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嘘と愛のかけら  作者: 長谷川るり
17/24

第17話 運命の日

17.運命の日


「俺、これからまーこって呼ぶ」

初めてだった。今まで誰かにあだ名で呼ばれた事なんか無かった正子は、新鮮な気持ちになる。

「次のお休みいつ?デートしようよ」

恋人同士なのだから、当たり前の会話だ。しかし正子の心臓がドキンと飛び跳ねた。日にちを言ってしまったら、運命のその日が来てしまう。正子が一向に返事をしないでいると、淳哉が質問を変えた。

「まず、どこに行くか決めよう」

そうか。デートと一口に言っても様々だ。

「まーこ、どこ行きたい?」

「どこでも・・・」

レパートリーが無いのだから、いきなり聞かれても答えられない。せめて何択かにしてもらいたい。そんな事を心の中でぼやいていると、淳哉が一人で続けた。

「何か美味しい物、食べに行こうか?」

「うん」

「何食べたい?」

初デートに相応しい食事は何なんだろう・・・パスタは綺麗に食べるのは難しい。トマトソースが服に跳ねたり、口の周りに付いたら 目も当てられない。ナイフとフォークの店も駄目だ。淳哉に緊張しながら 食事にも緊張したら、きっと何を食べたか分からなくなる。和食か・・・寿司はどうだ?でも値段が高くなると、割り勘なのか どうなのか気まずくなりそうだ。中華はどうだろう・・・ラーメンしか思いつかない。ズルズル音を立てて食べたら嫌われてしまうんじゃないか?そんな事が正子の頭の中をぐるぐる回り続けている間に、しびれを切らした淳哉が言った。

「好きな食べ物ないの?」

こういう時に決められないと、優柔不断だと思われて嫌われてしまう。焦った正子は慌てて答えた。

「何でも。あっちゃんが好きな物でいいよ」

「じゃ、ご飯はやめよう。どっか出掛けよう。インドア派?アウトドア派?」

インドアもアウトドアもない。遊びに出掛けた経験自体があまり無いのだから。自分がどっち派なのかも分かっていない。でもきっとアウトドア派でない事は確実だと思う。しかし、多分淳哉はアウトドア派だ。

「どっちでも」

「じゃ、ボーリングは?」

「うん・・・」

「得意?」

「ううん」

得意かどうか、やった事がないのだから分からない。

「じゃあ・・・映画に行く?今何やってんだろう」

映画・・・暗い中で隣に座り、手を握られたりするやつだ。それを想像しただけで、正子は手に汗をかいてしまう。汗でベトベトの手にびっくりされて、引いてしまうかもしれない。そんな心配をして、返事も曇る。

「じゃあ・・・ハイキング行く?山登りとか?」

「え?あ・・・うん」

「それとも、水着で入る温泉みたいな所は?」

「水着?・・・うん」

思わず声が上ずってしまうが、必死で返事を返す正子。何だかどんどん淳哉の提案が、凄い方向に進んでる気がする・・・正子の胸が不安でいっぱいになると、淳哉が見かねて言った。

