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野心

補足:参謀本部は作戦立案や戦争計画立案を主務とする第一部、情報分析を主務とする第二部、兵站の維持を主務とする第三部に分かれています。

 大戦勃発から一年、戦線に目立った動きはなく、せいぜいで数十キロメートルを取ったり取られたりしながら、消耗戦の様相を呈している。人類史上初めての世界大戦とも称される今次の戦争は音羽たちの豊葦原帝国が所属する海洋同盟と大陸協商による戦争であった。

 真琴も陸軍将校になった以上、その程度の知識はあったし、実際に敵地に赴いて戦争をやっていたわけだから、銃後の国民と比べて戦争の知識は十分にあった。しかし、気が狂いそうな敵の砲撃や、馬や人間の糞尿でむっとするほど臭う塹壕、ぐちゃぐちゃになった死体などについては良く知っていたが、一方で戦争の大局的なことは参謀本部所属になって初めて触れることになった。


「ああ、君が新しい副官なんだね、よろしく」


 副官に任じられたその日から真琴は様々な部署に着任のあいさつをしに回ったが、その中で最も印象に残っているのは参謀本部第一部作戦課戦争指導班長の三上卓郎中佐であった。

 物腰が柔らかく、顔つきも柔和であまり軍人らしからぬ印象を受ける。しかし陸士の席次が三位、陸大の席次が次席という俊才であって、国防政策全般を海軍と協力して担う戦争指導班長としては適任であった。


「はいっ、結城真琴少尉です」

「うん、元気が良くてよろしいね。それに可愛らしいお嬢さんだ」


 にこにこしながら、三上中佐は何度か頷く。


「君が浦東会戦の英雄というのもにわかに信じがたいけど、まぁ人はみかけによらないからね」

「英雄だなんて勿体ない言葉です。私はやるべきことをやっただけです」

「参謀本部には君の連隊所属の各中隊からの報告書も上がってきてるけど絶賛していたよ。敵の砲撃で壊滅した連隊本部を連隊本部付の下士官一名と一緒に懸命に回してついに攻勢を防ぎきったんだからね。普通の人間じゃできない」

「そうなのでしょうか」

「そうだよ。我々は組織で動く人間だからね。組織が壊滅してなお機能を保つのは尋常じゃない。それも、君は経験が浅い少尉なのだからね」


 経験が浅い少尉。それが真琴の全てであった。彼女にはそれしかない。それで、これから陸軍の俊英が集まる参謀本部で生き抜かなければならないのである。


「君の場合経験が浅いことは悪いことじゃない。けど、それを埋める努力は虚心坦懐に行うべきだよ」

「はっ、ご忠告感謝いたします」

「君が殿下に忠実な副官でいる限り、僕らは味方だから、何かあったら遠慮なく頼ってくれ」

「ありがとうございます!」


 三上は、そこで、自分の机の上に置いてある書類に目を遣った。


「ああそうだ、ついでにこの書類を総長宮殿下に渡しておいてくれないかい?次長からも行くと思うんだけど、その前に目を通しておいてもらいたい」

「了解しました。しかし、なぜ次長閣下から来るものをわざわざ?」

「ああ、そうか、君は知らないのか。戦争指導班は参謀次長直属の部署なのだけどね。次長と総長の仲が険悪なのは割合有名な話でね。だから総長宮殿下にもほぼ同じタイミングで目を通しておいてもらわないとあとで面倒なんだよ」


 参謀本部員たちが気を使うほど音羽と真崎の仲が悪いのか、と真琴は内心暗澹としていた。総長副官という立場はその対立の矢面に立つことが十分想像できた。大変な役職を引き受けてしまったものである。

 とはいえ、彼女が陸軍に入った一番の理由である音羽に会うということは無事達成され、しかも音羽と一緒に働くことができるのだから、これ以上の僥倖はないとも言える。まさか派閥対立に巻き込まれて命を取られるわけでもないし、とりあえずはその僥倖を喜んでいた方が良いのだろう。


 参謀本部各部各課各班ごとに順々に挨拶をして回った真琴は、へとへとになりながら総長執務室に入ってすぐのところにある自分の席に座った。そこで回ったついでに総長に見せてこいと渡された書類を整理して、音羽の元へ持っていく。


「おかえりー」

「ただいま」


 音羽は分厚い書類から顔を上げた。


「うわ、書類が増えてる」

「行ったらあちこちから書類をもらっちゃったから仕方ない」

「どんな書類?」

「戦争指導班から高度国防国家体制樹立に向けた鉄鋼増産体制について、第二部の同盟国担当各班から同盟国の軍備情報について、謀略課から泰華共和国の袁軍閥への謀略の経過報告、第三部長から陸軍輸送船舶の逼迫についての報告」

