第22話 家族
22.家族
今年も淳哉の誕生日に、常連の三人組がゴルフに誘う。
「俺最近全然練習行けてないんで、駄目かもなぁ~」
「あ、何、今から言い訳?」
「いやいや、本当に」
「淳君、歳とって弱気になってきたんじゃない?」
「そうだよ。昔はハッタリの淳君だったのにね」
笑いが起こる。
「淳君も28歳だって。大きくなったよねぇ~」
「皆様に育てて頂きまして」
淳哉は身を縮めてお辞儀をする。すると、三人組の中の優子が言った。
「淳君が身を固めるの見届けるまで、私結婚出来ないわ~」
「あ~、そういう言い訳もあるね~」
「私もこれから それ使おう!」
アラサー三人組は盛り上がる。
「僕の心配なんかせず、どうぞ結婚して下さいよ」
「あ~、嫌な感じ」
「ほんと~。淳君、そんな事言う様になっちゃったんだね~。冷た~い」
「お姉様方の婚期が僕のせいで遅れるなんて、申し訳ないですからぁ」
「益々嫌な感じ~」
「淳君、結婚の予定まだない?」
「ないでしょう、残念ながら」
「あれ?でも彼女いたよね?別れちゃったの?」
「いえ」
すると、優子が淳哉を指さした。
「女の敵だな。つき合ってるのに、結婚する気がまるでないって事でしょ?じゃ、何なのって言いたいわよ」
「なんか、かなり私情が混ざってる様に思うんですけど・・・」
優子の隣の二人も頷く。
「男にとったら、恋愛と結婚は別物なの?」
淳哉は首を傾げた。
「そういう質問は結婚した人に聞いた方がいいんじゃないかと・・・」
「いいの。彼女はいるのに、結婚しないって言ってる淳君の意見が聞きたいの!」
「別じゃないんじゃないですか?恋愛の延長線上に結婚があると思いますけど・・・」
「じゃ、まだ結婚しないって言い切るのは、相手を見定めてる期間って事?」
「相手の気持ちも・・・あるだろうし・・・」
「え?じゃ、女が結婚したいって思ってるのは、出した方がいいの?焦ってるみたいに思わない?」
「僕は・・・そう思ってるなら知りたいけど・・・優子さんの彼氏がどう思ってるかは・・・」
「ま、確かにね・・・」
すると、他の二人が口を開く。
「淳君の彼女は、結婚したがらないの?だって去年からつき合ってる彼女でしょ?仕事一筋なキャリアウーマン?」
「え~、淳君 どんな子選ぶんだろう」
「今までの歴代の彼女見ると・・・面食いだよね」
「え~、女を顔で選ぶタイプ?」
「いやいやいや。勝手に憶測で盛り上がるの、やめてもらえます?」
アラサー三人組はゲラゲラと笑った。
「彼女の写真見せてよ」
「ないですって」
「写メくらいあるでしょ?」
「ほんと無いですから」
「あ、流出不可なヤツ?」
「あぁ、二人だけの秘密系の?」
また無責任な憶測で盛り上がっている。
「やばいとこ手で隠して、顔だけ見せてくれればいいからさぁ」
「だから、そういうのも一切ないですって」
「なんで~?」
「写真・・・嫌いだから」
「彼女?」
「・・・だし、僕も」
「淳君優しい~。『僕も』って付ける辺り、なかなかだね」
その晩、淳哉は正子に報告のメールを送った。
『21日、お客さんに誘われてゴルフ行ってきます。去年と同じお客さん』
正子はシフト表の淳哉の誕生日である21日の休みを見ながら、返信した。
『わかりました。楽しんできてね』
それを読んだ淳哉も、小さい溜め息を吐く。
『もう来週の予定だけど、まだシフト分かんないの?』
『ごめんね・・・』
『会いたくないなら、無理にいいよ』
淳哉からのメールの文章に、正子の胸がきゅっとなる。返事が返せない。きっと淳哉は怒ったのだ。煮え切らないし、意味の分からない態度に腹を立てたのだ。そう思うと、余計にどうしていいのか分からなくなる正子だった。もう誕生日なんて無ければいいのに。誕生日を恋人と過ごすなんて、無ければいいのに。そう思うと、正子はまたほら穴に籠って冬眠する熊に戻りたいと思ってしまうのだった。
仕事を終えて駅に向かう正子。今日は早番だ。駅の改札が見える所まで来た時、正子の目に飛び込んできた淳哉の姿。こんな所にいる筈のない姿に驚き、目を疑う。改札の手前で壁に寄り掛かって駅に入ってくる人を見ている。慌てて正子は柱に隠れる。しかし、どうしたらいいのかが分からない。いずれは駅の改札を通らなければ家に帰れないのだ。淳哉に会って、何もなかった様に声を掛けたらいいのか。それとも・・・。柱に隠れてじっとしていると、ふと隣に人影が近付く。顔を上げて見ると、淳哉が隣に立っていた。