「何でも『うん』って言ってたら分かんないよ。嫌なら嫌だって言っていいんだよ。このまま流されてたら、まーこ 知らない人にホテルに誘われても行っちゃいそうだな」

「ホっ・・・!」

目が落ちるかと思う程見開いたまま、固まってしまう正子。

「二人で行きたいと思える所、探そうよ」

「うん・・・でも、わかんない・・・」

小さい子供が 困って今にも泣き出しそうな声である。

「それって、俺とはまだ会いたくないって事?どこか行こうって話しててもワクワクしてこない?」

「わかんない・・・」

「何?わかんないって」

どう説明したらいいかが分からない。自分の気持ちを言葉にするのは苦手だ。正子が返事をせずにいると、淳哉が淋しそうに言った。

「俺だけがはしゃいでるみたい・・・」

そうではない。決してそんな事は無いのだが、正子の表現力が乏し過ぎる。

「そんな事ないよ。私も少しは楽しみだけど・・・それ考えただけで緊張しちゃって・・・」

淳哉がくっくっくっと笑った。

「『少しは楽しみ』って・・・なんか微妙な言い方。普通 凄く楽しみだけど・・・とかって言い方しない?」

「ごめんなさい!」

「じゃあ、もう少しまーこが会いたくなるまで待とう。目標は11月の誕生日」

「え・・・」

「何?今度は残念だなって声してる。もしかして、まーこはあまのじゃく?」

「・・・ごめんなさい」

「一年待ったんだから、あと何ヶ月かだって待てるよ」

「一個・・・聞いていい?」

「何?」

正子は深く息を吸って、正座をした。

「もし会って・・・あっちゃんが私とは無理だなって思ったら、その日に別れようって言われるパターンもある・・・?」

語尾に 恐る恐る聞いた感が出ていた。淳哉はゆっくりと息を吐いてから、返事をした。

「ないよ。さっきから、そんな事ばっかり心配してたの?」

「だって、あっちゃんが思ってる様な女の子じゃないよ、多分私」

淳哉が大口を開けて、声高らかに笑った。

「俺がどんな風に思ってると思ってんの?」

「それは・・・」

「手紙にも書いてあったでしょ?GパンTシャツスニーカーの飾りっ気のない女の子でしょ?」

「そうだけど・・・全然可愛くもないし、女の子っぽくもないし・・・」

「平気だよ。俺好みにしちゃおうと思ってるから」

「でも、顔は変えられないし・・・」

「女の子は恋すれば可愛くなるから」

「え・・・」

今度は淳哉がくっくっくっと笑った。

「今照れたでしょ?そういうとこ、めっちゃ可愛いよ」


「どうしよう!約束しちゃった!」

仕事が早番で上がった正子が、仁美の会社の近くまで会いに行っていた。

『残業なしで上がるよ~』というメールを貰って、会社の目の前で出待ちしていた。仁美が出てくるなり、飛びつく様に捕まえて、開口一番そう言った。

「良かったじゃな~い」

仁美は余裕の笑顔だ。他人事だと思って・・・と、正子はじれったく思う。

「来週の月曜だって。どうしょう。一週間しかない」

「ありのまま見せてきな。最初が肝心だからね。初っ端から格好つけちゃうと、後がもたないから。長~く一緒に居たいなら、悪い事言わないから、初めっから自分を出す事だね」

もっともだという事は重々承知だが、それは自分に自信のある人が出来る事だと、心の中で秘かに反論する。

「新宿で5時に待ち合わせだって。飲みに行こうって」

まるで決戦の日を伝える様な力み方に、仁美が少々吹き出す。

「行ってらっしゃい」

そしてにっこりと笑う。

「仁美!一緒に来てよ!」

目をむいて、大口を開けて笑い飛ばす仁美。

「初デートに保護者ついてく奴、どこにいんのよ。それこそ台無しになるわよ」

「だって・・・どうしたらいいか分からないもん」

「どうしたらって・・・お酒飲みに行くんでしょ?お酒飲んでご飯食べて、お喋りして・・・分からなくないでしょ?」

「だけど・・・」

「あ、一つアドバイス。お酒は、自分の飲み慣れてる物にしなさいよ。何でもはいはいって合わせて飲んだら、正子強くないんだから、ぶっ倒れちゃうよ。それだけ気を付けてね」

「食べ物は?」

「好きなの食べなさいよ」

「海苔が歯につかなさそうな物とか・・・食べにくそうな手羽先とかはパスとか・・・」

「何だって平気だよ。きっと歯についてたら、優しく教えてくれるって。それで後から笑い話にしちゃったりしてさ。そういう気遣いが上手そうだもんね。大丈夫だよ。彼に身を任せて、楽しんできな」

「あとさ・・・トイレって・・・行っても平気?」

「人間なんだから、皆生きてる限りトイレは行くの。女子はトイレには行かないなんて妄想持ってる27歳いないから大丈夫。安心してビール飲んで、行きたいだけトイレ行きなさい」

