第6話 告白
6.告白
久し振りに淳哉の電話に掛ける有紗の手は、僅かに震えていた。非通知設定の電話を取ると、淳哉が先に喋った。
「有紗ちゃん?」
「はい」
耳に懐かしい淳哉の声が、有紗の涙腺を緩める。それを堪えている事で、微かに吐息が震えてしまう。
「電話くれてありがとう」
嬉しいのか、緊張してしまうのか分からない気持ちのまま、深呼吸を大きく一つする。声を発すれば震えてしまいそうで、なかなか話が出来ない有紗。またそれをゆっくり待つ淳哉。
「この前のメールで『嫌な事があったの?』って聞いたよね。それ・・・今日は聞いてもらおうと思って・・・」
淳哉はベッドに寄り掛かっていた背中を、少々正した。
*****
当時有紗が20歳の夏の事だった。仕事を終えた帰り道、まだまだ日中の蒸し暑さが地面に残る夕方6時、仕事を終えた有紗は 帰り道に商店街のいつもの美容院に寄った。
「いつも通りで。毛先だけ3cm切って下さい」
「たまにはパーマかけてみたら?大きなロッドでゆるく巻いたら、ショートでもふんわりして、可愛くイメチェンできると思うんだけどな・・・」
「え・・・似合いますか・・・?」
「絶対似合う!感じ随分変わると思うよ。夏だし、ちょっと遊んでみたら?」
迷った挙句、やはり有紗はいつもの髪型に思い留まった。
「ありがとうございました」
「また、その気になったら言ってね」
カットを終え 店を出た時には もう辺りは暗くなっていて、蝉の泣き声も聞こえなくなっていた。
家までの近道に公園があるが、夜は一人では通っちゃ駄目といつも母に言われている。しかし今日は美容院に寄り道もしたし、お腹も空いてる。急いで帰りたかった有紗は、駅からの人が一人公園の方へ歩いて行くのを見付けると、その後について歩いていった。公園の中は外灯が所々あるだけで、やはり何だか気味が悪い。心細さを胸に抱えて足並みも自然と早くなる。その時後ろから 自分を呼び止める声がする。振り向くと そこには彼氏の友達の大介が立っていた。その大きい大介を見上げて、有紗はびっくりした様に立ち止まった。
「どうしたんですか?こんな所で」
「たまたま用事があってさ。そしたら見掛けたもんだから。家この辺なんだ?」
「公園抜けて5分位行った所なんですけど」
そう話し終えたか否かのところで、突然大介は有紗を草むらに引きずり込んだ。驚いて声も出せずにいる有紗を草むらの中で待ち受けていたのは、もう一人の男の影だった。長身で筋肉質の大介が 無防備な有紗を草むらに連れ込む事位 容易い事だった。男二人に羽交い絞めにされて、何が起きているのか分かるのに時間が掛かる。ようやくジタバタともがこうとするが、2対1の力にかなう訳がない。恐怖のあまり声も出ず、体の自由も奪われ、ただ痛みと悲しみと絶望感だけの地獄の時が有紗を包み込んでいた。
・・・・・・どれ位そこに一人置き去りにされていたのだろう。気を失っていたのか、それとも意識が現実に戻るのに時間が掛かっただけなのか。有紗はようやく上体を起こしたが、とても立ち上がる力は無かった。はだけて破けた服とストッキング。靴も片方、どこかにいってしまった。
(お母さん・・・)
心の中でそう叫んだが、届く筈もない。帰りたいのに、こんな姿で帰ったら母が心配する。でも、早くあの家に帰りたい。ドラえもんでも出てきて、どこでもドアで部屋まで連れて帰って欲しい・・・。
暫く呆然としていると、鞄から飛び出して 足元の土の上に転がり落ちている携帯が震えている。母からだった。動かぬ体で、ようやく母からの着信を取る。
「遅いけど、大丈夫?」
有紗の耳に母の優しい声が染み渡る。
「・・・友達とバッタリ会って、飲んで帰る事になったからご飯いらない」
「あ、そうだったの。だったら連絡位しなさいよ。心配するじゃない」
「ごめん・・・」
そして切り際にもう一言付け足した。
「遅くなるかもしれないから、先寝てていいよ」
切った後、涙が溢れて溢れて止まらない。ただポロポロと涙ばかりが溢れ出す。悲しいのか何なのか、感情はない。何も感じない。でも耳の奥に残る母の声に、涙が反応しているみたいだ。有紗は呆然とした遠い意識の中で、考えていた。
(なんで こんな事になっちゃったんだろう・・・。あれ程お母さんに、暗くなったら通っちゃ駄目よと言われていた公園の道を抜けようとしたから?それとも、美容院の人に勧められるままに 思い切ってイメチェンパーマを掛けなかったから?)
