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嘘と愛のかけら  作者: 長谷川るり
7/24

第7話 片側通行

7.片側通行


 あの日以来 淳哉は身の回りで見た景色を写メで度々送ってくる様になった。ある時は道端の小さな草花、又ある時は 秋の空、そして帰り道に見えた月など。それを見る度に有紗は、まるで淳哉の横を歩いて 同じ景色を見ている様な錯覚に陥るのだった。


「そんな信じたいなら、私がどんな人か見てきてあげるよ」

仁美が今日も 有紗とお昼を共にしながら言った。

「え~」

そう言われると、躊躇してしまう。

「じゃ、一緒に行く?」

「う~ん・・・」


 西武線の武蔵関駅に二人は降り立つ。初めての土地にも関わらず、物怖じしない仁美が、有紗の二歩も三歩も先を歩く。短大の頃から仁美はそうだ。人見知りもせず、新しい環境にも 物怖じせず すぐに馴染める。そして一度決めた事は、即実行、迷いなし。その頃から有紗にとっては 頼れる存在だ。同級生なのに、何故かいつも姉と妹の様な力関係だ。

「まずはお店から探さなくちゃいけないのよね」

『駅前』と言っていた淳哉の情報しかない。不安気について行く有紗とは裏腹に、駅前のバーと言われるお店は 北口南口合わせて一軒ずつしかなかった。しかもその内一軒は 本日定休日だ。

「な~んだ。もっと探すのに手間取るかと思って覚悟してきたのに、肩透かしだわ」

仁美は有紗とは正反対の 逆境に燃えるタイプだ。

「ここに居なきゃ、また別の日に出直しだね」

「あ、もうこのお店じゃないってイメージしちゃってるんでしょ?」

まるで心の中を見透かされた様に バツの悪い有紗は、下を向いて目を逸らした。しかし仁美は そんな有紗の手を引いて、仁王立ちになる。

「よし、戦闘開始!」


 仁美の後に続いて入った“BARノスタルジック”の店内は、カウンター席が10席程と、立って飲める丸いテーブルが三つある そう大きくないショットバーだった。まだ早い時間のせいか、店内に客は誰も居なかった。

 髭を生やして色黒の中年のバーテンが、低く良い声で二人を出迎える。

「いらっしゃいませ」

奥から二つ空けた席に、仁美は腰掛ける。キョロキョロしている有紗に比べ、仁美は身のこなしや目線 全てが自然だ。

「何になさいますか?」

低音ボイスが尋ねる。

「う~ん、何にしようかな」

と仁美が考えている間、有紗は目の前のバーテンをじーっと見ていた。これが広瀬淳哉なのか・・・到底26歳には見えないが、それだって本当かは分からない。サッカーの長友選手似かと聞かれたら・・・色黒な所は合っているかもしれないが、似ているという程ではない。でもそれだって、真偽は分からないのだ。