まるでお母さんの様な貫禄と安心感を与えてくれる仁美が、正子には心強かった。


 約束の前日正子は、明日は仕事が早朝からだと言うのに、夜中まで起きていて 淳哉に電話を掛けた。

「まだ起きてたの?明日早いんでしょ?大丈夫?」

「だって・・・眠れなくて・・・」

電話の向こうでくすくすと笑う淳哉の声が聞こえる。

「だよね」

「明日は、5時にアルタの方の出口の交番の前だよね?」

「うん。着いたら電話する。そしたら多分会えるよね」

「わかった」

「ちなみに、俺は眼鏡かけてるからね。多分Gパンはいてく。シャツはまだ決めてないけど。まーこは?GパンTシャツ、スニーカー?」

「・・・ワンピースとどっちがいい?」

「どっちでもいいよ。まーこが好きな方」

「・・・どっちが好き?」

「まーこらしいのはどっち?」

“らしい”のは完全にGパンの方だ。しかし、せっかく女の子らしくなりたくて買ったワンピースを この日の為に着なくていつ着るのだ。

「花柄のワンピース着てく」

「分かった。でも、あんまりかかとの高い靴は履いてきちゃ駄目だよ」

淳哉の声が嬉しそうだ。

「楽しみになってきた?」

「・・・・・・」

正子は不安がいっぱいで、それどころではない。

「まだ眠れそうもない?大丈夫?明日仕事」

正子はずっと気になっていた事を、恐る恐る淳哉に質問した。

「明日会ってから・・・どうするの?」

「え?飲みに行くんでしょ?・・・嫌?」

「ううん。それは分かってるんだけど・・・」

「あ、どんなお店に行くか知りたいの?」

「・・・あっ・・・と、その後とか・・・」

「あぁ、会ってからの予定を知りたい・・・って事?」

淳哉が言葉にして言うのを聞くと、何と馬鹿な質問をしてしまったんだと、恥ずかしくなる。

「ごめん。いいの、いいの。忘れて」

「行こうと思ってるお店は、炉端焼きみたいな居酒屋。いけすに入ってる魚とか海老とか貝とかを生きたまま焼いてくれたり調理してくれる店。どう?」

「うん」

「で、その後は・・・決めてない。色々話しながら、歩きたいなって思ってる」

「うん・・・」

急に不安な声になる正子。

「大丈夫だよ。変な所連れて行かないから」

そんな事を心配したんじゃないのに、淳哉がそんな事を言うから、急に心臓がバクバクし始める。黙ってしまった正子に、淳哉が言った。

「もし万が一変な所に行きそうになったら、まーこ走って逃げればいいよ。車じゃないから、出来るでしょ?新宿なら、誰かに聞けば必ず駅には着けるし」

「・・・・・・」

「ま、そんな事には絶対ならないから心配しなくていいよ。帰りも駅まで送るし」

「・・・うん」

「あ、そうだ。まーこの家、門限ある?」

『ない』と答えたら何時までになるのだろう・・・果たして家に帰ってくる事は出来るのか?そんな心配をしていると、淳哉が見透かしたように付け足した。

「決まった時間があるなら、それに間に合う様に電車で帰さないといけないから。特別無いなら、まーこが何時に帰りたいか教えといてくれたら、その時間は必ず守るよ」

一つ一つ、一歩一歩歩調を合わせてくれる感じが、正子にはとてつもなく嬉しかった。

「12時には家に帰ってたい」

「わかった。じゃ、ちゃんとお母さんに帰る時間言っておくんだよ。普段そんな遅くなる事ないでしょ?心配しちゃうもんね」

正子の緊張がほぐれる事は無かったが、少し明日の様子が想像できてくると、気持ちも段々に落ち着いてくる。

「楽しみにしてるよ」

「うん」

「絶対来てよ」

「あっちゃんもだよ」

「俺は行くよ。何があっても行くから」

正子が一年前から一番恐れて 又一番待っていた日が、とうとう明日なんだなぁと考える。すると淳哉が急に声を上げた。

「急に怖くなって、会えないって可能性・・・ある?」

「・・・・・・」

「いいよ。それでもいいから、そしたら電話ちょうだい。俺ずっと待ちぼうけは悲しいからさ」

「うん」

「直前になって怖くなったら、正直に言ってよ。そしたら又別の機会に会う約束しようね」


 当日、5時の待ち合わせよりも20分早く新宿駅に到着してしまう正子。駅のトイレで最終チェックを済ませ、落ち着かない気持ちを持て余し不必要にウロウロする正子だった。時間がなかなか進まないので、交番の前へ恐る恐る姿を現してみる。まだ淳哉の姿は無い。実は正子が淳哉の顔を知っているという事実を、まだ淳哉は知らない。しかし、あの時お店で見た顔を、今この人混みの新宿で探せるだろうか。私服を着た淳哉の事を、正子はすぐに見つける事が出来るのか・・・そう考えると、段々に自分の記憶にも自信が無くなってくる。

 そんな時、メールの着信がある。異常な程の反応で、正子は鞄から携帯を取り出す。相手は仁美だった。

『いよいよ人生初のデートだね。楽しんできてね』

緊張がピークに達している正子には、絶好の緩和剤となる。いよいよ待ち合わせの時間が近付いてくると、また一つの不安材料が頭をもたげてくる。初めて顔を合わせた時、何て挨拶したらいいんだろう。初めましてか、こんにちはか。でももう夕方だから こんばんはだろうか。仁美に電話して聞こうか・・・でも、まだ5時前だから 仕事中だ。そんな事を頭いっぱいに抱えて、正子は少し人混みの方へ視線を向ける。まだ淳哉らしき人物はいない。その時ふと、また嫌な予感が胸をよぎる。こうしている私をどこかから見つけて、好みではないからと 帰ってしまったらどうしよう。もし5時過ぎて電話が掛かって来なくても、自分から掛けるのはよそう。それが淳哉の答えという事もあるのだから・・・。正子はキョロキョロ辺りを見回し、自分を見ていそうな視線を探すが、今のところ誰もいない。その時、電話が着信を受けて震えている。恐る恐る画面を確認すると、その主は淳哉だった。

「もう着いてる?」

歩きながら話している様な息づかいだ。

「うん」

「もうすぐ着く。交番の前にいる?」

「うん・・・」

「大丈夫?緊張してる?」

話しながら待ち合わせの場所に来るつもりの様だ。電話を耳に当てたままキョロキョロしてしまう正子。すると、横断歩道の方から必死に歩いてくる淳哉を 正子の瞳が捉える。ぽかーんとしたまま、開いた口が塞がらない。勝手に時間が止まってしまう。耳元で淳哉が話し掛けている声も聞こえない。

「まーこ?もしもし?聞こえてる?」

ようやく聞こえてきた淳哉の声と、視界の中の淳哉の口元が 同時に重なる。淳哉も必死で探している様子だ。正子の視線が淳哉に釘付けになっていたからか、視線を感じ こちらを見る淳哉と視線が合う。

「まーこ?」

見つめたまま名前を呼ばれ、硬直する正子。返事をする事すら忘れていると、再び淳哉の声がする。

「もしもし?」

返事をしたら自分だと一瞬で分かる。しかし、それが今更怖くてためらわれる。自分は何しに来たのか?淳哉に会う為だった筈なのに、何故今になって 自分だと分かってしまう事を恐れているのか?