その週の日曜日、有紗は彼氏の隼の家に来ていた。大介が何故あんな事をしたのか、それを隼は知っているのか。
「まず、うち遊び来いよ。その後出掛けてもいいし」
気まずさに胸が潰されそうになりながら、いつも通り変わらない隼からの電話で 家に行く事になったのだった。
家で過ごす隼は、今までと何も変わらず、きっと何も知らないのだろう。話すべきか・・・黙っているべきか・・・。話したらどうなってしまうんだろう。私の為に大介に殴り掛かってくれるのだろうか。でもきっと、あんな事実を知ったら あの二人はきっと友達ではいられないだろう。中学時代からの腐れ縁にひびが入ってしまう。・・・そんな事を考えているところへ、ピンポーンと誰か訪ねてくる。隼が玄関を開けると、そこから顔を出したのは あの悪夢の様な大介の姿だった。一瞬で凍りつく有紗に対し、大介はにやける様な笑顔で挨拶をしてよこした。
「どうも」
腰が抜けて立ち上がる事も、会釈をする事も出来ない有紗に、隼は苦虫を潰した様な表情をする。しかし有紗は、一体これから何が起こるのかにビクビクして、隼の表情など気が付く余裕がなかった。
玄関先での二人のやり取りが、微かに有紗の耳に届く。
「ごめん、今日は無理だわ。またな」
「お前が今日って言うから、チケット取っちまったんじゃねぇかよ。彼女とは又いつでも会えんだろ?それとももう一枚チケット取って、一緒に行く?」
玄関で隼が振り返り、有紗に事情を説明する。どうやら隼のダブルブッキングらしい。頭が正常に働かない有紗は、半分上の空で隼の説明を聞き終えると、最後の『一緒にお前も行くか?』というフレーズだけ聞こえ、頭をブンブンと横に振った。
「私 帰るから、いいよ。気にしないで出掛けてきて」
慌てて荷物を掴んで、逃げる様に玄関の二人の脇をすり抜ける。
「なんか、悪かったね」
そう言う大介の視線がいやらしい。顔を見ず、声しか聞いていないが、自分を嘲笑っている様に聞こえる。それと同時に、大介に対して不愛想に帰ろうとする有紗に 不愉快な感情を顔いっぱいに現す隼。思った事を黙ってそのままに出来ない性格の隼は、大介を部屋に入れ、玄関のドアを閉め、有紗の腕を掴んだ。
「あんな態度ねぇだろ?ダブルブッキングは俺が悪かったんだよ。大介は関係ねぇ。それなのに こんなふて腐れて帰る事ねぇだろ」
慌てて有紗は顔を上げた。
「あっ、ごめん。そういうつもりじゃなかったの」
「お前のそういう態度が、俺の顔を潰すんだよ」
「・・・ごめんなさい」
踏んだり蹴ったりの様な気持ちをぐっと堪えて、その日は家に帰った。しかし次の日、仕事が終わった頃 また隼から電話が掛かる。今日は昨日の朝と違って、声が尖っている。昨日の帰りの態度をまだ怒っているのか。それとも・・・大介から聞いてしまったのか?すぐに来いと言われ、真っ直ぐに隼の家に向かった。待ち構えていた隼は、やはり電話の声の通り怖い顔をして怒っていた。
「大介から聞いた」
やっぱり・・・。この時が来てしまったと有紗は首をうなだれる。
「最低だな」
吐き捨てる様な言い方に、部屋全体がピリピリと張り詰めた空気となる。
「・・・あばずれ女」
有紗は耳を疑った。聞き間違いか?いや、きっと何かの間違いに決まってる。そう有紗の頭の中が混乱していると、更に追い打ちを掛けるかの様に、隼が言った。
「見損なったよ」
「・・・私・・・?」
その途端、床に脱いであったスリッパが 有紗の横を通り過ぎ、後ろの壁にぶつかった。
「しらばっくれんじゃねぇよ!」
有紗は息を呑んだまま、体が硬直して何も言い返せなかった。
「大介とお前、やったらしいな」
言いたい事は色々あるのに、口だけがパクパク動くだけで、声にならない。そうしている内に、隼の言葉が続く。
「しかも、お前から誘ったらしいじゃねぇか」
有紗は再び耳を疑った。まさか!そんな話になっていたなんて!声が奪われてしまった様に、何も出ない。出ない代わりに、必死になって、有紗は首を横に振り続けた。
「なんだよ。大介から誘ったとでも言いたいのか?」
有紗の首が一瞬止まる。隼の友達を悪く言うのは、更なる地雷を踏む様なものだ。
「そんなにお前、自分に魅力があるとでも思ってんのか?」
黙ったまま俯いて、有紗は再び首を横に振った。
「あいつとよろしくやっといて、よく昨日は普通の顔して俺に会いに来られたな」
散々罵声を浴びせ掛け、屈辱を味わい、最後には『とっとと出て行け』とスリッパを投げて追い出された。怒鳴り声に怯えはしたものの、涙は出ない。きっとこの前の草むらで、出尽くして枯れてしまったのだろう。有紗は、サンダルのベルトが外れたまま、足を引きずる様にして隼の家を後にした。
その後少しして分かった事だったが、隼は他に好きな人が出来て、別れる口実を作る為に企てられた計画だったと・・・。