「戦争指導班のと同盟国の軍備のやつは頂戴。謀略課のと第三部長からのはそっちで読んであとで内容をざっと教えて」

「ああ、それなら今教えられるよ」


 言われた資料を手渡しながら、真琴はあっけらかんとして答えた。


「え?もう読んだの?」

「うん。移動中の廊下で何となく目を通したんだよ」

「早くない?」

「あれ?知らなかったっけ?私速読得意なの」

「……なるほど、陸士五位で卒業するわけだ」


 音羽は感心したように頷くと、視線で報告するように求めた。


「謀略課からの報告では袁軍閥への謀略は完全に失敗。袁はやや乗り気だったみたいだけど側近が止めたみたい。やはり泰華共和国ではナショナリズムが勃興しており、各有力者もそれに抗うことは難しいだろうから今後の謀略は難しいだろう、という結論」

「なるほどね。軍閥割拠してバラバラだった泰華も今次大戦をきっかけに国民国家になろうとしてるのか……」


 音羽はやや考え込むように腕を組んだ。

 泰華共和国は豊葦原帝国の隣国であって、過去にも戦火を交えたことがある。三十年ほどまえに帝政が崩壊して以降、しばらく群雄割拠の状態が続いていたが、共和政府がどうにか地方の有力者を押さえつけ、今後どう転ぶか分からないといった状況下で今次大戦が勃発したのである。


「……次の第三部からのは?」

「敵潜水艦に撃沈された陸軍船舶が先月は四万トンを超えたらしく、このままでは大陸への物資の補給が滞るという報告。多分明日か明後日くらいには大本営で海軍と内閣に追加の船腹を要求するための決裁を要求してくると思う」

「海上輸送は我が軍のみならず我が国の生命線だからね……」


 海上輸送路が戦争や経済の生命線である海洋同盟にとって、大陸協商諸国が跋扈させる通商破壊のための潜水艦は頭痛のタネであった。それは豊葦原帝国においても例外でなく、特に陸軍は海軍に対して再三海上護衛の強化を要請している。しかし、海軍は元々水上艦どうしの決戦を想定して構成されていることや、そもそも潜航中の潜水艦に対する有効な攻撃方法がまだ確立していないため、潜水艦の無道な跋扈を許すばかりであった。


「ところで、部内を回ってどう思った?」


 音羽はさりげなさを装って尋ねる。


「そうだね、班長級以下の佐官や尉官の人たちは割と親身に話をしてくれたな。けど、課長級以上の人たちはそこまでって感じ」


 戦争指導班長の三上中佐を始め、一定以下の年次の職員は温かみのある言葉を投げかけてくれたが、一方で課長級や部長級のほとんどの者は事務的に挨拶を交わしただけであった。中には、露骨に値踏みをするかのような者もいて、真琴としては不快な感情を抱いたものである。


「そうね。今参謀本部は総長派と次長派に分かれているの。大体課長級以上の者が次長派で、それより下の者が総長派。まこちゃんは当然ながら私たちの味方だと思われているからそういう対応になるんだと思うよ」

「世代で派閥が分かれるんだね」

「古い戦争を引きずっている人と新しい戦争の可能性に気づいている人の違いだからね」


 鉄の結束を誇ると言われる海軍と比べて、陸軍は派閥ができやすい。一つには絶対的な将校の数の違いもあるだろうし、もう一つには海軍は質を重視した将校の採用を行っており、海軍兵学校卒業生であれば通常大佐までは務められるのに対して、陸軍では早ければ大尉あたりで予備役に編入されてしまう風土があるからでもあるだろう。


 本来、皇族軍人でありしかも参謀総長という地位についている音羽は派閥対立を収拾する方向で動くべきなのだが、彼女は故意にそれを煽っている側面があった。参謀次長への不審を敢えて口にするのもその一環である。


「今次大戦は既に新しい戦争へと移行していると考えるべきなのよ。掘削技術の発達による強固な塹壕や機関銃の登場によって陣地防衛の力は十年前と比べて飛躍的に増している。それは鉄道を用いた神速に基づく用兵を超えるものよ。従って、戦争は長期化するし現にしている。なのに、参謀次長以下頭の古い奴らは戦場しか見てない」


 話しながら、音羽は段々いらいらしてきたようだ。右手の人差し指がリズミカルに執務机を叩いており、しかもその音は大きくなってくる。


「既に戦争は戦場のみで戦われるものではなくなった。それを最も身近で感じている我々参謀本部こそ陸軍省や政府に働きかけて長期戦を可能とする国づくりを行わなくちゃいけないのに、次長は口を開けば至忠だの気概だの意志だのとしか言わないし、用兵としては敵の分断と包囲殲滅にしか興味がない。せめて陸軍大臣が話が分かる人間ならいいのだけど、真崎と同様古い思考回路しか持っていないわ」

