第18話 組み合わせ
18.組み合わせ
人生初のデートをしてから一夜明けた火曜日の昼間、淳哉から返信が来る。
『昨日は帰ってから寝ちゃって、返信できなくてごめん。昨日はありがとう。また会おうね』
意外にあっさりとしている様に感じてしまう。どんな返事を期待していたんだと、正子は自分に問いかける。一年待ってようやく昨日初めてデートをして、手を繋いで歩いたり、キスまでしたというのに、こんなにあっさりと、たったこれっぽっちの文字数で終わりだなんて・・・そんな気持ちが、どうしても正子の心に湧いてきてしまう。仕事の合間の昼食休憩の時にメールをもう一度読み直す。そしてはっとする。嫌な事に気が付いてしまう正子。・・・昨日楽しかったとも何も書いてないのだ。ありがとうだけだ。・・・楽しくなかったのかもしれない。きっと私と一緒に居て疲れたのだ。だから疲れて寝てしまったのだ。最後の『また会おうね』は社交辞令に近い、〆の代わりの言葉に過ぎないのだ、きっと。そう思って読むと、全てが納得出来た。昨日の自分を振り返っても、楽しませられたとは到底思えない。それに、こちらが思ってる程、淳哉にとっては手を繋いだ事もキスした事も、全然大した事ではないのだ。きっと友達と握手をする位の感覚なのかもしれない。距離が縮まった訳でもなければ、私を凄く好きだって気持ちが溢れた訳でもないのだ。そりゃそうだ。相手は私だ。そんなに男の人が夢中になる訳がない。勘違いしそうになっていた自分を恥ずかしく思う正子だった。そう思うと、何て返信していいのか、もう言葉は浮かばない。どんな気持ちで、どんなテンションで次を迎えたらいいのだろう。恋愛を普通にしてきた皆は、こんな難関を恋愛の数だけ越えて来たのかと思うと、周りの人達が全員達人に見える。一体私がこのままメールも電話もしなかったら、淳哉はどれ位経って連絡をくれるのだろう。淳哉の気持ちを確かめたくて、少し連絡を待ってみようと思う正子だった。
土曜の昼間、淳哉からメールが入る。
『元気?最近連絡ないけど、何かあった?』
ようやく来た。これが正子の正直な感想だった。それにしても、会った日から5日も経っているのに、遅すぎやしないか?そう思う傍らで、5日位思い出さずにいられるという事なんだと思うと、悲しい気持ちも込み上げる。
『別に何もないよ。いつもと変わらない生活』
気持ちを隠して、何の温度も感じない文章を送る正子。
『シフト分かったら教えて。夜電話出来そうな日ある?』
すぐに日にちを教えそうになるのを抑えて、あえてクールなメールを一旦返す。
『今仕事中だから、また後でメールする』
本当は明日がお休みの日だ。だから今夜は電話が出来る絶好のチャンスなのに、あえて正子は言わないままにした。電話したい。本当なら今すぐにも声が聞きたいのに、淳哉よりも気持ちが先走っているとしたら恥ずかしい。それに、何も無かったみたいに電話でもクールに振る舞えるか、自分に自信がなかった。どんな風に話して、どんな距離感で付き合ったらいいのかが まるで分からないのだ。悩んだ挙句、正子は夜12時を回った頃短いメールを送った。
『明日お休みだった』
そう送っても、すぐの返信はない。仕事中だからだ。それは分かっている。しかし、2時半を回るまで一切返信も電話もない。『夜電話出来そうな日ある?』なんて聞いてきたけど、あれも社交辞令だったのかもしれない。そう思い始めて諦めかけた頃、淳哉から着信がある。深呼吸をしてから電話に出る正子。
「明日お休みなら、会える?昼間」
「会えない」
「・・・即答だね。駄目でもさ、もう少し考えるフリしてよ・・・」
言った後に はははと軽く笑う淳哉だったが、電話の向こうから正子の笑い声が聞こえず、すぐその笑いをしまった。
「どうしたの?元気ない」
「別に。普通だよ」
少ししてから、淳哉が声を上げた。
「あっ、俺がこの前すぐに返信しなかったから怒ってんの?」
「違うよ。だって寝ちゃったってメールに書いてあった」
「そうだけど、寝ちゃった事に怒ってるとか?」
「怒ってないってば」
「んん・・・そう。ま、じゃあ、何でもないならいいや」
