葉よりもその気持ちを表していた。
脳裏に浮かぶ言の葉を必死で探った。
さようなら。それだけは言いたくはなかった。
「……未来でまた会えたらいいな」
必死にかき集めた葉に、思いを乗せ、それが彼女に届くと、彼女は「うん」と飛び切りの笑顔を俺に返した。
建物の影に消える、夕陽の光と共に、英梨はその姿を消し、英梨の姿が完全に消えた後、周りの景色も白くなり、輪郭すらなくなると、その眩しさに俺は静かに目を閉じた。どうやら、ここまでらしい。
* * *
……さん
……日形さん。
静かに瞼を開けると、白い服に身を包んだ、女性の看護師さんの顔が覗き込む様に、私を見つめていた。
「あぁ、もう終わりかい」
しわがれた声で、上半身をゆっくり、支えられながら起こすと、隣にいた若い医師が近寄った。
「これが、英梨さんの贈り物になります」
隣を見ると、そこには、カプセル状のベッドの中で安らかに眠っている、可愛い孫がいた。
難病と闘い続け、静かに眠りについた、高校生の孫がそこにはいた。
「英梨……」
しわくちゃになった手で、優しく孫の頬に触れた。
周りには娘、そしてその婿、長男と次男、そして長男の奥さんが生まれたばかりのその命を抱え、涙ぐんで、そこに立っていた。
「英梨。今、ようやく分かったよ。英梨は、一人だった、おじいちゃんに会いに来てくれてたんだね」
あれから何十年経った今、未来から過去に行くことができるようになった。
それだけではない。自身が体験、経験した記憶も、今では保存できるようになり、それを特別の機械を使って、人に見せる事も出来るようにまでなった。
生きたアルバムといわれるそれは、USBのようなものに保存され、カプセル状の機械に差し込むことで、映画のようにそれを見ることができる。
英梨は、息を引き取る前に、おじいちゃんにこれを見せてほしい、と担当の医師に頼んでいたらしい。
英梨は、難病にかかり、ほとんど病院での生活を過ごしていた。
調子のいい時は、学校にも行っていたが、病院に過ごしている時は、私と一緒に過ごす事が多かった。
英梨にたくさんの経験を、思い出をと、私が生きて来た体験や思い出をいっぱい話した。
中学校でいじめに遭ったこと。
高校で心を閉ざし寂しい生活を送っていた私に楽しい思い出をくれた少女のこと。
大学に行き、打ち込めることや夢がみつかったこと。会社に入り、仲間と時間を忘れるほどに飲み語り合ったこと。
現実を忘れるような大恋愛をし、結婚した事。大学へ戻り、教授となって熱弁を講義でしたこと。
子どもが生まれた時、泣くほど感動したこと。
そして、孫が生まれ、英梨に出会えたことを神様に感謝している事。
英梨はいつだって、私の話を、目を輝かせ聞いてくれた。楽しい思い出を話すときは、一緒に笑い、悲しい思い出を話すときは、一緒に悲しみ、話している私自身も英梨と一緒にいる時間はとても大切で毎日英梨と話すのを楽しみにしていた。
「私、おじいちゃんにお礼したいなー」とベッドで言う孫に「英梨がいるだけで、おじいちゃんは幸せだよ」と頭を撫でていたことが、過去から時間を越えてきたように、思い出される。
きっと、英梨は夜中、私が眠っている間に、私の記憶を機械を使って覗き込み、過去の世界に飛んでいたのだ。
「英梨は、一番寂しい思いをしてた時のおじいちゃんを、慰めに来てくれていたんだね。あの時は、何も知らずに疑っていたおじいちゃんを許しておくれ。英梨のおかげで、おじいちゃんは楽しい高校生を過ごす事ができたよ。本当に……本当にありがとう」
熱い何かが喉にひっかかり、目に溢れたそれが頬から温かく伝わり、孫の顔に落ちたのを、手で優しく拭うと、私はもう一度、感謝の気持ちを言った。
遊び疲れた子どものように眠りついたその顔は、満足したような、優しい笑みを浮かべていた。
稚拙な文で読みにくかったかもしれませんが、最後まで読んで頂きありがとうございました!
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