はじまり
光孝十八年七月、そろそろ寝苦しくなってくる季節になり、朝起きた時には寝汗をかいていて不快なことも多い。音羽もそれは例外ではなかった。
とはいえ、単に暑かっただけではない、彼女はどうも幼い時のことを思い出すと居心地が悪くなる。記憶は美化されるから、というのもあるだろうが、どうしても、幼いころはとても幸せで、日々が七色に輝いていた気がしたのだ。
起き上がると、寝巻の白襦袢から着替える。女官たちは着替えを自分でやらなくても自分たちがお世話する、と言っていたが、小学生の頃までずっと庶民の暮らしをしていた彼女からすると、うっとうしいだけだった。しかも、この家に引き取られてから、今度は全寮制の学校に通っていたものだから、いちいち人の手を煩わせるような、そんな面倒なことをする習慣はなかった。
「おはようございます、殿下」
部屋から出ると、部屋の前に控えていた年老いた女官が深々と頭を下げる。
「よく眠れましたか」
「最近暑くなってるから」
「左様でございますか。布団を取り代えておきます。朝食は既にできており、父君殿下もいらっしゃります」
「わかった、ありがとう、津軽」
津軽安喜子は音羽の私生活における側近であり、彼女の身の回りのことは全て津軽が取り仕切っている。もともと華族の出身で、他の華族に嫁いでいたが、夫君が若くして亡くなったこともあり、伏見宮家の女官として働いていた。
縁側を通りながら、ふと庭園に目をやる。苔むすというのがぴったりくるような、深い緑の和風庭園で、庭師もあまり手を入れていないらしい。どうやら、庭園は一度用意してやればあとは自然に任せるのが美しいらしく、庭師はそれを少し手伝うだけだ、と言っていたが、それが本当なのかどうかは彼女には分からなかった。
居間に辿りつくと、既に胡坐をかいて座っている人間がいた。音羽の父親、伏見宮行成親王である。五十を少し超えたくらいの人物で、豊かに蓄えた顎鬚が印象的である。
「おはようございます」
居間に入ったとき、音羽は父親に一礼をする。もともと庶民の暮らしをしていた彼女にとって、あまり慣れた動作ではなかったが、引き取られた直後の厳しいしつけによって、とにもかくにも彼女の身分に相応しい挙措を手に入れることができた。
「ああ、おはよう。よく眠れたかね」
行成は鷹揚に問う。
「やや暑くて」
「ああ、それは難儀だね」
音羽は父親の真正面に正座した。
伏見宮家は宮家として長い歴史を誇る。伝統と格式のある家であり、各宮家の中では最も権威があると言っても良い。しかし、先代の行弘王の時代に断絶し、当時の皇帝の二男であった行成親王が継承した。更に、行成の嫡流の子供たちは死産したり夭逝したりと成人に達した者がいなかったため、今では一部の口さがない華族たちは呪われた宮家なのではないかと声を潜めて話している。
音羽が座ると、音もなく女官たちが二人の朝食を運んでくる。白米に味噌汁、塩鮭、お浸しといういつもとあまり代わり映えのしない献立である。
「いただきます」
嫡流の子供が全て薨去した伏見宮家は結局、昨年、皇帝の特旨を以って伏見宮音羽内親王を後継者に指名した。本来は女子が継承できるものではないのだが、行成がぜひとも自分の子供に後を継がせたいと願い出たのと、彼女の特殊な事情がそれを可能にした。
「……そういえば、最近陸はどうかね」
「あまり芳しくありません、父上。次長も勝手ばかりしますし」
「まるで次長が全て悪いみたいな言い草だな」
ははは、と行成は笑う。
「しかし、奴は優秀だと聞いているぞ」
「なまじっか優秀でも頭が固いことが問題です。二十年前の成功体験を未だにひきずられも困ります」
「とはいえ、こう言われると癪だろうが、お前は何もしないことを求められているのだ。気に入らぬとはいえそういう者も使えねばいけないのだよ」
「心得ております」
音羽は味噌汁をすすり、ほぅ、とため息をつく。この温かい汁は心を落ち着かせてくれる。
「とはいえ、この前の、なんだ、浦東会戦ではうまい具合に戦争が進んだとも新聞に書いてあったぞ」
「あれは負け戦です、父上。海の方には詳しい情報が回ってないのですか」
「私のところには来てないな」
「あれは大本営も英雄を生み出すことで敗戦の事実を糊塗したのです。陣地はどうにか死守したものの、損害という面では敗戦といって差し支えありません」
「ああ、英雄か。新聞に載っていたな。陸士卒業直後の少尉だったか」
「ええ。ちなみに、本日その少尉に会います」
「連隊本部が壊滅してもどうにか各中隊をまとめて陣地を固守したらしいな」
「ええ、連隊旗手ですから、一応連隊本部の将校です」
その少尉の奮戦がなければ陣地を明け渡すことになっていたとも言われるくらいで、会戦が終わるや否や帝都に呼び出され、叙勲され、今日は戦況報告のために音羽を訪れることになっていた。
「海はどうなのですか、父上」
彼女の元にはあまり海の状況が入ってこないから、その意味で行成からの情報は貴重であった。
「商船の被害がひどい。警備に力を入れるらしいな」
「なるほど、商船は経済の生命線ですからね。大陸に物資を運ぶにも商船が必要ですし」
父娘の会話としてはあまりに武骨な会話をしながら、二人は箸を進めていた。
「……さて、それでは父上、私はそろそろ参ろうかと思います」
音羽は朝食を食べ終わると、おもむろに立ちあがった。
「そうか、私は午後に行けば良いからな」
「それでは」
音羽は父親に一礼し、行成は鷹揚に頷く。
居間を出ると、津軽が控えており、軍刀と軍帽を差しだした。彼女は刀を佩き軍帽を目深にかぶると、玄関で分厚いブーツを履いた。
玄関の外には黒塗りの自動車が既に待っていた。舎人の一人がドアを恭しく開けて、音羽は滑り込むように自動車に乗った。
「参謀本部」
音羽は運転手に短くそう伝える。
「かしこまりました」
滑るように車は動き出した。
豊葦原帝国陸軍大将、参謀総長、伏見宮音羽内親王。
豊葦原帝国海軍大将、軍事参議官、伏見宮行成親王の娘。
それが彼女の持っている全てであった。