「何で隠れるの?」
「あ・・・」
後ずさりする様に、淳哉から一歩離れる正子。しかし、淳哉はその一歩を埋める様に、近付いてくる。
「ねぇ、何で?」
正子は今度二歩離れた。すると、淳哉が二歩 近寄る。
「今日・・・お店は?」
「休みだよ。月曜だもん」
うっかりしていた。
「まーこ、仕事終わったんでしょ?ご飯食べ行く?」
「私、家に帰らないと・・・。ご飯作らないといけないし」
「そうかぁ。まーこはそういう都合もあるんだよね」
上手く理解してくれた淳哉に、ほっとする正子。
「お誕生日おめでとう」
そう言って淳哉は、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「まーこがなかなか会ってくれないから、これ渡しに来ただけだから」
手を出して、淳哉の渡す袋に手を掛けようとしたところで、淳哉がそれを引っ込めた。
「これは受け取ってくれんだね?」
慌てて手を引っ込める正子。
「嫌いになった訳じゃないんだよね?俺の事」
頷く正子だが、下を俯いたままだ。
「じゃ、誕生日を一緒に過ごしたくないだけ?それとも、これからもあんまり会いたくないって事?」
当然正子が答えられる筈はない。
「何が嫌なのかなぁ」
首を振る正子。
「会わないで、電話だけの仲に戻る?」
そんな事を言ってくるという事は、淳哉に薄っすら感づかれているのかもしれない。そう思ったら驚いて、顔を上げてしまう正子。
「それで解決する事?なら、そうしようよ」
そして淳哉は、正子の手に紙袋の取っ手を握らせた。
「お誕生日おめでとう。会うの、これで暫くやめ」
勝手なのは分かっているが、正子の喉の奥が痛くなる。
「また会いたくなるまで、今までみたいに電話とかメールで話そう」
こんな展開を望んでいたのか?正子は自分に問いかける。
「さ、帰ろう。電車乗るでしょ?」
こくりと頷く正子を確認すると、駅の改札の方へ歩き出す淳哉。もちろん今日は手を握ってはくれない。淳哉の後について歩いて行く正子。改札を入った所で、淳哉が振り返った。
「まーこ、下りでしょ?俺こっちだから。じゃあね」
そうあっさり言った淳哉の口元が、少しいつもと違っていた。震えているという程ではないが、何か違う。それを見た正子は、何でもない様な顔をしている淳哉にも、堪えている感情がある事を知る。
「あっちゃん・・・」
「・・・何?」
淳哉の目の奥が淋し気だ。
「私・・・あっちゃんのお誕生日のプレゼント、まだ渡してない」
「いいよ、そんなの」
「良くない。私だけもらって」
「じゃ、今度送って。そんなに気にするなら」
「私・・・何がいいか分からなくて、まだ買ってないの」
「だから、いいって。いらないよ」
正子は首を横に振った。
「じゃ、来年、今年の分と合わせてちょうだい」
正子はもっと激しく首を振った。
「一緒に買いに行こうと思って。あっちゃんと」
「だって、今日はもう帰らなくちゃいけないんでしょ?」
「少しなら・・・平気。お父さん帰ってくるの、8時頃だから」
「・・・・・・」
淳哉はまだ笑顔にもならず、突っ立っている。
「横浜まで一緒に行ってもいい?」
二人は上り電車に揺られ、横浜に出る。
「どんな物が欲しい?」
「ん~何かな」
淳哉のテンションは低い。
「あっちゃんは、どういう物が好きなの?」
「まーこって、何考えてるか分かんないね」
正子の足が止まる。振り回されてますって言われてる気がして、正子は目を伏せた。完全に嫌われる。いや、もうきっと嫌われたに違いない。だから、淳哉の反応がさっきから冷たいのだ。そう思うと悲しくなるが、正子はこれで最後になっても、プレゼントだけは渡したいと躍起になるのだった。
「残らない物のがいいかな・・・」
「・・・どういう意味?」
淳哉の目の奥が暗い。
「プレゼント渡して、借りを無くして別れようとか、そういう事?」
正子がびっくりして首を横に振る。さっきからズボンのポケットに親指を引っ掛けて歩く淳哉が、そのまま正子の方を向いて立ち止まった。