淳哉が黙ると、会話が途切れてしまう。淳哉も暫く喋らない。様子を見ているのだろうか。それとも、楽しくないから会話が浮かんでこないのか・・・そんな事を不安に思う正子。すると、やはり淳哉の方が口火を切る。
「せっかく電話してんだから、何か話そうよ。この前の話とか、今日までにあった出来事とか」
「・・・別に・・・何も無かったし」
感情を抑えた話し方をすると、自分まで悲しい気持ちになる正子。
「何か・・・今日冷たいね、まーこ」
小さい溜め息が漏れる。
「この間、あんなに楽しくバイバイして、それからまだ一週間と経ってないのに、なんでこんなに変わっちゃうの?何もなくて、そう気持ちがコロコロ変わるもの?」
「・・・・・・」
正子に言い返す言葉などある筈もなかった。
「俺、分かんない事 分かんないまんまにするの嫌いなんだよね」
なんだか怖い言い方だ。じりじりと脅迫されてる気がする。
「ま、こんな事言ったって、まーこは強情だから 話すとは思えないけど」
今度は呆れて突き放された様な気がする。
「この前は楽しかった・・・よね?」
何故最後が疑問形なのだろうと気になってしまう正子。
「帰りの電車で気持ち悪くならなかった?」
「うん」
「お家の人に、叱られなかった?」
「大丈夫」
「今度、どこ行こうか?」
「・・・・・・」
「もう・・・会いたくないの?もしかして」
正子は言葉に詰まる。でも今詰まったら勘違いされると頭では焦るが、返事も出て来ない。
「明日って・・・何があるの?」
「何って・・・?」
「明日昼間、何か用事があるんでしょ?」
さっきの会話を思い出して、慌てて帳尻を合わせようと必死に頭を回転させる正子。
「家の・・・用事」
「家の用って、家族と出掛けるって事?」
「まぁ・・・」
とっさの嘘にしても、もう少し言いようがあった様に思える正子だった。
「どこ行くの?」
淳哉の追及が容赦ない。
「ご飯食べに行くだけ」
また小さいが淳哉の嫌いな嘘をついてしまった自分に、正子は溜め息をついた。こんな会話を繰り返していたって、愛情が深まるとは思えない。しかし何からどう話したらいいかも分からない。正子が、勇気を出して口を開く。
「この間、あっちゃん楽しかったのか分からなくて」
「俺、楽しくなさそうだった?」
「ううん。楽しそうだったけど・・・どんな気持ちなのかなって・・・」
「気持ち?だから、また会いたいねって言ったよね?」
「そうだけど・・・あれから5日も連絡なくて・・・私の事思い出さないんだなって」
「だって、元々まーこが返信ないんだよ?」
「だから・・・どの位平気なんだろうって・・・」
「駆け引きしたの?」
「駆け引き?」
淳哉の声色も急に変わり、正子の心臓も一気にピンと張り詰めた。
「まーこ、駆け引きなんかするんだね・・・。ちょっと・・・嫌だな」
駆け引きなんかしたつもりは無かったのに、いわゆる大人が恋愛した時に使うテクニックの一つを私が意図的に使って、淳哉の気持ちを試した疑惑が掛かってしまっている。
「これが駆け引き・・・なの?」
「そうでしょ?だって、分からなければ俺に直接聞けばいいでしょ。『楽しかった?』って。『どんな気持ち?』って」
「聞けないから、困ってたんでしょ」
「どうして聞けないの?俺に何で話せないの?」
「だって・・・初めて会って・・・色々あって・・・からかわれてるんじゃないかって思ったなんて・・・言えないよ。そうじゃなかったら、あっちゃん傷付けるもん」
「からかわれてるなんて思ってたの?」
「だって・・・あっちゃんは大した事じゃないと思ってるかもしれないけど・・・、私にはそうじゃないんだもん・・・。私なんかに、夢中になる訳ないし」
「大した事じゃないって・・・何の事言ってるの?」
「・・・・・・」
手を繋いだ事やキスしたというワードを自分の口に出すのがためらわれる。
「会った事自体を言ってるの?」
正子の返事はない。
「手繋いだ事?キスした事?」
こんなにあっさりと口に出す淳哉の言葉に、あの時の映像が甦ってきて、正子の顔がカーッと熱くなるのを感じる。