(仁美・・・どうしよう・・・)

正子はとっさに背を向け、心の中で叫んだ。すると先日仁美に言われた『彼に身を任せて楽しんできなよ』という声が聞こえた様な気がする。

 正子から返事のない電話を淳哉は切った。暫くして切れた事に気付き 電話を耳から離すと、再び手に持った携帯が震える。淳哉からだ。振り返るが淳哉の姿が無い。キョロキョロしながら電話に出ると、その途端目の前に淳哉が現れた。

「まーこ」

「あっちゃん・・・」

「どうしてさっき、返事しなかったの?」

冗談気味に膨れっ面をしてみせる淳哉。

「ごめんなさい・・・」

電話をポケットにしまうと、淳哉が言った。

「行こっか」

そう言って、返事を待たずに 淳哉は正子の手を握り、歩き始めた。またまた硬直したまま、呆気に取られて引きずられる様に歩く正子に、淳哉がにっこり笑顔で言った。

「もう逃げられない様に、手繋ぐよ」

当然返事など返ってこない。そんな余裕はない。しかし、淳哉が沈黙を作らず話題を差し出す。

「待った?何時頃着いたの?」

「15分位前かな」

「じゃ、けっこう待たせちゃったね。ごめんね」

手を繋いでるから距離が近い。すぐそこに、淳哉の顔がある。横を向いたら、淳哉の顔にぶつかってしまうんじゃないかと思える程だ。正子はただひたすら、下を見て歩いた。相槌も返事も、全て下を向いたままだ。嫌な汗をかきそうだが、そんな事を考えれば考える程、体が言う事を聞かなくなりそうで、正子は静かに深呼吸をして自分を落ち着けた。しかし、歩いている時はいい。信号待ち等立ち止まった時が困る。淳哉が無意識か、手に込める力が変わるのも敏感に感じるし、淳哉も会話の合間に、正子の方を向いたりする。しかも人混みはもっと困る。自然と皆が密着してしまう。距離を取りたくても、そんなスペースが無い。

「何考えてるの?」

淳哉が、一回も目を合わそうとしない正子の顔を少し覗き込む。とっさに少々の後ずさりをして、何とか距離を保つ正子。

「思ってたのと違ってた?俺」

顔を知っていたのだから、返事に困る。正子は首を傾げ、返事を曖昧にした。

「まーこはね・・・、思ってた通り」

その言葉に驚いて、思わず淳哉の顔を見てしまう正子。

「あっ、やっとこっち向いてくれた!」

一瞬だけ見えた淳哉の顔が、やけに嬉しそうに笑っていた。その途端、待ち合わせで心配していた自分の頭の中の全部が、本当に馬鹿馬鹿しくて無駄な時間だったと思い知る正子だった。そう思うと同時に、今度は繋いだ手からは体温を感じられ、緊張の中にも心地良い安心感を覚えた。

 駅から5分程歩いて、一軒の居酒屋の前で淳哉は足を止めた。

「ここ」

その店の前には、大きなざるにエビが並べてあり、焼き鳥の様に外売りもしている様だった。大きないけすには魚が泳いでいて、のれんには『割烹居酒屋』と書かれていた。

 月曜の夕方5時過ぎで、まだ客はそう多くなかった。静かな店内の奥にあるテーブル席を淳哉は選んで座った。

「何飲む?ビール飲める?」

頭をこくりと頷かせると、おしぼりを持って来た従業員に、さっそくヱビスの瓶ビールを頼む。この辺のテンポは、さすがサービス業だと思える程無駄がない。

メニューを見ながら淳哉が聞いた。

「嫌いな物ある?」

向かい合っている席に座っているが、メニューが間にあって 正子には助かっていた。

「何でも食べられます」

「じゃ・・・好きな物は?」

「んん・・・任せる」

そう言ってから、一つだけ思い出して正子が付け足した。

「あっ、辛い物 苦手」

「あ~大丈夫。俺も辛いの駄目だから」

ほっとする正子に、淳哉は一旦メニューから視線を外して聞いた。

「唐辛子が駄目?それともわさびとかからしも駄目?」

「唐辛子の辛さが苦手。わさびとかからしは平気だけど・・・。あっ、あとカレーも辛いの駄目」

「うわ~、分かる。俺も一緒。辛いとさ、味分かんなくない?」

「ほんと、分かる、それ」

まるで電話で話しているままの感じで正子が会話をしていると、それを嬉しそうに聞いて、淳哉が満足気に微笑んだ。

 淳哉の見立てで、お薦めを適当に見繕って注文する。すぐに運ばれてきた瓶ビールに淳哉が手を伸ばす。それを見て、慌てて正子が少し手を伸ばした。

「私・・・つぎます」

「ありがとう」

そう言ってグラスを少し傾けて前に出す淳哉。しかし、そうは言ったものの、正子の手の震えがバレてしまいそうで、内心(落ち着け、落ち着け)と自分に言い聞かせているのだった。時々カチッとカチッとグラスに当たる瓶の音を消す様に、淳哉がグラスを瓶の口にくっつけた。泡が溢れそうになるのを淳哉がすする。

「ごめんなさい。上手く注げなくて・・・」

「そんな事ない。全然平気だよ。俺も似た様なもんだから」

そう喋りながら、淳哉が瓶を傾けて正子のグラスに注ぐ。

「やっと会えたね。乾杯」

やはり目は見られない正子だった。グラスを少し当てるだけで、もう精一杯に近い。

「まーこさぁ、待ち合わせの時、すぐ俺ってわかった?」

ドキッとする。

「俺の事先に見つけてたよね?」

「・・・・・・」

「なんで分かったの?電話しながら走ってきたから?」

もう嘘は言いたくない。たったの一つもつきたくない。でもさっき会ったばかりで、今話したら『まだ嘘があったのか』って、怒らせてしまうかもしれない。言い忘れていただけなのに、上手く説明できる自信もない正子は、また口をつぐんでしまった。すると、盛り上がらない会話に 頭をひねった淳哉が、次の話題に行った。

