懸念
音羽はその晩、一人の客人を邸に呼んでいた。
多賀谷里緒大尉。音羽の陸士同期の首席であり、現在は帝都に駐在する第一師団の第六中隊長である。
里緒は音羽の盟友とでも言うべき存在であった。かつても音羽にとっては帝国陸軍広しといっても、唯一全幅の信頼を置ける相手であって、現在であっても信頼の度合いは変わっていない。
「私が帝都に赴任してまだ長くはありませんが、既に兵士たちにも不穏な動きが見えます」
里緒は生真面目な表情の中に、若干の焦りの色を浮かべていた。
「不穏な動き、ですか」
「はい。帝都を始め都市部で物資が不足しておることが大きいかと思いますが、どうも社会主義者が何やら吹き込んでいるようです」
単純で二元的な見方をした場合、都市は消費する空間で農村は生産する空間である。そのため、戦争に輸送能力の大部分を傾けている現状において、流通の遮断による物資の欠乏は初めに都市部において現れる。もちろん、全国が一つの経済圏として成立している以上、それは遅かれ早かれ農村部においても現れ始めるであろう。
「想定より早いですね。あと半年から一年は大丈夫かと思っていましたが」
「数度にわたる無謀な攻勢がより物資を費消させたのが原因かと思われます」
里緒は、目の前にいる参謀総長の責任を問うような言葉を敢えて放言した。一つには、里緒には音羽がそのような作戦行動に対してささやかながらも反抗しただろうと推測していたからであって、もう一つには、音羽がその程度で気分を害したりしないことを知っていたからであった。
「状況の度合いは?」
「まだ大丈夫です。不穏な動きといっても不平不満がたまっていたりするくらいですから。しかし、民衆の方はそうでもないかもしれません」
開戦直後の熱病のような興奮から冷めた国民は、戦争が強いる負担に目を向けなければならなかった。増税や徴兵はもちろん、物資が優先的に戦地に回され費消されることによる物資の欠乏や、兵隊に人手をたくさん取られることによる労働力不足など、枚挙に暇がない。
それは当然、国民の不満につながる。いくら戦争を行っていると言っても負担できる重さには限度があるのだ。まして、現在の戦争は彼らが戦前に想定していたものよりもはるかに長く、そして大きなものだった。
「……とはいえ、兵士たちは前線の状況に過敏に反応します。次に大きな失敗がなされれば、それが兵士たちの心情を動揺させるかもしれません」
心なしか、里緒は声を潜めていた。これは危険で、目を背けたい予言だった。
「状況はそこまで深刻でしたか」
漸号作戦の発動を控える参謀総長宮殿下は頭を抱えていた。漸号作戦などは、彼女から見れば、大義など何もない無名の師であって、参謀本部の人間が無為徒食をしないための計画でしかない。彼女からすれば、今やるべきことは突出部の放棄による戦線の整理と予備戦力の蓄積、それに効率的な塹壕の突破方法を考案するための思案であって、軍事的冒険のための攻勢ではないのである。
「……大都という響きは確かに、甘美に響きます。それは泰華第二の都市であり北部の経済の中心であるのももちろんのことながら、大都を攻略すれば確かに敵軍の分断に成功するわけですから」
「大都の重要性は知っています。しかし、仮に攻略するのだとしても、それは完全に奇襲でなければ無残な塹壕戦に陥ることは自明の理です」
「……課長級以上の者が焦るのには殿下がいること、そして殿下が自分たちの部下とむしろ意見を同じくしていることがあるかと思います。それが自分たちの立場を危うくするものだと分かっているからこそ、早く手柄を立てたいのでしょう」
里緒の指摘に、音羽は驚いたように目を丸くするのであった。もともとは権力とは無縁の庶民として育ち、その後は権力と不可分の皇族として育てられた。そして、苦労や努力なくして参謀総長たる顕職に就任した彼女にとって、里緒の指摘するような思考方法は奇異にみえたのである。
つまり、音羽からすれば失敗するために立てるような攻勢計画というものの原因は、自身にも求められるのである。
「……私と里緒、それに真琴の三人で陸軍の実権を握れればどんなに楽でしょうかね」
音羽の言葉は嘆きにも近い。彼女は本気でそう思っているのだった。
「私よりも田代中佐など、もっとふさわしい将校がいるでしょう」
里緒の言葉に、音羽は黙って首を横に振った。
現在音羽と田代中佐などの中堅や若手の幕僚が協力している最大の理由は課長級以上の陸軍省・参謀本部の幹部たちという共通の敵がいるからである。そのことを音羽はきちんと了解しており、無条件に彼らと協調できるなどと甘いことは音羽も考えていなかった。
一方で、里緒は盟友であり、真琴は幼馴染みである。音羽に対して最も近しい存在であり、意見を述べやすい存在のはずである。一方で、音羽からしても裏表なく信頼できる相手であった。
だが、現実には里緒も真琴も年齢に比して出世しているとはいえ大尉であり、革命でも起きない限り、音羽が手足として頼みにできるようになるには時間がかかることは明白であった。
「……里緒、革命が起きることってあるでしょうか?」
ふと、思いついたように音羽は問う。
「……何か気になるところが?」
「いえ、ないのだけど。なんとなく気になったので」
里緒はあごに手を当ててしばらく思案していた。
「……そうですね。戦争による物資の欠乏が飢餓への恐怖につながった場合にはあり得るかもしれません」
「なるほど」
海洋国家である豊葦原帝国は、しかし、その輸送力の過半を軍事物資や兵員の輸送、軍需資源の輸送に使っていた。その上、敵の潜水艦の跳梁は輸送力に対して暗い影を落としている。
これはあるいは――そこまで思って、音羽は怖くなって考えるのをやめた。