「どれも大した事じゃないなんて、思ってないよ。俺だって緊張してたし、恥ずかしかったし」
淳哉が続ける。
「からかわれたって思わせたなんて全然思ってなくて、それは悪かったと思うけど・・・普通に考えたら、好きな気持ちがあるから自然とああいう風にするんでしょ?」
正子も、どうしていつも疑ってしまうんだろうと 冷静になると思うのだった。
「私・・・あっちゃんと同じ分だけ、私も好きでいたいと思う。でも、あっちゃんの気持ちが分からないから、私もどんな気持ちでいればいいか分からない」
電話の向こうで、淳哉が呆れているのか、鼻で少し笑った声がする。
「なんでそう、ごちゃごちゃ難しくするんだよ・・・。自分が好きな分だけ、好きって表現したらいいでしょ、単純に」
少し考えてから、淳哉が明るく聞いた。
「じゃ、俺からも聞いていい?まーこはさ、手繋いだ時嬉しかった?」
「・・・わからない」
「分からないの?じゃ、質問変える」
淳哉が軽く咳払いをする。
「チューされた時、嫌だった?」
「・・・わか」
そこまで言いかけたところで、淳哉が待ったを掛ける。
「『分からない』って言うのは無しね。嬉しかったか、嫌だったか。どっちか」
時々めちゃくちゃ意地悪になる淳哉だ。正子が答えに困るのを分かっていながら、わざとこういう聞き方をする時がある。
「どっちでもない。何も感じてない」
「何も感じてないって、一番キツイよね、ある意味」
「・・・ごめん。そういう意味じゃなくて、覚えてないっていうか・・・。緊張で・・・」
そこで淳哉が質問を変えた。
「分かった。じゃ、また手繋ぎたいって思う?」
この質問もずるい。
「またチューしたい?」
畳み掛ける様に質問して、正子が返事をしなくて済む様な流れを作る淳哉。
「この間は、気持ちが盛り上がっちゃってしちゃったけど、まーこが嫌って言ったら絶対しないからね」
次の日、病院から一泊で帰って来ている母に、正子は淳哉と会った事を報告した。すると母は聞いた。
「思ってた通りの人だった?」
「うん。」
「楽しかった?」
「うん」
「良かったね」
母が優しい笑顔で、正子を包み込んだ。
今日は2回目のバーノスタルジックを訪れる日だ。仁美と一緒にドアの前に立つ。しかし今日も正子は、正体を隠しての来店だ。とは言え、淳哉の彼女だという事を隠すだけである。普通の客として仁美と二人で訪れた事にしてくれと、淳哉と口裏を合わせてあった。そうは言っても、やはり正子は緊張していて、また淳哉も正子が来ると思うと 心がどこかワクワクして落ち着かないのだった。
「いらっしゃいませ」
前回と同じ様に、仁美が先頭になって店の扉を開ける。カウンターの中から淳哉の明るい声が出迎える。
「いらっしゃいませ。どうぞこちら」
淳哉がカウンターの奥の席を勧め、二人はそれに従う。淳哉がその後ろの正子を見て、にっこりと微笑む。一番隅の席に正子が座り、その隣に仁美が腰を下ろした。店内に客はあと3人居る。
「また来て頂いて、ありがとうございます」
淳哉は二人の前に立って、礼儀正しくお辞儀をした。
「またギネスビールになさいますか?」
「え~!覚えてるんですか?」
仁美が驚いた顔をする。
「もちろんです」
「すごい。じゃ、ピスタチオも一緒にお願いします」
「かしこまりました。お腹は大丈夫ですか?空いてませんか?」
「アンチョビのパスタ、また作ってもらえますか?」
「もちろんです」
自然な会話をする仁美の隣で、正子がその様子をじーっと見つめている。約2週間前に初めてデートした淳哉と再会しているというのに、なんだか今日は少し落ち着いていられる気がする。それはきっと、隣に仁美が居てくれるという事と、淳哉とはカウンターを隔てているという2つの理由が考えられる。
ビールとピスタチオを出した後、淳哉は奥にパスタを作りに入っていく。それと入れ替わる様にして、マスターがカウンターの中に姿を現す。
「あれ、いらっしゃいませ。前に一回来て頂いてますよね?」
仁美の顔を見るなり、マスターが声を掛ける。
「はい。覚えてて下さったんですか?」