「俺、イメージと違ってた?・・・って、これさっきも聞いたか」

あっけらかんと笑って、ビールを飲む淳哉。

「まーこはね・・・思ってた通り、優しくておっとりした感じがする」

「・・・別の言い方では、鈍くさいって言うんだけどね」

「鈍くさいって言われた事あんの?」

「あるよ・・・」

「でも、それ位のが 可愛くていいよ」

「・・・長く一緒にいると、その鈍くささがイラつくみたい」

「へぇ~。楽しみだな」

「あっちゃんて・・・変わってるよね」

「そう?どこが?」

「だって・・・私みたいなのに会いたいって言ったり、鈍くさい私にイラつくのが楽しみだって言ったり」

「そんなに変わってるかな・・・」

そこへ注文した幾つかの焼き物が運ばれて来る。串焼きの海老と、貝が何種類か盛り合わされた皿が二つ、二人の目の前に並ぶ。

「美味しそう」

思わず、そう素直な感想が正子の口から漏れた。

「だね」

淳哉はにっこりと正子の顔を見て言った。

「海老から食べよ。ここの一押しだから」

その時、ふと正子の胸に嫌な予感が走る。食べ方が分からない。しかも、きっと殻をむいたり 初デートでは食べていけない代物の様に感じる。しかし淳哉が一押しだと言う海老を食べない訳にいかない。しかも、思わず『美味しそう』と感想を口走ってしまったものだし。すると、淳哉は海老から串を抜いて、手際良く殻を剥き始めた。

「ちょっと待っててよ」

そう言いながら あっという間に殻を剥いた塩焼きの海老を、正子の皿に乗せた。

「これ食べてみて。めっちゃ美味しいから」

「ありがとう・・・」

まさか自分の分の海老の殻までむいてくれるとは、正子は予想外の展開に呆気に取られていると、淳哉が自分の分の殻を剥きながら 食べずにいる正子に視線を移す。

「あ、俺が手で剥いたから・・・嫌だった?」

まさか そんな事を気にしている訳はないのに、勘違いをしている淳哉に 正子は首をブンブンと横に振った。

「全然。やってもらっちゃって・・・」

「じゃ、何で食べないの?」

「一緒に食べようと思って・・・」

その途端、淳哉の顔が笑顔で満開になる。殻を剥き終わった海老を 正子は箸で持ち、淳哉はそのまま手で持ったまま 二人は『いただきます』と言って 同時にぱくりと口に運んだ。その美味しさに、目を見開いた顔をする正子の表情を見て、淳哉はまたにっこりと満足気な顔をした。

「どう?旨いっしょ?」

口をもぐもぐさせながら、正子が頷く。『美味しいね』と言いながら好きな人と食べる食事は、今まで自分が食べてきた食事とは 何か全く種類の違うものの様な気がする。初めての体験と初めての気持ちに、正子は心が温かくなるのを感じていた。そんな夢心地の気持ちのせいか、正子の体がふわふわとした感じになっている。

「何か、他の飲む?」

ヱビスの瓶ビール2本が空きそうになる頃、淳哉が正子に聞いた。その言葉で、正子がはっと我に返る。少し酔っているのかもしれないと自覚した瞬間だった。淳哉の問いかけに、正子は黙って首を横に振った。少し頬が赤く染まっている。

「大丈夫?酔った?」

それをごまかす様に、正子は又慌てて首を さっきよりも大きく横に振った。

「お腹いっぱいになった?もう少し入る?」

そんな会話も耳に入らず、正子はこのまま酔いが回って 家に帰れなくなってしまったらどうしようと心配していた。仁美に『正子はお酒強くないから気をつけなよ』と言われていたから 充分注意していた筈なのに、何故だろう。今日に限って・・・。いつもこの位のビールの量では何ともないのに・・・。そんな心のモヤモヤにすっかり乗っ取られた正子は、目線は一点を見つめ、難しい顔をしていた。すると知らない間に頼んでいた水が、テーブルに届く。

「お水飲みな」

淳哉の目を見ると、本当に心配そうな顔で 正子の瞳を覗き込んでいた。

「昨日、あの電話の後寝られた?」

正子は答えながら、首を振った。

「結局朝まで眠れなくて、明け方の30分位だけ一瞬寝た」

「寝不足でお酒飲むと、本当に効くよね~」

これっぽっちのビールで酔ってしまうなんてと、犯人である昨夜の寝不足を今更恨む正子。

「あと、空きっ腹ね。空きっ腹にアルコール、絶対やめた方がいいよ」

正子の記憶が昼まで遡る。昼食も、緊張で喉を通らなかったのだ。少しだけ口をつけて、結局残してしまったあの時の自分も悔やんだ。

「お昼もあんまり食べられなかったから・・・」

「え~?!時間無かったの?」

首を横に振る。

「どうして?」

「・・・緊張してて・・・」

驚く淳哉の顔が恥ずかしくて、俯く正子。すかさずメニューから 焼きおにぎりとお茶漬けにしじみの味噌汁を二人分頼む淳哉。鯛茶漬けが運ばれてくると、淳哉が正子の前に差し出す。

