裏菊会
裏菊会は毎週木曜日の夜に、陸山社の一角で開かれる。陸山社とは現役と予備役や退役を問わず広く将校たちが名を連ねる、同窓会のようなものであって、その組織が所有している建物もそう言われていた。陸軍将校たちが交流するにはうってつけの場所である。
裏菊会の出席者のほぼ全てを、既に真琴は知っているとはいえ、それは里緒を除いて職務上のものである。末席ながらこうした研究会に参加するのは初めてな以上、緊張するよりほかになかった。
列席する者はまさに陸軍の中枢を実務の面で切り盛りする面々であった。列席者の中で最も階級の高い中佐級を上げるだけでも、陸軍省軍務局軍事課高級課員田代正明中佐、同省整備局動員課高級課員横田嘉通中佐、同省人事局人事課高級課員本野俊喜中佐、参謀本部第一部作戦課作戦班長伊東祐行中佐、同課戦争指導班長三上卓郎中佐、参謀本部第二部泰華課軍備班長松浦久恒中佐など、枢要な地位についている者ばかりであった。その他少佐、大尉級を含めて総勢で二十名ほどの研究会である。
その中で、年次の意味でも、経歴の意味でも、異彩を放っているのが第六中隊長多賀谷里緒大尉と総長副官結城真琴大尉であった。他の参加者は陸軍大学校卒業生ばかりであるが、彼女たちは異なる。特に、里緒に至っては部隊勤務者であって、この中にはそのような者は他に誰もいない。もっとも、里緒に関しては単に前線勤務等で受験の機会を逃していただけであって、今度の試験では合格することが確実視されていた。そして、陸大を卒業すれば、陸軍省や参謀本部の席を与えられることは確実だろう。真琴にしても、浦東会戦の英雄としての名声とこの三週間ほどで見せつけた手腕、そして総長副官という地位を鑑みれば、列席者の引けを取るものではない。
「本日の例会を始める前に新たな同志が参加したのでそれを紹介したい」
幹事役の軍務局軍事課高級課員田代正明中佐が言う。彼は丸い眼鏡をかけた軍人で、風貌は軍人というよりも、むしろ大学教授を思わせる。
「第六中隊長多賀谷里緒大尉と参謀総長副官の結城真琴大尉の両名だ。皆さんもご存じかと思うが、多賀谷結城両大尉は総長宮殿下との結び付きも強く、また、次代の陸軍中枢を担うべき人材であると確信している。特に多賀谷大尉は開戦後長らく前線で活躍した士官であり、最近まで戦場を見ていたため、その意見は貴重であると確信している」
総長副官として陸軍中枢の将校と関わっている真琴であればともかく、前線勤務しか経験していないような里緒の名が知られていることに、真琴は純粋に驚いたし、それだけの傑物なのだろうと思った。
「それでは本日の議題について移ろう。作戦班の伊東中佐から報告がある」
参謀本部の作戦課作戦班長の伊東中佐は華族の出身の将校である。端正な顔立ちは貴公子然としており、実年齢よりも若く見える。
「先日も報告した漸号作戦について、新たな動きがあった」
漸号作戦。真琴が着任した時に音羽が決裁を拒否して差し戻した作戦計画である。その後随分と音沙汰がないのを気にかけていたのだが、一体どうなったというのであろうか。
「一応作戦の概略を簡単に説明すると、我々が相対している泰華共和国と北方帝国の結節点である泰華第二の都市、大都を攻撃する作戦である。目的はむろん泰華と北方の前線での連絡を絶つことと、泰華の戦意を喪失させることである」
大都は泰華共和国が三十年ほど前までの帝政時代に首都としていた都市であり、共和国北部の経済の中心として今なお繁栄をしていた。
「当初案では十個師団二十万の兵力を以って攻略する予定であったが、総長宮殿下は勝算に乏しいとして差し戻しにあった。大都の重要性は敵も分かっている。そのため、防御陣地は特に念入りに作られているだろうし、兵力も集中しているだろうというのがその理由だ」
ここまでは列席する将校たちは知っていたらしく、あまり表情に変化は見られない。そして、真琴の観察するところ、漸号作戦に乗り気であるような将校はあまりいないようである。