「初めてのお客様も嬉しですけど、2回目に来て下さるのが、本当は一番僕等嬉しいんですよ」
「へぇ~、なんだかそう言って頂けると、私達も来て良かったって思います」
「お近くなんですか?」
「全然近くないんです。近かったらもっと来られるんですけどね」
「え~、じゃわざわざ又来て下さったんですか。そりゃ嬉しいな」
マスターの笑顔が広がった瞬間、ドアが開いて客が入ってくる。
「おう、美樹ちゃん。いらっしゃい」
「こんばんはぁ」
その明るい声に常連客が一斉に見る。そしていつもの様に、客の間に自然と美樹の席が出来る。たいていカウンターの真ん中辺りだ。美樹が座るや否や、隣の常連が早速話し掛ける。
「最近よく来るよね。淳哉に会いに来てんの?」
その台詞を正子の耳がキャッチする。
「今日はね、お土産持ってきました」
「お土産?どっか行ってたの?」
マスターが対応する。
「この間の連休で、実家帰ってきて。これ皆さんでどうぞ」
お菓子の箱をマスターに渡すと、隣の席の常連が話し掛ける。
「美樹ちゃんいつものビールでいい?俺ご馳走するよ」
「ありがとうございます。じゃ、遠慮なく頂きます」
「淳哉~!」
常連が奥の淳哉に声を掛ける。それと同時に、マスターが奥に入って行く。カウンターに出てきた淳哉の顔が一瞬凍りつく。そして正子の方を見ると、俯き気味であまり表情が分からない。
「美樹ちゃんに俺からいつものビール出して」
「はい」
美樹のいつもの一杯目の生ビールを出す。
「お疲れ様です」
そう言って差し出す淳哉に、美樹が聞いた。
「元気?」
「・・・はい」
「そう。じゃ、良かった」
安心した様子で美樹がグラスを持って、隣の常連とグラスを合わせた。淳哉はビールを出すと、すぐに奥へと姿を消した。少しして、正子達の注文したアンチョビパスタを持って、再びカウンターの中へ姿を現す。
「お待たせしました」
差し出しながら、淳哉は正子の顔を見る。少し不安気な表情をしている正子だった。
マスターが先程の美樹のお土産を開け、そこの全員に一つずつお菓子を配る。
「私達まで、いいんですか?」
遠慮がちに聞く仁美に、美樹は満面の笑みで応えた。
「もちろんです。良かったらどうぞ。味見して下さい」
感じの良いその笑顔に、仁美も笑顔で返事をした。早速包みを開けて、食べてみる仁美とは対照的に、正子は手をつけずにいた。
「何で食べないの?美味しいよ」
皆が口々に『美味しいよ、美樹ちゃん』等と言う会話に紛れて、仁美がこそっと正子に言った。
「さっきの気にしてんの?あんなの飲んだ席での冗談でしょ。だから相手にもしてなかったじゃない」
それでも俯き気味の正子に、仁美が言った。
「バーテン目当てで来る客だって、そりゃ中にはいるかもしれないけど、あんたが広瀬さんの彼女なんだから、自信持って堂々としてればいいの」
アンチョビパスタを小さい口で食べる正子に、淳哉が寄ってきて声を掛ける。
「いかがですか?」
「はい・・・美味しいです」
「良かった」
目の前に淳哉がいるというのに、顔を上げようとしない正子。その場を取り繕う様に、仁美が質問する。
「他にもお薦め、何かあるんですか?」
「人気があるのは、チーズの盛り合わせと 自家製のハーブソーセージです」
「自家製?」
「そうなんです。うちのマスターがスモークにハマってて、それで一からハーブの配合とかこだわって出来たメニューです」
すると、仁美の席から一つ空けて座る客が、その会話を聞きつける。
「そうそう、あれ旨いよ。マスターのこだわりの逸品だからね」
「え~、それ聞いたら食べてみたくなっちゃった。頼む?」
正子の返事を待つ仁美。
「うん」
「あっ、そしたらさ、それにチーズのスモークしたヤツも付けてよ。伝票は俺の方でいいから」
隣の客が言う。
「え・・・いいんですか?」
「いいのいいの。旨いから食べてみてよ」
注文を受けて淳哉が奥へと入ると、今の客が仁美に話し掛けた。
「そのアンチョビパスタも、もう裏メニューじゃない位浸透しちゃったから、正規のメニューにしちゃえばいいのにって言ってんだけどね」