「ほら、これ美味しいから食べな」

「ありがとう・・・でも・・・私猫舌だから・・・」

「そうなの?じゃ、俺先にちょっと食べていい?」

熱いものを美味しそうに食べる淳哉を見ながら、幸せな気持ちになる正子。すると、淳哉がもう一度勧める。

「少し冷めたかも。フーフーしながらなら多分食べられるよ。旨いから食べてみて」

差し出されたどんぶりに入った木のスプーンを見て、初めて気付く正子。間接キスだ。このお茶漬けを食べるという事は、淳哉の使ったスプーンで食べるという事な訳で・・・。淳哉をチラッと見ると、もう淳哉は次の味噌汁をすすっていて、まるでその事に気付いてる様子もない。正子は戸惑いながらもスプーンを手に取った。一口すくってフーフーしながら、正子は勝手に一人ドキドキしていた。でも、こちらが間接キスになるだけで、淳哉には何も関係ないのだから、淳哉が気にする訳はない。そして内心ではかなり思い切った気持ちで、それを口に運んだ。すかさず向かいの淳哉が声を発する。

「どう?」

「えっ?」

味など分からない。頭の中は、同じスプーンで食べてしまったという事しかなかったのだから。しかもその瞬間、淳哉が感想を聞いてくる。一体何が『どう?』なのか。まさか間接キスした事を言っているのではないだろう・・・。そうだ。こんな小さな事を気にしているのは、きっと・・・いや絶対に自分だけだ。正子の頭が別の次元でぐるぐる回転していると、現実の淳哉が声を出す。

「旨くない?まだ熱かった?」

「ううん」

取ってつけた様に慌ててそれっぽい返事を返す。

「この出汁最高に旨くない?あと、この上の鯛と三つ葉と・・・、ちょっと貸して」

言いながらスプーンを受け取って、最高の一口になる組み合わせをすくってみせる。

「これこれ。これ最高に美味しい筈」

山盛りになったスプーンを受け取ろうとすると、淳哉が言った。

「このまま動かすとこぼれちゃうから、そのまんま口開けて」

まさか!“あ~ん”待ちの状態に、勝手に一人で戸惑っているのは正子だけで、淳哉はお茶漬けを美味しく食べさせる事しか考えていない様子だ。なかなかもじもじしている正子に、淳哉がスプーンを更に近付けてきた。

「ちょっとデカかったかな。ごめん。ちょっと頑張って口開けて」

「え・・・」

「早く!」

尻込みしている場合ではない。もうこれを食べなければ、先へは進めないのである。そう意を決した正子は口を開けて、淳哉のスプーンを言われるままに口へ含んだ。やはり少し大きくて、正子の口からこぼれ落ちそうになる。

「ごめん。やっぱ少しデカかった。でも旨いっしょ?」

口いっぱいに頬張ったお茶漬けを味わうのに精一杯で、なかなか喋れない。でも、首だけは何度も何度も頷いてみせた。

「でしょ?ほんと これ旨いんだよなぁ」

そう言って、今度は淳哉がぱくりと口へ運んだ。正子の目が点になる。間接キスだ。正子の後で食べたのだから、淳哉も間接キスだ。また勝手に驚いている正子の表情に気付き、淳哉が手を止めた。

「あ、食べちゃ駄目だった?もっと食べたいよ・・・ね?ごめん、ごめん」

そう言って、再びどんぶりが目の前に近付く。その頃、焼きおにぎりも運ばれて来る。皿に二個盛られたおにぎりを指さして、淳哉が聞いた。

「俺、これ一個食っていい?一個ずつでいい?」

そんなやり取りに、正子の酔いも段々に落ち着いてくる。


 店を出た二人は、先程と同じ様にまた淳哉が正子の手を取って歩き始めた。

「少し、散歩しよ。酔い覚まし」

新宿のネオンの明るさで、当然星など見える筈もないが、手を繋いで歩いているだけで、ロマンチックな気持ちになる。大した会話がなくても二人が寄り添って歩いているというだけで成立する時間。これが電話との大きな違いだなと 初めて感じる正子。しかし今自分がスカートをはいて、男の人と手を繋ぎながら歩いているなんて、考えただけでも信じられない。そんなくすぐったい様な気持ちの正子に 追い打ちを掛ける様に、淳哉の手が正子の手を握り直した。気が付くと、指が絡まった繋ぎ方に変わっている。きっとさり気なく“恋人繋ぎ”に変えたのに、正子はどうしても驚きをスマートに隠せない。挙動不審の正子に、淳哉は笑顔を向けた。

「もうちょっと歩ける?」

駅の西口の歩道橋の上まで歩いてきた二人は、ベンチに腰掛けた。少し高い所から人の流れを見ていると、少し不思議な気持ちになる。しかも今自分は一人じゃない。今まで普通の世間一般の人と自分はどこか違う世界で生きている様に感じていたが、まるで今日は普通の中の一人に感じられる。正子が少し穏やかな気持ちになると、淳哉が口を開いた。

