陸軍大臣
荒谷久輝陸軍大臣。陸軍大将であって、真崎顕治参謀次長の同期である。荒谷と真崎は盟友とも言われる間柄で、荒谷大臣真崎次長というラインができた時には荒谷体制と呼ばれ、陸軍内部でも期待が大きかったと言われる。
しかし、その直後に勃発した大戦が状況を一変した。陸軍参謀総長の辞任、内閣の動揺を経ても彼らはその座につきつづけることができたが、一つには陸軍省参謀本部の幹部を自分たちの息のかかったものにしたからであった。しかし、一方で、特に若手将校からは古い考えを持つ将軍だ、と批判され始めてきている。
それに対し、公然と反旗を翻したのが新しく参謀総長に就任した伏見宮音羽なのである。
その荒谷大臣が参謀総長の下を訪れていた。大臣と総長は軍政、軍令と所管するものは違うが、陸軍の両巨頭として君臨するべきものであった。大きな違いは、陸軍大臣は政府内閣の一員として内閣としての連帯責任も負っているのに対し、参謀総長は皇帝の統帥大権の独立の下で、政府内閣とは一線を画した存在であることである。だからこそ、参謀総長や海軍の軍令部総長に皇族軍人が就任し続けることができたのである。
「殿下、お願いがございまして、本日は参りました」
参謀総長執務室のすぐ隣にある、応接室で、荒谷は丁寧な物言いで音羽に相対した。
盟友である真崎が偉丈夫であり、いかめしいのに対し、荒谷は細身であった。カイゼル髭が印象的であるが、それは若いころに優男だと言われたのを気にした結果らしいと噂される人物である。
「どのようなものでしょうか」
小さな微笑みを絶やさない音羽はそれだけで単なる傀儡たりえないことを誇示していた。迎合の微笑みではなく、余裕の微笑みである。
真琴は、音羽の後ろに立ちながらも、胃が痛む気分になっているのを感じた。音羽と荒谷もそこまで仲が良いわけではない。しかし、表向き協調しているように見せないと、どちらかの辞任問題に発展するか、最悪陸軍が揺るぎかねない。戦時にそのようなことをやっている余裕はないので、お互いに腹に一物あっても表面上は友好的でなければならないのだ。
「真崎次長のことです。彼は優秀ですし、参謀本部のスタッフも優秀な参謀を集めています。特に現在は意志決定が迅速であることを要求される戦時であることを鑑みて、あまり無茶な要求をしないで頂きたく存じます」
「私は無茶な要求をしているつもりはありません。ただ、職務に励行しているだけです」
音羽はまっすぐと荒谷を見て答えた。
「殿下、我々は今戦争を戦っているのですよ。挙国一致の精神でこれにあたらねばなりません。しかし、殿下が行っていることは、失礼ながら、挙国一致どころか部内においても不和の種をまいているとしか思えませんな」
暗に、次長の言うことをちゃんと聞け、と荒谷は要求していた。
「不和ですか。参謀本部の最高責任者は私であり、参謀本部は私の意思の下で一元的に管理運用しています。そこに不和などあり得るわけがないのですが。陸軍省だってそうでしょう?」
音羽はあくまでも建て前を通すことで、荒谷の要求をかわした。確かに、建前において、参謀総長は参謀本部のトップであって、参謀総長の決定に部内は従わなければならない。それは事実だ。
「それよりも、大臣。私が憂慮しているのは挙国一致が真に実現できていないことです。戦争遂行のためには各種軍需産業には利潤よりも生産量を優先してもらわなければならず、民需産業も少ない資源で最大の効率を上げられるよう協力してもらわなければなりません。財界どころか私たちは同じ軍部である海軍とも満足な協力を得てはいないではないですか」
音羽の主張は戦争指導班の主張と同等であった。結局のところ、戦争は長期化している。その場合に大切なのは銃後の生産体制だ。戦前の貯蓄していた砲弾はとっくに尽き、新しく生産された砲弾でそれを補わなければならない。銃剣も、野砲も、あるいは船舶や車両に至るまで、消費するばかりでなく、生産しなければならないのである。
「海軍との協調はともかく、財界との問題は軍が行うことではございません。政府が行うことであります。そして、政府に連帯しております陸軍大臣といたしましては、政府は最大限の努力をしておりますと自信を持って申し上げられますゆえ、殿下におかれましてはご安心頂ければと思います」
これ以上の追及は参謀総長による陸軍大臣の不信任を表す。下手をすれば陸軍省と参謀本部の大げんかになりかねないし、その場合不利なのは参謀本部内をまとめきれていない音羽である。
「分かりました」
音羽は頷くことで、荒谷の言葉を受け入れたことを示した。