「へぇ。確かにこのパスタ、ほんとに美味しいですもんね」
「淳哉はさ、・・・あ、今のバーテンね、若いけど味覚のセンスがいいんだと思う。それだって、ある時客の要望に応えて、淳哉がある物でパパッと作って出したのが始まりだしね」
「凄いですね」
きっと昔から来ている常連客なのだろう。親切に色々教えてくれる。その客がトイレに席を立つと、その向こうに座る美樹が見える景色へと変わる。仁美はすかさず美樹へ声を掛ける。
「さっきのお土産、御馳走様でした。凄く美味しかったです。ご実家って宇都宮なんですか?」
「宇都宮餃子煎餅買って来たら、すぐ分かっちゃいますよね。でも、実は宇都宮ではなくて、栃木でも もう少し鬼怒川に近い方なんです。温泉まんじゅうより、飲む方達には餃子煎餅のがいいんじゃないかと思って、新幹線の駅で買いました」
「あの・・・昔からの常連さんですか?」
「私?」
仁美と美樹が会話をしている様子を、正子はじっと見つめていた。
「私、学生の頃ここでバイトさせてもらってたんです」
「あぁ、そうなんですか。だから皆さんとも親しいんですね」
その時、先程の客がトイレから戻ってくる。
「特に淳哉とは親しいんだよな」
「ま~た そういう事言う」
そうあしらわれたが、今度は仁美達の方へ顔を向けた。
「さっきのあのバーテン、美樹ちゃんの元彼」
きっと仁美と正子の二人が同時に目を見開いたのだろう。そのリアクションに満足した客が上機嫌な顔をすると、美樹がちょっと厳しい顔をする。
「お客さんには関係ないでしょ。そういう昔の事言わないの」
酒の上の冗談ではなかった。美樹も否定しなかったのだから。急に心が雨雲に覆われた様な気持ちになる正子。
「本当に昔の事?今でも続いてるんじゃないの?この間も ここの帰り、一緒に帰ってるとこ見たんだよ、俺」
「どっから覗いてるのよぉ!声掛けてくれたらいいのにぃ~」
「二人っきりの時間、邪魔しちゃ悪いと思ってよぉ」
「な~に変な気遣ってるの?やめてよね」
「どっから見られてるか分かんないんだからね。気を付けてよ、路上のラブシーンは」
聞いていられず、トイレに立とうとする正子の腕をそっと仁美が引き止めた。美樹と客の二人の掛け合いは続いている。
「そんなのある訳ないでしょ!ここの帰りに、マスターに言われて送りに来ただけ。家の前まで送ってくれただけです」
何も知らない淳哉が、奥から出て来て正子達の前に立つ。
「お、噂をすればだ」
常連のその台詞に淳哉が反応する。
「何の話ですか?」
話題を遮る様に 美樹が鞄から財布を取り出す。
「私がいると営業妨害になりそうだから、帰るね。お会計して」
訳が分からないまま、淳哉が美樹の勘定をする。支払いをしている美樹と、カウンターの中の淳哉の二人を同時に眺めながら、正子はふと自分だけ遠い世界にワープした様な気持ちになる。
「ご馳走様。じゃあまたね」
そして奥のマスターにも声を掛ける。
「マスター、どうも。また来ます」
「気を付けて帰ってよ」
奥から顔だけ覗かせて挨拶を返す。そして美樹は、最後に仁美達に声を掛けた。
「さっきの話は気にせず、またいらして下さいね。じゃ、お先に」
笑顔でぺこりと頭を下げて美樹が店を出た後、正子がぽつりと言った。
「素敵な人」
仁美も無言で頷く。すると正子の言葉は続いた。
「お似合いですね・・・」
その声をキャッチした淳哉が、驚いた表情で正子の顔を見る。そして状況を把握しようと必死なのが分かる。すると常連がおずおずと手を上げて見せる。
「俺、話しちゃった」
淳哉の表情が固まる。
「まずかった?」
キョロキョロ淳哉と仁美達と両方を見る客。
「ま、この店じゃ知らない人は居ない話だからね。せっかく来たお土産話にと思って」
嫌な雰囲気になるのを恐れて、仁美が明るい相槌を打つ。
「そうなんですかぁ。色々ありますね、人間模様」
「あ、分かってくれる?そうよ、その位軽~く聞き流してくれないとぉ」
正子はすっと席を立ち、トイレへと逃げ込んだ。
「山根さん・・・」
淳哉が一言言おうとした時、店のドアが開いて 賢が入って来た。
「どうも」
「いらっしゃいませ」