「今日会えて、本当に良かった。ありがとう。結局俺の印象聞いてないけど」

正子は、再び思い出した。そうだ。もう一つ言わなければならない事があったのだ。

「私ね・・・あっちゃんの事・・・見た事あるの」

「え?!会った事ある?」

「言い忘れてたんだけど・・・」

そして、仁美が淳哉を見に行くと言い出した話。そしてそれに一緒にくっついていく事になった流れ。そしてお店で見た淳哉の印象・・・そんな事を話した。すると、恐れていた淳哉の反応は まるで違っていて、にっこり笑っていた。

「そうだったんだぁ。あの時の二人組かぁ」

「覚えてる?」

「うん。お友達の方は凄く覚えてる。でもまーこの方は、全然分かんなかった。あん時も顔上げなかったしね。でも、良かった。仕事の時の俺も見てくれて、二人で話してる時の俺を感じてくれて、今日って日が来たんだもんね。なんか全部嬉しいや」

さすがのプラス思考である。

「今度、またその友達と来てよ」

「え・・・いいの?」

「もちろんだよ。来てよ来てよ。今度はちゃんとおもてなしするからさ」

「うん。じゃ・・・友達に言ってみるね」

「うちの常連さんもさ、彼女連れて来いって 皆興味津々」

その言葉で、正子は 軽はずみに返事をした自分を後悔し始めていた。

「・・・皆・・・?」

「そう。横浜の彼女っていうだけで、俺が喋んないから謎に包まれてんじゃない?でも、クリスマスプレゼントのベストは 本当に皆に好評だった」

そんな注目の的になるのはごめんだ。自分を見て、淳哉が色々後で言われたら気の毒だ。そう思うと、言葉も急に重くなる。

「でも・・・ちょっと遠いし・・・」

急に正子の様子が変わった事に気付く淳哉。

「来たくなくなった?」

「ううん」

首を横に振るが、自然と顔は俯いてしまう。

「どうして?」

首だけが振り続けられる。

「・・・皆に紹介されたくない?」

「だって・・・」

「そっか・・・。じゃ、内緒ならいいの?」

「・・・考えとくね」

そう言って、正子はぎこちない笑顔を作った。

「もうちょっと歩こうか」

また淳哉が正子の手をすくい上げた。

 

目的地があって歩いているのか、淳哉に身を任せる様に歩く正子だった。

「まだ酔ってる?」

「もう・・・多分平気」

「どっかまで送ってった方がいい?」

その途端、今日の別れが近付いている事を知る正子。

「ううん。平気」

素知らぬ顔で必死に平常心を装う正子だった。繋いだ手と反対の手でポケットから携帯を取り出し、時間を確認する淳哉。

「あと・・・もう少しだね」

駅からの歩道がライトアップされて、ベンチに座って思い思いに過ごすカップルも居れば、会社帰りに足早に駅に向かう人達もある。月曜とあって、ベンチもちらほら空きがある。

「そうだ。この前言ってたプリクラ、今日持ってる?」

「持ってない。家に置いてある」

「な~んだ。見せてもらおうと思ったのにぃ」

「やだぁ!絶対やだ」

「どうしてぇ!いいでしょ、もう実物見たんだし」

「だって、絶対 全然違うって言うもん!」

指を絡めて繋いだ手も、段々自然になる。

「言わないから、次見せて。絶対言わないから」

淳哉の懇願を、正子の鉄壁が遮る。

「ほんと、強情だよね」

「だって・・・」

そして空いているベンチに、二人は腰を下ろした。駅に向かう人の流れに背を向けて座ると、目の前には新宿の夜景が目の前に広がっていた。

「足、疲れた?」

「うん・・・ちょっとね」

正子が足を伸ばしてみせる。いつものスニーカーなら この位歩いたってわけない。しかし今日はパンプスだから、やはり足の裏が疲れて痛くなる。

「今日はスニーカーじゃないもんね」

急に恥ずかしくなって、膝を折って つま先をベンチの下に隠した。

「次は二人で、Gパンお揃いにしよ」

俯いたまま、正子は小声で呟いた。

「似合ってないから・・・?」

「違うよぉ!」

そう言って、淳哉が正子の膝を軽くポンポンと叩いた。

「足伸ばして」

そろそろとつま先をベンチから引っぱり出す。

「これも可愛いけど・・・、Gパンスニーカーも見てみたい」

「そんな・・・ただの普段着だよ」

「今度はさ、お揃いの物買いに行かない?今日はこっちまで出て来てもらったから、今度は俺が横浜に行く」

初めてのデートが終わる前に、淳哉から次のデートの話が出るなんて、まるで正子にとっては夢の様な話である。少し信じられない気持ちで戸惑い気味な正子の顔を、じーっと見つめる淳哉。視線を感じて一回淳哉の顔を見るが、思った以上に近かった事に驚いて、またすぐ下を向いてしまう正子。何故何も言わないのかを 正子が不安に感じ始めた頃、淳哉がポツリと言った。