「俺の欲しい物は、まーこの写真。出来れば、二人で撮った写真」
「・・・・・・」
西口のターミナルの辺りで、デパートに向かっていた足を止めた二人が無言のまま立ち止まっていると、淳哉の後方から声がする。
「正子!」
声のする方を見ると、兄の康介だった。
「お兄ちゃん!」
「え?!」
近付いてくる兄に、戸惑う正子。
「どうした?こんな所で」
近付いて初めて、連れがいる事に気付く康介。
「あ、人と一緒か・・・」
そう言いながら淳哉の方を見るので、淳哉は背筋を伸ばして深々とお辞儀をした。
「初めまして、広瀬です」
「あ、どうも。兄です」
正子はもうどうしていいか分からず、頭はパニックを起こしていた。
「何やってんの?」
そう聞いてから、康介は淳哉と正子を交互に見た。そして淳哉は、再び気を付けの姿勢で頭を下げた。
「正子さんとお付き合いさせて頂いています」
すると兄はにっこり笑って頭を下げた。
「こちらこそ、お世話になってます」
妙な展開になってしまった衝撃に まだ対応できない正子に対し、康介が聞いた。
「俺、これから実家行こうと思ってたんだよ。お前がまだここに居るって事は、親父今日遅いの?」
頭を横に振って否定するが、言葉が出ない。
「いつもの時間に帰ってくるって?」
「8時頃帰ってくるって。私も、ご飯作らなきゃいけないから、もう帰る」
「いいよ。適当に俺弁当でも買ってっとくよ。ゆっくりして来いよ。親父には言っとくから」
「いいよ。帰るから」
すると淳哉も加わった。
「僕ももう帰る所だったんで、気になさらないで下さい」
「あれ?急いでるんですか?」
「いえ。僕は時間は平気なんですけど、正子さんのお家の都合があるの聞いてたし、元々そのつもりにしてましたから」
「あ、じゃあご飯まだですか?もし良かったら家来ませんか?一緒に」
「は?!」
思わず正子の声が上がる。
「飯何か作れんだろ?材料買い置きあるよな?せっかくだから、来てもらったら?」
「お兄ちゃん、何言ってんの?」
妹と話してもらちが明かないと感じた康介は、淳哉の方を見た。
「どうですか?良かったら」
「ありがとうございます。ご迷惑でなかったら・・・」
「え~っ?」
正子の本音が声になる。
「行かない方が良ければ、よすけど・・・」
淳哉が正子の顔色を見てそう話すと、すかさず康介が遮る。
「いいよな?別に」
「・・・・・・」
ほぼ決定してしまった実家行きに呆然とする正子。そんな事お構いなしに、康介が言った。
「今車取ってくるんで、ここで待ってて下さい。そこに持ってくるんで」
康介が立ち去った後で、淳哉が言った。
「意外な展開だね・・・」
「どうしよう・・・」
「ごめんね。でも、お父さんにもご挨拶できるいい機会だと思ったから」
そして淳哉が思い出した様に言った。
「どこで知り合った事にする?」
「・・・・・・」
「まーこ、それどころじゃない顔してるけど、ここだけは決めとかないとさ」
正子も頭を切り替えて、まずは考える。
「仁美とあっちゃんのお店に行った事にする?」
「う~ん・・・それだとお客さんに手出した事になっちゃうな・・・」
「駄目だ。それはやめよう。印象が悪すぎる」
「じゃあ、仁美ちゃんと飲みに来てたお店で、何度か会った事があるって事にしようか。そこから友達期間が1年位あって、最近つきあい出したってのはどう?」
「うん。そうしよう」
康介の車に乗ってから、淳哉は言った。
「僕、手ぶらで伺うの申し訳ないので、どこかで・・・」
そこまで聞いて康介が言った。
「いいですよ、気にしなくて。こっちが急に誘ったんだから。僕がちゃんと父には言いますから」
そして淳哉のもう一つの心配を口にした。
「お父さん、急に僕が行ったら驚かれますよね?大丈夫ですか?」
「いつ行ったって、きっと驚きますよ。正子が彼氏連れてくるなんて、考えてもないと思いますから」
三人が家に着き 中に上がるが、まだ父は帰って来ていない。
「狭いですけど、どうぞ上がって下さい」
男二人の後について、おずおずと中に入る正子。異様な状況に、未だにどうしていいかが分からない。居間に入ると、康介が淳哉に聞いた。
「ビール飲みますか?」
「いえ。お父さんにお会いする前に飲む訳には・・・」