賢の後ろには、彼女である愛の姿があった。二人が空いてる席に座ると、淳哉が接客する。
「いらっしゃいませ。賢はいつものビールでいい?」
「うん。お前何にする?」
「ジンライム」
そんなやり取りをしている間に、マスターが仁美の所へ先程注文したハーブソーセージを持って現れる。
「お待たせしました」
「うわぁ~美味しそう」
少しして戻ってきた正子に、仁美が明るい声を掛けた。
「めっちゃ美味しいよ。待ちきれずに食べちゃってごめん。ほらほら、早く食べてみなよ」
一口食べた正子も笑顔になる。
「でしょ?そうなっちゃうよね。マスター、本当に美味しいです。最高」
「ありがとうございます。こちらのチーズも召し上がってみて下さい」
「これ、カマンベール・・・ですよね?」
ナイフで一口サイズに切ると、中からチーズがとろけ出す。
「いただきま~す」
隣の山根という常連と、目の前のマスターに挨拶をしてから 大きな口を開けてぱくりと食べる仁美。
「ん~」
顔を皺くちゃにして美味しさを表現する。正子にも食べてみろと、肘でつつく。小さい一口を食べて、正子は目を見開いた。仁美と二人で顔を見合わせ至福の表情だ。仁美はフォークを持ったまま、美味しさに悶える。
「何これ。こんなの初めて食べる」
「そんなに喜んで頂けて、光栄です」
そんなやり取りをする三人を遠くから見ながら、淳哉は笑顔の正子を見て 少しホッとしていた。
仁美は隣の山根に改めてお礼を言った。
「チーズ、御馳走様でした。お陰で最高に幸せな気分を味わいました」
「そう?良かったよ」
その頃、賢の隣の愛がジンライムのおかわりを頼む。作って出す姿を眺めている正子達に、山根が解説を始めた。
「一番端に座ってるのが、淳哉の友達。その隣の彼女が・・・魔性の女」
「魔性の女?」
仁美の反応が早い。打てば響く太鼓の様な仁美に、山根もその気になって話を続けた。
「あの彼女は、淳哉の元カノ」
「え?」
仁美の隣でもう一人驚く顔を見付け、山根は解説を続ける。
「そう。分かった?」
「え?じゃ・・・友達に彼女取られたって事?」
「ま・・・彼女が乗り換えたって言い方もあるけどね」
「あ・・・まぁ」
「でも、凄いよな。あの男二人の友情は壊れてないわけよ」
「へぇ~」
「普通、おかしくなるでしょ?」
「・・・でしょうね」
「そこがね、凄いとこよ。どうやって上手く乗り換えたのか。でね、今でも こうやって元彼の店に今の彼氏としれっと来る感じ、凄いよね~。それで俺の中で『魔性の女』って呼んでんの」
正子は山根の話を耳で聞きながら、目は愛に釘付けになっていた。山根が『魔性の女』と呼ぶ その彼女は、先程の美樹とも又タイプが違って 大人のムードや色っぽさがある。ブランド物のバッグをさり気なく持ち、シックなリングやピアスがとても似合っている。正子との共通点は全く無さそうなタイプで、きっと世の中の両端に位置する二人で、きっと一生関わる事のない人種の様に感じる。その人が淳哉の元カノとは・・・。
「あのバーテンさん、モテるんですね」
仁美が山根に聞く。
「そりゃそうよ。気が利くし優しいしね。今の女の子は尽くされたい子が多いから、モテんじゃない?」
「彼目当てで来る女性のお客さんもいらっしゃるんですか?」
「どうかな・・・。いるかもしれないけど、皆ここは友達みたいに仲良く喋るから、区別はつかねえや、俺は。淳哉が裏で上手い事口説いてるかも分かんねえし」
「裏で?」
仁美が突っ込む。すると、山根が声を上げて笑った。
「まぁ、淳哉はそういうタイプじゃないけどね」
山根の上げた笑い声と最後の会話が淳哉の耳に届いたのか、淳哉がこちらを向く。
「あ、俺また淳哉に怒られちゃう。さ、帰ろ、帰ろ」
悪びれた様子で首をすくめる山根の奥で、沈んだ表情をしている正子に気付く淳哉。
勘定を済ませた山根が店を出た後、仁美も時計を見る。
「そろそろ・・・帰ろっか?」
「うん」
傍に居たマスターが会計の為に二人の前に行く。
「美味しかったです。ありがとうございました」
仁美の台詞に合わせて、頭だけ下げる正子。
「またいらして下さい」