 仁美がギネスビールを二つ注文し、目の前からバーテンが離れた隙に、仁美は有紗の耳元で囁く。

「声、どう?同じ?」

声・・・違う様に思う。しかし、自信はない。声だけ聞いていた時と、顔があって聞こえてくる声とでは 印象が全く違う。

「お待たせしました」

その声を、目を瞑って聞いてみる。・・・違う気がする。こんなダンディな声ではなかった、と、思う。

「違うと・・・思う」

するとバーテンがビールグラスを出した手を止めた。

「ギネスビールお二つではなかったですか?」

「あっ、いやいや 合ってます。すみません」

仁美に返事をしたタイミングが悪すぎて、身を縮める有紗。

「どうぞ、ごゆっくり」

そして軽く会釈をして その場から離れて行こうとする そのバーテンを、仁美の会話が引き止めた。

「ここのお店は、お一人でされてるんですか?」

「いえいえ。通常二人でやってます」

「そうなんですか・・・。じゃ今日は もう一人の方は・・・」

仁美が店内を軽く見回す素振りをする。

「今ちょっと席を外してまして、間もなく戻ると思います」

有紗の胸がドキンと跳ねる音と同時に、鞄の中で携帯が震える。こっそり内容を確認すると、淳哉からの写メが送られてきていた。

『今店の買い物で外 出てるんだけど、めっちゃ細い三日月が見える。綺麗だから、見られる様だったら見てみて』

その文面をテーブルの下で仁美に見せる。すると仁美は自分の携帯を取り出し、有紗にメールを送ってよこした。

『電話してるふりして、外で月見てきなよ』

こういった演技のまるで下手な有紗は、ドキドキしながら席を立った。電話を耳に当てながら店のドアを出る。そして道の反対側へ渡ろうと車の切れ目を見計らっていると、その先にベストに蝶ネクタイ姿の男が一人、空に向かって携帯をかざしている。かざしている先に視線をやると、そこには淳哉の言う通り 細い細い三日月が輝いていた。有紗は耳に電話を当てたまま、身動きが取れず立ち尽くす。26歳、サッカー日本代表の長友選手似で少し小柄、眼鏡をかけている男が携帯の反対の手にぶら下げているのは買い物袋だった。広瀬淳哉・・・彼がそうなのか・・・。有紗の想像していた淳哉とは少し違っていたが、彼から今まで聞いてきた情報が正しいとすれば、きっと目の前で月を撮っている彼が“彼”なのだろう。有紗が固まっている間に、道を横切り こちらに渡ってくると、店の扉の前で電話を耳に当てた有紗に軽く会釈をして、淳哉は裏へと入って行った。暫く心臓が止まっていたのか、大きく脈打っていたのか記憶がない。ふと我に返って耳から電話を外して 店内に戻る。自分の隣の席に腰を下ろす有紗の様子を見て、仁美が声を掛ける。