「キスしたい」

心臓が止まるかと思った。いや、多分、正子の心臓は一瞬止まった。体もフリーズしている中で、頭の中だけが無意味にぐるぐると回転をしている。

「キス・・・していい?」

多分瞬きもしていない。それ程身動きが取れない状態が続いている、かなりの緊急事態が発生していた。

「・・・しよっか?」

さっきよりもほんの少しだけ明るいトーンの声がする。正子は首を横に振るつもりが、口から出た言葉は違っていた。

「・・・ここで?」

淳哉が周りを見回した。

「誰も見てない」

「でも・・・」

こういう時はどういう返事をするものなんだろう。正子の頭はパニックを起こしそうだ。

「私・・・どうしたら・・・」

良く考えたら変な台詞だ。しかし正子の23年間の人生にない出来事に遭遇して、完全にノックアウトされてしまっていた。

「目・・・つぶってて」

淳哉の声が聞こえたと同時に、温かい手が正子の冷たい手を包み込んだ。本当に目を瞑って待っていたらいいのか・・・いつ目を開けたらいいのか・・・そんな心配が正子の体をぐるぐる巻きにする。しかし、そんな心配もよそに、淳哉の顔が一瞬で近付いて、軽く唇に触れた。カチコチに強張った体を、淳哉が正子の背中に手を回して優しくさすった。

「まーこ」

もちろん、見る事は出来ない。しかし淳哉の要求は容赦ない。

「こっち向いて」

少し顔を上げた正子のおでこに、淳哉が額をくっつけた。

「恥ずかしいね」

そう言って、正子の頭をくしゃくしゃとする淳哉。もう一体何が起こっているのか、自分がどうなってしまったのか まるで分からない正子に、淳哉がまた手を繋いだ。

「そろそろ行こっか」

そこから駅までどんな風に歩いて、どんな会話をしたのか、正子はまるっきり覚えてはいなかった。

 駅の改札まで淳哉が送ってくれて、改札を挟んでバイバイをした所だけ覚えている。電車に揺られ、湘南新宿ラインが大崎を過ぎて 車内アナウンスが 次が西大井だと告げた頃、ようやく現実に戻ってくる正子。たった6時間前には想像していなかった現実が今の正子を取り巻いていて、慌てて携帯を取り出し仁美にメールを打った。

『どうしよう・・・キスした』

SOSのつもりで送ったメールに、仁美からは呑気な絵文字が付いたメールが返ってくる。

『おめでとう♥』

『どうしよう。どうしたらいいの?』

『まだ一緒なの?』

『もう一人。今帰りの電車の中』

『何がそんなに問題?』

そう言われると、適切な答えがない。

『会って、手繋いで歩いて、居酒屋行って、少し酔っちゃったから外散歩して・・・キスした』

『あ~、幾つもいっぺんに来て、テンパってんのね』

『そうだ!居酒屋で、同じスプーンで食べちゃったりして間接キスもしちゃったし』

『間接キスって・・・。ここ暫く聞いてないワードだわ』

『しかも、あ~んってヤツもやっちゃったりして・・・』

『けっこうグイグイくるタイプだね』

『私、からかわれてんのかな?』

『違うでしょ。広瀬さんも、念願叶って正子と会えて嬉しかったんじゃない?』

『そうかなぁ。あ、そうそう。今度またお店に友達と来てって』

『え?!またって・・・。前行った事、それも今日話したの?』

『なんか隠せない状況になって・・・』

『じゃ、今度は正々堂々と行っていいんだ。行こうよ。私も、正子の事泣かせたら承知しないってオーラ出しておきたいし』

そのメールを読んだ正子は、電車の中だったが思わず頬が緩んでしまう。

『いつも、ありがと。でも、お店に行くのは迷ってる。その話はまた今度ね』

そんなメールのやりとりをしながら横浜に到着し、乗り換えの為に電車を降りる。すると、少し経ってから仁美からメールが届く。

『今日のお礼、メールでもいいからするんだよ』

『え?どうやって?』

『今日は会えて嬉しかったとか、楽しかったとか。可愛くね』

しかし正子の中では色んな言い訳が交錯する。手繋いでキスされて、男の人に慣れていない私をからかってるんだとしたら、自分ばっかりはしゃいだメールは恥ずかしい。

『あっちゃんから、メール来たらでもいい?』

『ダメ!これは絶対こっちから。それポイントだから。またデートしたいなって思わせるらしいよ』

しかし、正子の背中を押す力にはならない。

『今日初めて会ったのに、手繋いでキスされたんだよ。次デートしたら どうなっちゃうの?』

『別にどうもしないでしょ。きっと手は又繋ぐとは思うけど、毎回キスするとは限らないし』

『そうなの?もっとどんどん向こうのペースで進んじゃうんじゃないかと思うと心配で。あっちゃんは手繋ぐのもキスするのも大した事じゃないかもしれないけど、私には一大事だったんだから』

『だよね。でもさ、きっとむこうだって、正子のファーストキスだって分かってるだろうし、お互い初めてのキスは同じ様にドキドキしてたと思うよ』

仁美の言う様に、淳哉もそんな風に感じていたのだろうか。自分が精一杯過ぎて、淳哉の様子など覚えていない。

『きっと広瀬さんだって、正子が楽しんでくれたのか気にしてると思うんだよね。無事に帰れたかも心配してるだろうし。だから、一言でいいからメールしておきなよ』

仁美がそこまで言うなら・・・そんな気持ちで、正子は家に着いてからメールを送った。

『今日はどうもありがとう。無事に今家に着いたよ。初めて会うの緊張したけど、楽しかったです』

絵文字をつける勇気はない。しかし、仁美に言われた通り、可愛いかどうかは別にして、正子はお礼のメールを送信した。

 しかしその晩、淳哉から返事が来る事はなかった。


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