「……戦場に出て思ったのは、あそこで必要なのはむしろ忍耐だよ。敵の砲撃が始まれば長ければ一週間ほど続くし、その間狭い塹壕で息を潜めて敵の突撃を警戒していなければならない。その間に気が狂っちゃう兵士もいるし、どんな兵士も憔悴する。そうじゃなくても、たった一度の突撃のために何週間、何カ月も塹壕で暮らさなきゃいけないわけだから、ね」


 戦争というとただひたすら銃を撃ち合い、砲撃を交わしているイメージがあるが、少なくとも真琴が体験したような戦争は違った。塹壕で敵の動きがないか神経をとがらせたり、あるいは上空に偵察機がないか目を光らせたり、或いは敵陣地への攻撃のために塹壕を敵陣地の方に延長させたり、といった地味で単調で神経や体力を使うようなことが主だった。兵士たちの間では銃よりもスコップの方が役に立つと冗談が交わされるくらいである。それは、もちろん穴を掘るのにスコップを使うから、ということもあるが、狭くて足場の悪い塹壕において、銃を構えている余裕があったらスコップで殴り殺した方が早いから、という意味合いもあると知った時に、ぞっとしたことを覚えている。


 真琴が陸軍士官学校で学んだ戦争はあくまでも平野での会戦であった。もしくは要塞の攻防の話であって、狭くて汚くて泥と糞尿とひょっとしたら血でぐちゃぐちゃになったような、そんな戦場は教えてくれなかった。


「前線は大変だね……。私はまだ戦争勃発からそんなにしないで参謀本部に呼び戻されたから、視察で行く時とかしか分からないのだけど」


 参謀本部や高級将校の認識と戦争の現状が乖離し始めている、それが音羽の危惧であった。ひいては、この国全体が戦争の現状を知らずに、戦争の計画を立てているのではないか、という危機感があった。


「私はね、まこちゃん。できれば参謀本部の人間を前線と取り代えたいんだよね。次長以下役職者を前線に転出させて代わりに前線の将校を中央に持ってくるの。班長以下の者も一部を除いてそれをやるつもり」


 音羽は静かに語りかける。参謀次長に聞かれればますます仲が険悪になるであろうことを、彼女は淡々と述べているのであった。そして、それだけに、彼女の決意のほどがうかがえた。


「古い革袋でも新しい酒を注げば良い。新しい戦争には新しい人材が必要なの。どうにかして陸軍省を掌握するか人事権を握って参謀本部の刷新をはかりたい」


 そう語る音羽の目は、皇族軍人としては珍しいほどに野心にあふれていた。もともと一定以上の栄達と、一方で積極的に何かをやることは敬遠される皇族軍人が野心をあらわにすることは稀である。しかし、音羽は皇族としては規格外だった。もともと庶民の暮らしをしていたのが引き取られ、更には皇族としてもどちらかというと除け者にされている立場だ。そんな彼女が野心を抱くのも当然なのかもしれない。


「今のままじゃできないの?」

「荒谷大臣も次長も私の言った人物を参謀本部に入れてくれることはほぼないわ。少なくとも佐官以上はないでしょうね。だから、仮に誰か追い出したとしても、それが欠員になるだけで私の思い通りの人物が補充されるわけがない。現に副官も補充されなかったしね」


 彼女が思い描くのは伝統的な陸軍の破壊だ。伝統的には参謀総長は下の者に全てを任せ、自信は総長として君臨するだけの存在だった。皇族軍人が就任する地位であったから当然である。能動的に動いて責任を負うわけにはいかないのだ。だが、音羽がやろうとしていることは彼女自身が能動的に動くことで参謀本部を変えようということだった。

 陸軍の中央のことはあまりよく分からない真琴でさえ、それはまずいことだと分かる。皇族軍人が仮に何か大きな失敗をして権威を失墜させれば、それは皇帝の権威の失墜につながるおそれがある。それは帝政をしく国にとって、致命的であった。


「おとちゃん……」


 自然と、真琴は親友の名前を呼んでいた。幼いころと比べて、見識と、知見と、そして何より責任が増えてしまった友人を。


「なに?」

「……おとちゃんは何を目指すの?」

「決まってるでしょ」


 音羽は穏やかに微笑んだ。


「この国の勝利」


 真琴には、その微笑みは、真意を隠す仮面に見えた。



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