「大丈夫?」

「・・・いたかも」

「え?!」

すると奥からバーテンが出てくる。

「いらっしゃいませ。良かったら、こちらどうぞ」

淳哉が出てきてからひたすら俯いている有紗と仁美の前に、ピスタチオが出される。

「ギネスビールの苦みと、ピスタチオが合うんですよね。僕のお薦めです」

「へぇ」

そうすかさず返事を返すのは、仁美だった。言われた通りにピスタチオを口に放り込み、すぐにビールを飲む。

「あっ、本当だ。分かる。合う合う」

「気に入って頂けて、良かったです」

そんな二人の会話を俯き気味に聞きながら、有紗は 電話で聞いた淳哉の声の記憶とを重ねていた。

「うちのお店、初めてですよね?」

淳哉が尋ねる。

「え、凄い。わかるんですか?もしかして来たお客さんの顔、皆覚えてるとか?」

俯いていた有紗の穏やかだった呼吸が一瞬止まる。

「皆って訳じゃないですけど、大体は・・・覚えてます。それにうちは、常連さんが殆どなんで」

「へぇ。・・・ところでお兄さん、おいくつですか?もうベテランみたいだけど・・・」

「26です」

その途端、有紗の心臓が反応する。

「高校卒業してからずっとここで働かせてもらってるんで」

有紗の胸が長い事、ぎゅーっと縮まっている。

「お二人は・・・会社の同僚とか・・・?」

「あ・・・」

仁美はちらっと有紗の方を見てから続けた。

「短大時代からの友人です」

有紗が一向に話に加わらない事で、淳哉は話題を変えた。

「今日はまたどうして、ここに入ってみようって思われたんですか?」

「今日は居酒屋とかじゃなくて、静かに飲みたいねって話してて。そしたら、丁度駅前に感じの良さそうなバーがあって、入ってみました」

「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。お二人の邪魔しちゃいましたね。ごゆっくりどうぞ」

軽く一礼して立ち去ろうとする淳哉に、仁美が待ったをかけた。

「いえ、いいんです。別に話があった訳でもないし」

そして仁美は残りのビールを飲み干した。

「何かお薦めの、頂けますか?」

「お薦め・・・。ジンとかウォッカとか日本酒とか・・・何がお好きですか?」

一通り仁美の好みを聞いてから 淳哉はその場から一旦離れ、カクテルの準備を始める。その姿をこっそり見る有紗が仁美の耳元で囁く。

「どう?」

「なかなか・・・でもまだまだ・・・」

オリジナルカクテルを仁美の前に差し出す淳哉。

「お待たせしました」

「いただきます」

一口味を見て、にっこりと顔を上げた。

「美味しい」

そしてもう一口飲んで、また一言言った。

「凄いさっぱりしてる。飲みやすい」

「甘いのは苦手と仰ったので、ライムの香りを足しました」

「う~ん、美味しい。来てよかった」

「気に入って頂けて、良かったです」

有紗のビールグラスがもう少しで空になるのを見て、淳哉が話し掛けた。

「何かお飲みになりますか?」

今日初めて、淳哉が有紗に話し掛けた瞬間だった。有紗の緊張はピークに達し、ガチガチに固まる。

「正子も何か作ってもらったら?」

有紗はブンブンと頭を横に振った。

「同じ物で・・・」

小声で返事をする。

「かしこまりました」

「作ってもらえばいいのに~。ほんと、冒険しないタイプだよね」

有紗は慌てて携帯を取り出し、仁美にメールを打つ。

『だって、好みを聞かれたら声バレちゃうじゃん!』

すると目の前に二杯目のギネスビールが来る。

「おまたせしました」

またその瞬間を捉え、仁美が淳哉に問いかける。

「お兄さん、彼女いますか?」

唐突すぎる質問に、目を丸くする淳哉。

「・・・今はいません」

「いつから居ないんですか?」

「8月に別れたんで・・・3ヶ月位ですかね」

「それ位の時って、一番淋しくって時間とか持て余したりしちゃいますよね」

「まぁ・・・」

仁美の質問の意図を探る様に、慎重に答える淳哉。

「そういう時に、好きでもない子から告られたら、どうですか?」

「・・・好きでもない子か・・・」

「タイプじゃないっていうか・・・」

「誰でもいいとは思わないですよ。相手にも失礼だし」

「そもそも、好きなタイプって・・・どんな子ですか?」

「輝いてる子。何かに一生懸命だったり、好きな事に打ち込んでる人って素敵でしょ?」

「あ~わかる。じゃ、癒し系より、目立つタイプの子?」

「いや・・・ひたむきな子が好きです。人の見てない所で努力してたり・・・健気だなって思うと、弱いかな」

カクテルを一口飲んで、また話題を提供する仁美。

「じゃぁ・・・、二股ってあり?なし?」

「当然なしでしょう」

「今までした事ないです?」

「二股は、ない。その前にけじめつけます」

「意外に日本男児ですね~」

「意外ですかぁ・・・」

「じゃ、曲がった事とか嘘とか・・・嫌いでしょ?」

「昔っから、正義感が強いのだけが取り柄って言われてるんで・・・そういう理不尽な事とか嘘とかは絶対許せないです」

「・・・・・・」

言葉を探して、仁美が質問をした。

「元彼との話なんですけどね。ずっと私に嘘ついてた事があって・・・彼を信じてた自分が惨めで、怒って別れた事があるんですけど、後で冷静になって考えたら 嘘だって言い出しにくくさせてた自分もいたのかなって・・・。それから、仕方のない嘘もあるのかもしれないって思える様になったんです。嘘つきは私も嫌いだけど、そうじゃなくて 仕方なく嘘をつかなくちゃならない場合もあるんだって分かって・・・嘘ついた方は、もしかしたら嘘つかれた方よりも苦しんでたのかもしれないって・・・」

「確かに、嘘にも色々種類がありますからね。自分を守る為の嘘、人を陥れる嘘、約束を守れない嘘。で、その彼とは よりを戻したんですか?」

「はい。でも・・・別の理由で別れましたけど」

そこへ、店のドアが開いて女性客3人組が入ってくる。有紗の一つ隣の席を空けて、三人が座る。

「いらっしゃいませ」

有紗達を最初に接客したベテランが、対応する。

「こんばんは。まずはいつもの下さい」

「珍しいね。水曜に来るなんて」

「でしょ?今日は特別」

「へぇ。でも嬉しそうな顔してるから、良い特別かな?」

「あら?分かる?」

そんなやり取りを横に聞きながら 有紗が一口飲むと、仁美が席を立ちながら言った。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

急に淳哉と二人取り残された感に、焦る有紗。手持無沙汰で話し掛けられる前にと慌てて携帯を取り出し、メールをいじるフリをする。すると、三人客の接客をしていたベテランが、淳哉に指示を出す。