「ははは。そうか。じゃあ・・・正子、お茶か何かお出しして」
「うん」
これから急に4人分の夕飯を作らなければならなくなった正子に、お茶を出すなどの余裕はない。いつもは二人分の食事を適当に作るのだが、今日は人数も多い上に、淳哉までいる。淳哉に初めて食べてもらう食事だ。そう思っただけで、いつも通りの動きが出来ない。かなりのテンパり様で、夕飯の支度を進めているところへ、とうとう父が帰宅する。
「ただいま~。あれ康介来てんのか?」
そう声がして、康介が玄関に顔を出す。
「おかえりなさい。今日はお客様がいらしてますよ」
「え?誰だ?」
玄関の履物を振り返って見る。
「ま、入って」
康介に背中を押される様にして居間に顔を出す父。中では直立不動で待ち構えている淳哉がいる。
「初めまして。広瀬淳哉と申します。正子さんとお付き合いさせて頂いています」
「あ・・・どうも、いらっしゃい」
会釈だけして、父は台所の正子の方へ行く。
「どうした?急に」
「・・・・・・」
正子も言葉が出ない。そして康介が言った。
「横浜でさっき偶然にバッタリ会ってさ。俺もこっち来る予定だったから、お誘いしたんだ。夕飯一緒にどうですかって」
「急に伺って、すみません」
淳哉も直角に腰を曲げて、もう一度頭を下げる。
「まぁ、どうぞ座って下さい」
そう父が淳哉に声を掛けて、一旦部屋に着替えに入る。
「父も初めての事で緊張してるので、大目に見て下さい」
康介が淳哉に言った。
父が居間に戻ってくると、食卓にはビールとおかずが幾つか並んでいた。
「広瀬君、ビール飲める?」
「はい」
「じゃ、こっち来て一緒にやりましょう」
食卓を男三人が囲み、ビールをお酌し合っている。
「俺は車だから、ノンアルで」
康介が自分の分の缶を開ける。
「適当につまみながら、どうぞ」
父が淳哉に気を遣う。
「ありがとうございます。頂きます」
「広瀬君は何の仕事してるの?」
「ショットバーでバーテンやってます」
「へぇ~、どこで?」
康介が聞く。
「東京の西武線の武蔵関という駅前です」
「じゃ、住まいもその辺?」
今度は父の質問が飛ぶ。
「はい」
「いくつ?」
「28です」
「あぁ、そう。ところで正子とはどこで・・・」
さっき打ち合わせした通りに説明する淳哉の声を聞きながら、正子はずっと食卓につかずに台所に居た方が 余程居心地がいいと思ってしまうのだった。
正子の知らない間に三人は会話を交わし、淳哉もだいぶ馴染んでいた。少しホッとしていると、父が思い出した様に席を立つ。
「そうだ、そうだ」
言いながら居間のテーブルの上に、帰ってきた時に置いたままにしたビニール袋を持って戻ってくる。
「今日正子の誕生日だから、真理恵がお赤飯買ってってやってって。わざわざメール来たぞ」
「あ!今日正子の誕生日か!23日だもんな。ごめんごめん。おめでとう」
康介が慌てて台所に叫ぶ。
「あ~、それで一緒に居た訳だ」
淳哉と正子を指さす康介。
「お姉ちゃんが、今日忙しくて赤飯焚いて持ってってあげられないから、正子お赤飯好きだから、絶対お父さん買ってってねって、何度も念押しされてきたんだから」
「ありがとう」
ご飯を作り終え、全てテーブルに出し終えると、着きたくない椅子に座る。何とも居心地が悪い。自分の家ではないみたいだ。でも、今まで自分がいない間父と兄に囲まれて時間を過ごした淳哉の事を思うと、逃げてはいけないと必死に自分に言い聞かせる正子だった。
『いただきます』と独り言の様に言って食べ始めた正子に、隣の淳哉がそっと声を掛けた。
「ごめんね。急に俺までご馳走になっちゃって」
「いえ・・・大丈夫です」
このぎこちない会話に父と康介が釘付けになる。
「ご飯、口に合いますか?」
父が質問する。
「はい。凄く美味しいです。普段一人暮らしだから、ついお弁当とかラーメンとかになっちゃって。こういう家庭料理、懐かしいです」
「じゃ、良かった」
「それに、正子さんの手料理頂くのも初めてだから、嬉しいです」
正子は隣で何も聞こえないかの様な素振りで、ひたすらご飯を食べ続けている。その様子に、父と康介がまた釘付けだ。
食事の片付けをしに 正子が台所に入ると、父が淳哉に聞いた。
「まだつきあい出して、間もないんだよね?」
「はい・・・」