「はい」
カウンターの端から淳哉が二人に頭を下げた。
「ありがとうございました。お気を付けて」
二人が店のドアを出て 駅の方へ歩き出そうとした所へ、裏口から出てきた淳哉が走って声を掛ける。二人は振り返って立ち止まった。
「今日はわざわざありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、美味しく頂きました」
そう返事をするのは仁美の方だった。隣で少し仁美に隠れる様に立つ正子は、顔を上げようとはしなかった。淳哉は正子の方だけを向いて言った。
「俺の一番仲の良い友達が来てるんだ。紹介したい。いい?呼んできて」
「やだ!絶対やだ」
即座に仁美の後ろに身を隠す正子。
「もう・・・遅くなるから、帰ります」
そう言うと、正子は仁美の袖を引っ張った。戸惑う仁美が代わりに謝る。
「あ・・・ごめんなさい」
「お客さんから色々話聞いたのかもしれないけど、俺は何もやましい事は無いし」
そう話が始まったところで、仁美が一瞬の隙に割って入る。
「私、先に駅行ってる」
気を遣ってその場を離れようとした途端、正子が仁美にしがみついた。
「やだ、仁美。行かないでよ」
「ここは逃げちゃ駄目だって」
仁美がなだめる。しかし正子は淳哉に背を向けて首を振った。
「やだよ。今どうしていいかわかんないから、やだ」
淳哉が仁美に言った。
「あ、居てもらっても大丈夫です」
仁美が淳哉に会釈をして、正子の腕をさすった。
「居るから、大丈夫。まず、こっち向こう」
正子がようやく淳哉の方を向いたところで、一言だけ話す。
「せっかく来てくれたのに、昔の話を聞かされて嫌な思いさせた事は謝る。ごめん。でも・・・・今の俺を信じて欲しい」
もちろん返事は無い。
「後で電話する」
「明日・・・仕事早いから」
「それでも電話する。出なかったらメールするから」
正子の気持ちは複雑だった。淳哉の気持ちを疑った訳じゃない。ただ立て続けに二人の元カノを見て、自分には無い物を持った二人に 勝手に劣等感を強めてしまっただけだ。淳哉が好きになった人、淳哉と気持ちを通わせ合った人、二人共女性として凄く素敵に見えたのだ。そう思えば思う程、正子は何故淳哉が自分を選んでくれたのか分からなくなるのだった。そして店で貰った餃子煎餅の包みをじっと眺めながら、正子はあの時の美樹の聡明で快活な印象を思い出すのだった。
仕事を終えたと思われる いつもの2時半近くに、淳哉から電話が掛かる。まだ起きていた正子だったが、淳哉と平常心で話せる自信がない。すると、すぐにメールが入る。
『山根さんから どう聞いたか教えて。自分の過去だから隠すつもりはないけど、間違って伝わってたら嫌だから』
返信しないで、このまま寝たふりをしてしまおうか・・・。でも それは自分の弱さを言い訳にして自分を守り、淳哉を不安にさせる事になる。自分よりも大切にしたいと初めて思えた人の筈なのに、やはり 何かあるとすぐ自分を守る為に殻に逃げ込もうとする卑怯な自分がいる。しかし、ありのまま、格好つけずに自分の思っている事を話してみたらいいんだと、背中を押す自分も半分いる。電話は勇気がいるけれど、メールなら話せそうな気がしてくる。
『みきさんがあっちゃんの元カノだって事と、カウンターの一番端に座ってたお友達の連れてた彼女も あっちゃんの元カノだって聞きました』
ただ事実だけを並べた文章を送信する。すると、すぐに淳哉からメールが返ってくる。
『どちらも嘘ではないけど、まーこはそれ聞いてどう思ったの?』
メールを打つ指が重くなる。どう伝えたらいいのだろう。正直に・・・正直に・・・それだけを正子は心の中で繰り返した。
『二人共、素敵な人だった』
淳哉の返信が早い。
『で?』
淳哉には、その後の気持ちがある事など見抜かれているのだ。
『あっちゃんと、お似合いだなって思った』
『それって、悲しいね。彼女に 元カノとお似合いって言われんの、複雑』
淳哉からのメールを読んで、そりゃあそうだと初めて気付く。また自分の事しか見えてなくて 人の気持ちが分からない自分を嫌いになる。