「淳、アンチョビパスタ行ける?」

即座に返事を返し、淳哉が有紗に軽く頭を下げた。

「ちょっと、失礼します」

ホッとしたような、少し淋しい様な気持ちで会釈を返す有紗。

 少しして、パスタを持って奥から出てきた淳哉が、有紗の前を素通りして 三人客の前に立つ。

「お待たせしました」

「あ~、淳君。こんばんは」

その親しげな挨拶に、思わず有紗の顔がそちらを向く。

「やっぱ淳君のアンチョビパスタは絶品だね」

にこにこと接客する淳哉に、少し遠い気持ちになる有紗。

「ねぇねぇ、今度ゴルフ一緒に行かない?」

「コース?それとも打ちっ放し?」

「コース、コース」

「どこまで行くんですか?」

「厚木。車出すからさ」

「いいけど、いつですか?」

「ふふふ・・・。今度淳君 お誕生日でしょ?バースデーゴルフ」

「当日?」

「何か予定ある?無いでしょ?今彼女いないんだし」

「まぁ・・・。っていうか、店の営業日ですよ」

「だからぁ」

女三人組の一人が手を上げる。

「マスター!今月21日、淳君 借りてもいいですか?」

マスターがカウンターの奥から顔を出す。

「いいよ!昼間?」

「出来れば夜もお休みもらえると嬉しいんだけど・・・」

甘えた声でおねだりする。

「優子ちゃん達のお願いじゃ、断れないよな」

マスターがそう言うと、淳哉の肩にポンと手を乗せた。

「お姉さま方にご指導頂いてきなさい」

マスターにOKを貰った三人組から、黄色い歓声が上がる。それを隣で見ていた有紗は、少し切ない気持ちになっていた。

(きっと この中の誰かが 彼の事好きなんだろうな・・・)

楽しそうに話す淳哉から目を逸らす様に、残りのビールを飲み干す有紗。

「そろそろ、行く?」

有紗がそう仁美に聞くと、背中にそっと手を回してポンポンと軽く叩いた。

「待って。もうちょっと」

オーダーのチーズの盛り合わせを持って 奥から現れたマスターが三人組の前に来たのと入れ替わる様にして、淳哉が再び有紗達の前に付く。するとすかさず仁美が喋る。

「アンチョビパスタって、メニューにあります?」

「あ・・・裏メニューなんです」

「なんだ・・・。じゃ、無理ですよね・・・?」

「いいですよ」

気持ち良く注文を受けて、奥へ行く前に ふと空になった有紗のグラスに気が付く。

「同じ物、お持ちしますか?」

有紗が返事をする前に、仁美が割って入る。

「この子に何かオリジナル作ってもらえますか?彼女が元気になる様なやつ」

「元気になる様な・・・」

「好きな人と上手くいかなくて・・・悩んじゃってるんです」

何を言い出すんだと仁美を見ると、まだ先があった。

「自分に自信がないから、奥手なんです。そういうの吹っ切れる様な。でも、あんまりお酒強くないから、飲みやすくて弱いやつでお願いします」

「難しいですね・・・」

迷いながらも手を動かす淳哉。試行錯誤しながら作り上げ、最後の味見で満足した顔になる淳哉。有紗の目の前に差し出された 少し白く濁ったカクテル。

「どうぞ」

口をつけると、二人が有紗の感想を待ちかねる。

「どう?」

待ちきれない仁美が前のめりになる。

「うん。美味しい。グレープフルーツの味」

「元気になりそうですか?」

ちらっと視線を上げ、今日初めて淳哉と目が合う。思った以上にドキッとして、慌ててすぐに目を逸らす有紗。

「・・・はい」

「良かった。・・・実は僕も今、あんまり上手くいってないから、自分を元気にするつもりで作りました」

少し顔を有紗と仁美に近付け 小声でそう話す淳哉に驚いて、慌てて顔を上げる有紗。

「上手くいってないって・・・好きな人と・・・?」

こんな事を間髪入れず聞くのは、やはり仁美である。横の席をちらっと気にして、淳哉は鼻でふふっと含み笑いをした。

「じゃ、パスタ作ってきます」

そう言い残す様にして淳哉は姿を消した。


 店を出てから、喋りたくてウズウズしていた仁美は 開口一番こう言った。

「あれ、どういう事?」

「あれ?」

「そうよ。好きな人と上手くいってないって。あんたの事?」

「・・・わかんない。でも、まさかね・・・。隣チラッと見てたし・・」

「そりゃ、プライベートな事、他のお客さんに聞こえたらまずいからでしょ」

「それよりさ・・・お誕生日の日、お客さんとゴルフだって・・・。あの女の人達、凄く仲良さそうだった」

「嫉妬してんの?」

「・・・おかしいよね・・・」

「やきもち焼く程好きなら、正直に話して会ってきなよ」

「・・・無理だよ・・・。嘘嫌いだって・・・」

「だけど、嘘にも色んな嘘があるって言ってたし。とにかく、今日本物見て、私は そう悪くないなって思った。裏表がある様にも見えなかったし。それだけでも収穫だね」


 その日の夜中、淳哉からメールが届く。

『こんばんは。今日の三日月綺麗だったんだよ。見れた?その時撮ったやつ、送るね』

淳哉が店の前の道で、買い物帰りに撮っていた写真が送られて来る。その光景を思い出しながら、有紗はすぐに返信した。

『いつもありがとう』

珍しく早い返信に淳哉も、座り込んでメールを返す。

『有紗ちゃんは満月派?それとも三日月派?』

『三日月派』

『へぇ~。でも、ぽいね。三日月って綺麗だけど、ちょっと儚い感じする。有紗ちゃんも、繊細で壊れやすいイメージだから。ちなみに俺は満月派。エネルギーがみなぎってるって言うか・・・良く言いすぎか』