「正子は・・・広瀬君には・・・何でも話してる?」
「・・・どうでしょう。まだ・・・」
「そう・・・。あの子のお母さんの事は聞いてる?」
「はい」
「あ、そういう話はするんだね。ま、聞いたと思うけど、お母さんが病気になってから 我慢をする癖があってね。元々あんまり自分から自己主張するタイプじゃないけど、輪を掛けて籠る様になっちゃってね。可哀想だなと思ってるんだけど、男親じゃ 代わりにはなってやれなくてね。だから、まぁ今どきの子とはちょっと違うけど、支えになってくれたら有り難いと思います」
父が頭を下げた以上に、淳哉は深くお辞儀をした。
「こちらこそ、正子さんと大切におつきあいさせて頂きたいと思っています。少しずつゆっくり・・・」
そこまで淳哉が言ったところで、父が言葉を被せた。
「そう。ゆっくりね」
「はい」
台所で水仕事をしている正子には、二人が何を話しているのか、まるで聞こえてはいなかった。しかし真剣な表情で話している事だけが見えていて、気になっていた。
淳哉が帰る頃になって、父が康介に言った。
「そうだ。お前何か用事があったんじゃないのか?」
「あ、そうそう」
鞄から茶封筒を出して、父に差し出す。
「この間言ってた資料。目通しといて」
そして康介が淳哉に言った。
「俺横浜駅まで帰るんで、車乗ってって下さい」
お兄ちゃんと二人きりの車の中で、何を喋るんだろうと心配しながら、正子は玄関から二人を見送った。
車のエンジン音が遠ざかるのを聞きながら、片付けを手伝う父に、正子がボソッと言った。
「今日は・・・ありがと」
「・・・あぁ」
それ以上何も言わない父。正子は淳哉の印象を聞きたかったのだが、何も触れて来ない父に あえて聞けるほど勇気はない。黙々と手だけ動かす父と正子だった。
ある晩、淳哉から正子にメールが入る。夜中帰宅後の時間とあって、電話を控える淳哉。
『今日、お兄さんが店に来てくれた』
メールの着信音で目が覚める正子。最近はメールの受信の音で体が反応する。読んで目を丸くする正子。
『お兄ちゃんが?どうして?』
正子の心臓が、寝起きと思えない程早くなる。
『俺がどんな風に働いてるか、見たかったんじゃないかな。水商売だし』
お互いに起きているなら電話で話せばいいのだが、正子がかけてこないという事は、この距離感を大切にしようという淳哉なりの歩調の合わせ方だった。
『男は、仕事に対しての姿勢に その人となりが出るって言うから。妹に見合う男かどうか、見に来たのかもね』
『何か変な事言ってなかった?嫌な思いしなかった?』
その文章を読んで、淳哉が一人で笑う。
『仕事で近くに来たから寄ってみたって言ってた。気持ち良く2杯飲んで、帰ったよ』
正子の心に不安の渦が込み上げる。しかし淳哉の言葉で、そんな雨雲も晴れていく。
『まーこは家族皆から愛されてるんだね』
淳哉は続けて送る。
『この前、まーこの家族に会わせてもらって、それ凄く感じた』
家族の中にいると意外と分からない愛情。そのいつもの何気ない会話や正子の日常から、淳哉が感じたというのだから不思議だ。
『凄くいい家族だなって思ったよ』
『なんか良くわからないけど・・・ありがとう』
自分の家族を仲が悪いと思った事もないけれど、特別素敵とも感じた事はない。しかし、いい家族と言われ、やはり悪い気はしなかった。
『まーこの作ってくれたご飯も食べられたし』
思い出して、正子の顔も熱くなる。
『俺、家族皆で食卓を囲むなんてした事ないから、いいもんだなって思った』
『皆でご飯食べないの?』
『親父が帰って来る時間と、俺ら子供達の時間も違ってたし、兄弟皆塾とか部活とか遊びとかバイトでバラバラの時間帯で動いてたから、お袋は仕事から帰って来ると、帰って来た子供の順にご飯出す、みたいな生活だったからね』
その内容を読みながら淳哉の子供時代を想像すると、切ない風が胸に吹き抜けていくのだった。
『まーこのお陰で、初めての経験出来たよ。ありがとう』
いつも自分よりも何でも知っていて、全てにおいて経験値の高いと思っていた淳哉にも初めての事があるんだと、正子は新鮮な驚きでメールを読んだ。
『めっちゃ緊張したけどね』
その晩正子は、再び温かい満たされた気持ちになって眠りについた。




