愛もひとを殺すのだ
ひどい耳鳴りがする。
脳みそがくらっと揺れた気がした。
手にした手紙をくしゃりと握りしめる。本当は破り捨てたかったが、わずかに残った理性がそれを押し止めた。
「こんなのって、ないわ」
呟いた声は予想以上にかすれていた。椅子の背もたれにだらりと体重をのせて、深く息をつく。傍らの暖炉がパチパチという音がやけに忌々しかった。
*****
ある日、婚約者が失踪した。
家同士の婚約ではあったが、関係は良好と思っていたし、事実、些細な揉め事も起きないほど穏やかだった。好き同士ではなくともお互い嫌いじゃなかったから、きっとうまくいくと思っていた。
それなのに、彼はいなくなった。誰にもなにも言わず、忽然と姿を消したのだ。思い当たる理由もなく、周囲は皆、ひどく混乱した。
もちろん、私も突然のことに呆然とした。身の回りのことは何も手がつかず、呆然としたまま、いつのまにか長い時間がたっていた。
しばらくして、ようやく立ち直り始めて、心に少しだけ、余裕ができた。そうして、部屋を片付けているとき、不意に、彼の最後の手紙に気がついた。
手付かずの郵便物の山からそれは見つかった。
失踪から半年が過ぎた頃だった。
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親愛なるリリー へ
こんな風にいなくなる僕をどうか許してください。
きみがきっと悲しんでくれるのをわかっていて、それでも現状に耐えられず逃げ出した僕は、とんでもない卑怯者です。
そんな僕に今できることは、きみにすべてを打ち明けることでしょう。僕の自己満足かもしれませんが、すべて読んでくれると嬉しいです。
僕には昔から愛してやまない人がいました。
その人への想いは、社会的に認められない恋でしたが、僕はずっと長い間その人を愛していました。
きみには申し訳ない話だけれども、その人を好きなまま、きみと結婚するのだろうと思っていました。きみとの婚約が決まって、それでも好きなままだったからです。
たとえ誰と結婚しようと、僕はその人を好きでさえいられたら幸せでした。
ですが、その人は亡くなりました。急死したのです。
到底、受け入れられないことでした。
その人のいない世界で、僕は生きていく理由が見出だせませんでした。
それくらい彼が好きで、僕の存在意義でした。
これが僕が自分本意に逃げた理由です。
こんな自分勝手な僕のことをきみは許せないでしょうが、このひどい男のことなど早く忘れてください。それでは。
きみの幸せを願って アルヴァ
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読み終わった瞬間、ぐらぐら煮え立つ怒りと、大きな喪失感が襲った。
なんてひどい手紙なのかしら。婚約者に宛てる最後の手紙が、他の人へのラブレターなんて。
それに。
それに、知っていた。
私は、すべて知っていたのだ。
彼が、私の兄を、愛していることを。
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彼と私の兄は親友だった。
家同士のつながりもあったが、それを抜きにしてもとても仲がよかった。唯一無二の友、という感じだった。
そんな二人を私はいつも羨んで見ていた。だから、彼が兄に恋心を抱いているのにもずっと昔から気づいていた。
彼が兄を見つめる目も、話しかける声も、笑いかける表情も、何もかもに特有の甘さを含んでいた。私はそれが羨ましくて仕方なかった。いつかあの甘さを自分にも向けられないか、と思い始めた頃に彼が好きだと自覚した。
だから、婚約の話も純粋に嬉しかった。もしかしたら、これで彼も私のことを見てくれるかもしれない。兄のことを諦めるかもしれない。そんなことを本気で思っていた。
それでも、彼は兄が好きなままだった。
ずっと、好きなままだった。
*****
私は手紙に顔を伏せて、声を押し殺して泣いた。
ひたすらに自分が惨めだった。彼の心をいつか手に入れられると思っていたことも、兄の死がその「いつか」だと思ってしまったことも。
愚かな私は、彼の理由になれると信じていたのだ。これからを共に生きていく理由になれると。なんて悲惨な幻想だろう。
押さえきれなかった嗚咽が部屋に響く。垂れた涙が手紙に染みついて、彼の最後の言葉を滲ませた。