『広瀬さん、そんな感じする』

『今日さ、嬉しい事があったんだ。聞いてくれる?』

携帯を持っていた有紗の手が止まる。嬉しい事・・・もしかしてお誕生日にお客さんからゴルフを誘われた事だろうか・・・。だとしたら、聞くのが怖い。

『どうしたの?』

そう打ち込んで、思い留まり消去する。

『良かったね』

そう書いてみて、これも違う気がする。すると、淳哉から次のメールが届いた。

『今日お店にさ、初めてのお客さんが来てくれて、喜んで帰ってくれた』

思いがけない内容に、有紗の手が止まる。あんな小さな出来事と思っていた事を 今日一番の嬉しい事の様に報告してくる淳哉という人。こんな事で喜んでくれるのか・・・。そんな事を思っていると、また続きのメールが来る。

『誰かの紹介とかじゃなくて、ふらっと入ってくれた人達で、帰りにはさ『楽しかったです。来て良かったです』って言ってもらえたんだ。なんか又頑張ろうって思えた。また来てもらえるかは分かんないけど、こういう お客さんからの一言で、すっごい元気になれた』

淳哉の文章と、仁美が店を出る時に最後に言った光景が重なる。

『良かったね。仕事で良い事あると、元気になるよね』

『有紗ちゃんもある?仕事で嬉しい事』

『私は、単調な毎日』

『そっか。でもきっと 今日の俺みたいに、ふと良い事が舞い込んでくるよ。意志あるところに道は通じる。俺の座右の銘』

いつも前向きな淳哉のパワーに、胸が救われる思いがする有紗。

『今日来た 初めてのお客さんって、どんな人?』

有紗の気持ちが動き出す。

『女性の二人組。学生時代からの友達だって言ってた。一人は良く話す活発で明るい感じの人。もう一人は、大人しそうな人だった。その人は殆ど話さなかったし、なんかずっと下向いてた。つまんないのかと思って どうやって楽しんでもらおうかなって考えてたら、どうも恋愛で上手くいってなくて悩んでたみたい。女の子っていいね。恋愛でつまずいたら、そのまま素を出せる友達がいてさ。男は、なんかそういうの照れ臭いっていうか、つい何でもない顔しちゃう。友達と居れば、馬鹿やって騒いでごまかしちゃうし。今日の二人は、そんな良いコンビだったよ』

淳哉のオリジナルカクテルとアンチョビパスタの味を思い出す有紗。するとまた、淳哉がメールをよこした。

『今日はとっても良い日。もう一個、いい事あった』

『何があったの?』

『有紗ちゃんとこうしてメールで会話できてる。いつもは俺の一方的だけど、今日はすぐに返事くれる。電話じゃないけど、喋ってるみたいな感じする。凄く嬉しいよ。ありがとう』

有紗の頭の中で、今日見た淳哉の顔と声と メールの言葉が重なり合う。そして有紗の胸がきゅっと縮んだ。

『明日も仕事で早いのに、遅くまで付き合ってくれて ありがとう』

本当はOLなんかじゃないのに。今は仕事もしてないから、早く寝なきゃならない理由なんかないのに。こんなちっぽけな嘘さえ無かったら、もっともっと話していられるのに。そんな叫びを飲み込んで、有紗は返信をした。

『嬉しい報告、私も元気になった。ありがとう。おやすみなさい』

今日店を出た後の仁美の言葉が甦る。

『好きな人と上手くいってないって、あんたの事?』

(・・・まさか。まさかだ。まさか、そんな訳ない。でも・・・私がメールに返信をするだけで、こんなに喜んでくれるのは なんで?この前話した私の過去に同情してるだけだよね?お兄ちゃんみたいな目線で、私が立ち直るのを見届けたいって気持ちからだよね?)

しかしこの状況を静観する気持ちと同時に、やはり心が躍り出しそうになる自分を否定できない有紗だった。


第7話お読み頂きありがとうございました。

とうとう生身の淳哉を見た有紗。これで有紗の心のガードは少し緩んでいくのでしょうか?

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