*****
話を聞き終えた淳哉は、有紗に聞こえない程度の小さなため息を吐いた。そしてそこまで黙って聞いていた淳哉が急に、電話の向こうで声を上げた。
「何だよ、それ!人間のクズだな。俺、そいつらボコボコにしてやるよ!」
「・・・・・・」
荒い息づかいを 有紗のテンションに合わせる様に落ち着かせ、淳哉は大きく息を吸った。
「・・・こんな話 聞かせてごめんなさい・・・」
「有紗ちゃんこそ・・・話してくれてありがとう」
仁美の会社の昼休みに、有紗はまた公園でランチと称して呼び出していた。仁美は自作の弁当を、有紗は家から持参したおにぎりを広げた。公園の木々は 葉を黄や赤に染めて、すっかり秋の装いをしていた。そして時々穏やかに吹き抜けていく風は、ベンチに座る人達の背中を 僅かに丸めた。
「何で、そんな話したの~?」
「だって・・・会えないって事、分かっててもらおうと思って・・・」
「・・・ったく・・・」
水筒のお茶を一口すすってから、仁美は落ち着いた口調で有紗をたしなめた。
「そんな話しちゃったら、男によっては『じゃ俺も上手い事やれば・・・』って思って、つけ込んでくるかもしれないじゃない」
有紗は目を丸くした。聞き方によっては仁美の言う通り、有紗の想像と全く違う解釈になってしまうという事に 今更ながら気付く。
「・・・でも、広瀬さんはそういう人じゃないと・・・思う」
「だから!会った事もない男なんだよ!何を基準に信用してんの?」
「そう言われると・・・そうなんだけど・・・」
ブツブツ言い訳じみた独り言を右から左に聞き流して、仁美は言った。
「結局、会わなくても電話でだけでも繋がっていたいって思いを貫く為に あんな話したんだよね。本当なら 少し引いてくれたこの機会に、自然消滅させられたのに・・・」
「・・・・・・」
「もう一度 はっきり言うけど、その人、好きになっちゃいけない人だよ」
「・・・・・・」
「それでもどうしても好きだって言うなら、嘘ついてましたって言える勇気と覚悟をしなきゃね」
その夜中、淳哉から有紗にメールが届く。
『昨日の話、俺に話してくれたって事は、意味があるんだよね?何か俺に出来る事があるのかなぁ?それとも、俺を信じて 辛い過去を共有さしてくれたって事かな?だとしたら、嬉しいな。
今後は、今まで通りメールしても大丈夫?有紗ちゃんの心のペースに、俺合わせるよ。一緒に 乗り越えていきたいと思う。その日まで、先の話をして有紗ちゃんを追い詰めたりしないって約束する』
有紗は何度も何度も読み返した後で、返信をした。
『どうもありがとう。ごめんなさい』
すると、間髪入れず淳哉のメールを受信する。
『どういう意味?』
それに対しての 有紗からの返信が無い事にしびれを切らしそうになった淳哉が、大きく深く息を吸って自分を落ち着かせた。
15分程待って、淳哉が再度メールを送信する。
『今、話せるかな?』
返ってきた答えは こうだった。
『話すの・・・怖い』
その二言の間には『好きになりそうで』が抜けていた。しかし、そんな事をまるで知らない淳哉は、それを読むなり首をうなだれ 小さく溜め息を吐いた。
次の日淳哉は有紗にメールを送った。しかも それはいつもと違っていて、道端で撮った様なコスモスの写真が添えられていた。
『店に行く時、いつもの道にこんなの咲いてたよ。多分コスモス?俺、コスモスが道端に咲いてんの 初めて見たかも。今まで気付かなかっただけかな。綺麗だよね』
それを受け取った有紗の頬がほころんだ。
そしてその晩、また淳哉からメールが来る。
『見て見て!大っきくて真っ赤な満月だよ!』
有紗は手に携帯を握ったまま、ベランダに出て空を見上げた。不思議な気持ちになる。淳哉とは会った事もないのに、同じ月を見ている。そしてささやかな感動を共有している。目に見える物が全てみたいな世の中で、見えないけど感じる真実もある。それは何を頼りに そう感じているのだろう。自分の心・・・一番分かっている様で、思わぬ方向へ転がり動き出し、コントロール出来ないのが自分の心。そんな心が見ている広瀬淳哉という人間を 信じていいのだろうか。
有紗からの返信が無いままで、再び淳哉から夜中にメールが届く。
『今夜の綺麗な満月見た?見れてなかったらと思って、撮ったよ』
そこには 7時頃有紗が見たのと同じ 大きくて真っ赤で まるで落ちてきそうな満月が写っていた。
『ありがとう。綺麗だね』
そう一言だけ返して、有紗は携帯を置いた。
『本物はこの何倍も綺麗だったんだけどね』
『見たよ。教えてくれてありがとう』
そこまで打って、仁美の言葉を思い出す。・・・・・・『好きになっちゃいけない相手だよ』
さっきの言葉を消して、携帯を伏せた。
第6話お読み頂きありがとうございました。
大きな告白を受けて、これからの二人はどうなっていくと思いますか?