『また傷付けたね。ごめんなさい』
正直に話すと大好きな人を傷付ける。話さなくても傷付ける。どうしたらいいのかが、分からなくなりかけているところへメールが返ってくる。
『正直になると、お互いに傷付く事もあるけど、それを二人で越えたら絆が強くなると思う。だから、もう少し話して欲しい』
迷路に入り込みそうになっている正子にストップがかかる。
『あっちゃんの気持ちは分かってる筈なのに、なんであっちゃんが私なんかと付き合ってくれてるのかが分からない。あんなに素敵なみきさんや 大人っぽいもう一人の方と、どちらとも何の共通点もない私なのに、どうして?って思ってしまう。やっぱりあっちゃんとは住む世界が違ってたんじゃないかって思ったら、悲しくなってしまいました。ごめんなさい』
『どうしていつもまーこは、私なんかって言うの?そんなに自分は価値の低い人間だと思ってるの?』
『取り柄もないし、人間としても女性としても魅力がないから』
『じゃ、俺は人を見る目がないって言いたいんだね?それとも、物好きって事か?』
正子の指が止まる。淳哉に失礼な事を言った事に気付く。
『まーこはいつからそんなに自信がないの?』
正子の指が止まったままだ。いつからだろう。そんな事 聞かれた事も考えた事もなかった。淳哉の質問が続く。
『誰かに駄目だって言われたの?』
『そうじゃない』
分かる事にだけ答える正子。
『じゃ、まーこは自分に厳しいんだね』
また正子の指が止まる。
『俺の事見る目も厳しいの?減点法式で俺の事採点してる?』
『そんな風に見てない!』
慌てて返信するも、淳哉からの返しも早い。
『無意識に自分に厳しい人は、人も厳しい目で見る癖があるんだよ。きっとそのうち、俺の事も嫌いになるんだね。俺だって、そんなに立派な人間じゃないから』
また正子の指が止まる。・・・というより固まったという方が正しいだろう。もう正子の中に、何も言葉が浮かばなかった。淳哉に指摘された言葉が胸に突き刺さる。元はといえば今日、淳哉の元カノ二人を同時に見てしまった衝撃から始まった事だったが、いつしか自分の根深く治りにくい どうしようもない性格を見透かされ裸にされた様な気分だった。自分でも知らなかった自分の奥底に眠る根っこを引っぱり出され、正子は戸惑っていた。淳哉が言う様に、淳哉の事を嫌いになる日なんか来るのだろうか・・・。今はまるで想像が出来ない。嫌われる事はあっても、嫌いになる事なんかある訳がない。昔からそうだ。一度好きになった物を嫌いになった事はない。小さい頃大事にしていたぬいぐるみだって、ボロボロになっても繕いながら大人になっても可愛がっていたし、大好きだった絵本も、未だに大事に取ってある。好きな食べ物だって昔から変わってない。しかし、そんな幼稚な理由を淳哉に言ったところで、何の説得力もない事も分かっている。正子は、ただ一言だけ送った。
『私があっちゃんを嫌いになる事はない』
『じゃ、俺も』
そう返って来たが、きっとノリで答えたのだろうと軽く受け流す正子。自分の言葉には根拠があるが、きっと淳哉は違うと思い込む。すると、それをも見透かしたようなメールが追い打ちを掛ける。
『信じないだろうけど、信じて』
思わず、それを読んでぷっと吹き出してしまう正子。淳哉には人を自然と笑顔にする力がある様に思う。さっきまで暗いどん底にいた自分が、今は吹き出して笑っているのだから。自分にないものを持ってる淳哉に、きっと惹かれたのだと思うと、少しは元気が出る。電気だってプラスとマイナスがくっついて初めて電気がつく。磁石もN極とS極があって引かれあう。一日も昼と夜があって24時間だ。きっとこの組み合わせでいいのだ。この組み合わせがいいのだ。私を活かしてくれる相手が淳哉なのだ。だから私も、淳哉を輝かせる自分にならなきゃいけない。そんな事を急に思うと、さっきまでの自分は嘘の様に居なくなって、俄然前向きになる。
『私、頑張る。あっちゃんとずっと組み合わせてもらえる様に、頑張る』
突然前向きな内容の 少し意味不明なメールに、淳哉は首を傾げながら笑った。