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酒場の密談

 真琴が里緒に呼び出されて大衆酒場に向かったのは作戦発動からちょうど三週間後であった。下級将校も集う酒場であり、カーキ色の軍服姿でもあまり目立つことはなかった。

 毎週定例の裏菊会の帰りに、手短にその旨を告げられ、日程を決めたのである。伏見宮派とでも言うべき派閥を形成している真琴からすれば、会いたいと言われれば喜んで、となるのが当然であった。


「こんな誰がいるか分からないところで大丈夫なんですか?」

「一介の大尉が二人で会うのに料亭みたいなところを利用している方が不審がられる。注目される方がこの場合問題だ」


 里緒の言葉に納得して、真琴は芋焼酎を頼む。すでに食べ物の方は、里緒がおでんを頼んでいた。


「こうして貴様と二人で話すのは初めてだな」


 焼酎で乾杯した後、里緒はそう切り出した。


「そうですね。多賀谷大尉殿とはいちどゆっくりお話ししたかったので嬉しいです」


 掛け値なしの言葉を真琴は言う。真琴が知らなかった時代の音羽を知る、貴重な人物でもあるし、音羽が掛け値なしに信頼する将校という意味でも、真琴にとっては特別である。


「嬉しいことを言ってくれるな」


 里緒は静かに焼酎を口に含んだ。


「……結城大尉は殿下の御友人で、公人としては殿下に忠誠を誓っている、そういう認識で良いのだよな?」


 里緒はゆっくりと、考えながら言葉を紡ぐ。それに対し、真琴は表情を引き締めて、軽く頷いた。


「私は殿下――おとちゃんの幼馴染みです。そして、彼女に会うために陸軍に入営しました。たとえ茨の道であったとしても、殿下のために働く覚悟はできています」


 真琴の硬い表情をじっと里緒は見つめていたが、やがて気を抜くように、長々と息を吐き出した。


「いや、すまない。殿下は敵が多い。研究会の者にさえ全幅の信頼を置いていない状況だ。どうしても、疑ってかかってしまう」

「いえ、お気になさらずに」


 確かに、真琴が参謀本部に入ってきた時機も悪かった。音羽と真崎の暗闘が始まっている中で、参謀本部出仕が認められたのである。本当に真琴が真崎や荒谷の息のかかった者ではないと誰が断言できるだろうか。


「あまり好きではないのだがな、疑うという行為は。しかし――」


 里緒は軽く瞼を閉じた。


「あの方のためであれば、どんなことでもやる」


 その口調は頑としており、そして、重い決意が見えて取れた。


「大尉殿にとって、殿下はどのような方なのですか」

「陸士にいた時にはあの方はかなりな努力家だったよ。今もそれは変わらんようだがな。努力に勝る天才なし、と言ってはばからないお方であったし、その言葉を彼女は裏切らなかった」


 懐かしそうに、里緒は目を細める。


「皇族という立場にありながら昼夜努力を重ねていたのはあの方の置かれた微妙な立場――宮家筆頭の伏見宮の庶子であり、しかもつい最近まで一介の庶民であったことに起因していることはすぐに分かった。しかも伏見宮行成親王殿下の唯一の生存している子供ときている。彼女が選べる道は自身が宮家を相続するか、宮家を相続する他の皇族男子と結婚するということだけだ。そして、前者にはかなりな困難がつきまとうこともな」


 幼いころに庶民の暮らしをしていた音羽には、おそらく結婚といえば恋愛結婚という固定観念があったであろうし、それにあこがれもしただろう。その記憶が、自らが伏見宮家を相続するという選択をさせたのだろうか。


「あの方は気を張っていたのだろう。今になってはそう思うよ。様々な交友関係を持ったが、しかし、決して心を開くことはなかったんだろうな」


 他の皇族を黙らせ、皇帝から宮家相続の許可をもぎとるためには、軍人となるのが最低条件であり、おそらくはその中でも枢要な地位につくだけの能力が求められることは明らかであった。音羽が男子であれば無条件に相続できたであろうが、近代以降に、女子が宮家を相続した例はない。


「私にとっては一種の憧れだったよ。皇族でありながら、庶民くささを感じさせる。私なんかもな、父上の勲功によって華族に列せられたような、正直庶民とあまり変わらない一族の出なんだ。だから、そんな殿下に魅力を感じたんだ」


 真琴は、里緒の言葉をかみしめるように聞いていた。音羽や里緒の想いを、できるだけ受け取れるように、彼女は懸命に聞いていた。


「そんな殿下がな、陸士の卒業式の日に、初めて笑いかけてくれたんだ。陸士在籍中、初めて見た笑みだった。そして、首席になったことをありがたくも言祝いでもらったんだ」


 真琴の記憶の中の音羽は、よく笑っている。しかし、確かに、彼女以外と対峙する時、音羽は儀礼的に笑みを浮かべることはあるが、心の底から笑うのを見たことがなかった。


「その時に腹を決めたな。私の生命をこの方に捧げようってね」


 たった一言がその人の命運を変えてしまうことがあるのだ。里緒はまさにそれで、そしてきっと彼女はそれで幸せなのだろう。


「殿下ってすごいんだなぁって、改めて思いました」


 確かに真琴の目の前でも、音羽は勤勉によく働く。しかし、陸軍士官学校の首席となるような人が驚嘆するくらい努力家であるとまでは思っていなかった。


「あのお方はすごいさ。現に、ただの傀儡になりさがらずに参謀総長の重責を立派に努めておいでだ。そのことは、貴様が最もよく知っているだろう」

「……はい!」


 彼女は自分の考えに基づいて職責を果たそうとしている。だからこそ、次長と対立してしまうのだ。


「……殿下がな、前に革命の可能性を懸念していたんだ」


 急に深刻そうな顔になって、声を低めた里緒に、否が応でも真琴は本題に入ったのだと察した。そして、里緒の言葉に対して、驚きを隠し得なかった。音羽の側近として働いてきているが、革命の可能性どころかその単語さえ、聞いたことがない。


「それで、独自に調査していたのだがな、帝都駐在の部隊の兵士でさえ厭戦気分があることや、庶民の暮らしぶりからして、どうも笑いごとでは済まないかもしれない」


 真琴は緊張しながら、黙って聞いていた。

 革命。古来より王朝交代の意味合いで使われていたが、現在では体制変革の意味合いで広く受容される言葉である。


「無産政党の動きが怪しい。活発ではないものの、下部細胞の動きまでは把握できんし、何より物資の欠乏が目に見えてき始めている。輸送力の軽減と、軍事輸送の増大がその原因だ。これが積み重なれば……」


 里緒の言葉は、先の音羽の漸号作戦の泥沼化の予言と合わせて、真琴の心にうすら寒いものを与えるのには十分だった。


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