「しかし、作戦課長の肝煎りの元、再度計画が再編をしていた。それがこのたび一応の完成を見て第一部長、参謀次長の決裁を経て総長宮殿下の決裁を仰ぐことになった」
説明する伊東の表情は苦虫を噛み潰したようであり、彼が内心はこの作戦に反対していることが分かる。他の将校たちも動揺したようで、あるいは音羽が決裁をせずに差し戻したのは裏菊会の助言があったのかもしれない。
「変更点は次のようだ。前線から師団をより引き抜き、本土においてある予備の師団も動員することで兵力を増やす。その数、合計十五個師団三十万」
おおよそ一・五倍に参加兵力が増えたということである。
「無茶です。兵力が増えたところで塹壕の前にはあまり意味を持ちません」
真っ先に口を挟んだのは里緒であった。最も塹壕戦の悲惨さを知っているからこそ、発言したのだろう。
「俺も同意見だ」
伊東は首肯した。
「しかし、課長以上はそう考えていないらしい。そして、総長宮殿下は慣習として二度目の決裁は無条件で通すことになっている。つまり、この作戦計画は参謀本部から大本営に上げられ、おそらくそこで実施が決定するだろう。まさか陸軍大臣も反対しまい」
「五個師団も余計に割くとなると新たな師団の編成が必要になるな」
陸軍省の動員課高級課員の横田中佐は眉間にしわを寄せていた。彼は鼻の下に生やしている髭が印象的な軍人で、また、軍人には珍しく、のっぽという印象を受ける。
「正直な話、国内の徴兵可能の国民が少なくなってきている。あまり兵力の無駄遣いをしてほしくないのだが」
「そのことも課長には注意したんだが、徴兵の枠を拡大すればよいと聞かんくてな。なんでも帝国が国運を賭けた戦争をやっているのに協力をしない国民などいない、だそうだ」
伊東は皮肉っぽく笑う。
「これ以上の徴兵は国力の減退を招きかねないぞ。生産が落ちれば戦争どころではない」
ため息交じりに言うのは戦争指導班長の三上中佐である。
「総長宮殿下に再度決裁を拒んでもらえばいいのではないか。総長宮殿下の決裁がなく命令が発せられることはない」
そう言ったのは陸軍省兵器局機械課員の真鍋哲大尉である。
「それは殿下が次長以下に対する不信任を表明することになり、殿下か次長のどちらかの更迭を免れません。事実上不可能です」
そう答えたのは真琴である。総長副官として、参謀本部内の規律や音羽の立場を守るために、それだけはいけないと感じていた。皇族であり、ましてや経験の浅い音羽が必要以上に部下に対して指図するのは本来避けなければならない。
「それで次長がやめればよいではないか」
「事はそう簡単ではないのです、真鍋大尉。人事権を持っている荒谷大臣閣下は真崎次長閣下の肩を持つでしょう。おそらく、殿下の更迭を以って、総長には作戦を決裁してくれる者を呼んでくると思います」
経験の浅い伏見大将宮にはやはり参謀総長の重責は担えない。従って、その他の皇族軍人に対し優諚を下してでも総長に据えるべきである――漸号作戦の決裁を二度にわたり真琴が拒否した場合、陸軍大臣が皇帝に対してそう奏上することは、真琴にとってもはや自明だった。そして、陸軍の慣行上、分があるのは真崎次長であり、荒谷大臣である。皇族総長に求められているのは主体性ではなく、また、特に皇帝の信任があるわけではない音羽は陸軍大臣の奏上によって容易に更迭されうるのだ。
「結城大尉の言うとおりだ。大臣はおそらく次長の肩を持つ」
あきらめ顔で、田代中佐は首を横に振る。だが、その後、目を細め、野心にあふれる表情を作った。
「漸号作戦の発動を抑えることは無理だろう。ただし、この作戦が失敗した場合、真崎次長を辞任に追い込むことは可能かもしれない。真崎次長を参謀本部から追放して前線の将帥を呼んでくれば今後我々としてもやりやすくなろう」