第16話 本当の姿
16.本当の姿
それから数日後、淳哉の元に有紗からの手紙が届いた。
『今日は、あっちゃんに言わなければならない事があります。
凄く怖いけど、この前あっちゃんと具合が悪いまま連絡が取れなくなった時に真剣に感じたの。失いたくない人だって。でも今のままでは、秘密にしてる事があるから どれだけ二人の時間を重ねても会う事は出来なかった。でももう、それは嫌だから、あっちゃんと普通の恋人みたいになりたいって思っちゃったから、言う決心をしました。これから話す内容を聞いたら、あっちゃんは私を軽蔑するかもしれない。大っ嫌いになってしまうかもしれない。でも、黙ってても将来の可能性が無いのなら、ほんの少しでも可能性がある方にかけてみようと思いました。
私の名前は葉山有紗ではありません。
本当の名前は山城正子です。あっちゃんと初めて電話で出会った時、実は私は出会い系の電話のサクラのバイトをしてました。春に工場の内勤の仕事を辞めて、なかなか次の就職先が決まらず、少しでも収入の足しになればと思って始めました。あのバイトは 自宅でも出来るし、何時でも出来て、話した分だけ収入になるというものでした。だからあっちゃんと繋がった時も、本名を言いませんでした。まさか こんな事になるなんて思っていなかったから。きっともっと早く打ち明けようと思えば、そのタイミングはあったのかもしれない。でも、あんなバイトをしていたなんて言えなくて。あっちゃんが私の事を『有紗』って呼んでくれる度に、本当は胸が痛かった。どれほど本当の自分の名前を呼んでもらえたらって思ったか分からない。勝手ですね・・・ごめんなさい。
さっきも書いた様に、私の前してた仕事は会社の受付嬢ではありません。あれは多分、私の憧れです。私は地味で暗くて、人付き合いも得意じゃないし、人前にも出られない・・・でも、電話のバイトをしてる時は、どんな自分にでも成れたから、憧れの職業や好きな名前になって 現実の自分を忘れる事が出来てた。
あっちゃんとこんな風になるって あの時分かっていたら、きっと嘘はついていなかったと思うけど、全部本当の事を言えていたかは分からない。だって本当の私を知ったら、あっちゃんが好きになってくれたかはわからないから。多分電話で話す声と その時の雰囲気しか見えないから、私なんかを好きになってくれたんだと思う。だけど、一つ嘘をつくと またそれをごまかす為の嘘が必要になって、嘘が重なっていく怖さを知りました。
もう一つ、大きな嘘を謝らなければなりません。前に話した、元彼の友達に乱暴された話。あれも・・・事実ではありません。でも、男の人が苦手で怖いのは本当です。気が付いた時には もう男の人を避けて暮らしていました。だから当然、今まで男の人と一度もお付き合いした事がありません。あんな嘘わざわざつく必要があったのかって、きっと思いますよね?あっちゃんに惹かれていく気持ちはあったけど、男性恐怖症で会えないって事を理解してもらうには、そういう過去があった事にしてしまおうと思ったのです。自分があっちゃんと電話でだけの関係を続けていたいから。真剣に聞いて、親身になって私の気持ちに寄り添ってくれた事、本当に嬉しかったです。22歳で一度も彼氏がいないなんて言ったら、気持ち悪がられるんじゃないかって ずっと思ってたから。
これが私がついてきた全部の嘘です。いっぱい嘘をついて大切なあっちゃんを裏切ってしまったけど、あっちゃんと話してた時に感じたドキドキや、胸の苦しさ、切なさ、嬉しかった気持ちは全部本当です。本気で笑ったし、悲しくて流れた涙も本物です。気持ちは全部本物だけど、きっと今頃 これを読んでるあっちゃんは、私の何もかもを信じられなくなっていると思います。傷付けてしまった事、本当にごめんなさい。そして沢山の優しさと愛情をありがとう。
馬鹿みたいだけど、長い髪の毛が好きだと聞いて、ショートだった髪を必死で伸ばしてみたり、Gパンとスニーカーしか履いた事ない様な私が、スカートとパンプスで少し女の子っぽくしてみたり。あっちゃんと出会ってなかったら、味わえない感情でした。
私の事なんか大っ嫌いで、声も二度と聞きたくないって位 私の存在に腹を立ててるかもしれないけど、最後に一つだけ言わせて下さい。
あっちゃんが好きです。大好きです。出来る事なら、あっちゃんとずっと一緒に居たい。もし、ほんの少しでも許してくれる気持ちがあったら、今度は山城正子として 会って下さい。お願いします。電話待っています。 山城正子』
そしてその名前の下には住所が記されてあった。
全て読み終えた淳哉は、無言で手紙を置くと、ベッドに倒れ込んだ。
正子が手紙をポストに投函してから数日が経ち、きっと淳哉に届いているだろうに、一向に連絡がない事に心を倒し始めていた。あの手紙を、淳哉は一体どう感じたのか?それが気になって気になって仕方がない。しかし、すぐに電話もメールも無いあたり、やはり恐れていた通りの受け止め方だったのかもしれないと覚悟し始める。当たり前だと自分に言い聞かせるが、手紙を送る前に話した電話が、淳哉の声を聞いた最後になってしまったと思うと、切なくて悲しくて どうにもならない思いに心を乱されている正子だった。
淳哉が肺炎で入院していた時に来た常連客が、店に入るなり 淳哉を見付けて声を掛ける。
「退院おめでとう。風邪すらひいたとこ見た事なかったから不死身だと思ってたけど、淳哉も普通の人間だったんだな」
笑いながらカウンターの椅子に腰掛ける。
「快気祝いだ。何か好きなの飲みなよ」
「ありがとうございます。頂きます」
ビールをグラスに注いで乾杯すると、客が淳哉のベストに目を留める。
「あれ?ベスト、前のに戻したの?」
「はい」
「あれ?彼女からのプレゼントだったでしょ?何かあったの?」
その目は、心配しているというより、野次馬に近い目をしていた。淳哉はすっと話題を逸らした。
「どっちのが似合ってます?」
「あっちも良かったけど、こっちもシンプルで久々に見るといいよね」
「ありがとうございます。僕もそう思って、久し振りにこっちにしてみました」
淳哉の笑顔でその話題を終わりにする。するとその時、ドアが開いて美樹が入ってくる。そして空いている席に腰を落ち着けると、真っ先に淳哉が目の前に立った。
「入院中はお世話になりました」
そう言って頭を深々と下げる。するとマスターも近付いてくる。
「いや~、手伝ってもらって本当に助かったよ」
隣の客も会話に参加する。
「やっぱいいね。お店が華やかになるっていうかさ。懐かしかったよ。美樹ちゃんのバーテン姿」
「ありがとうございます!」
にっこり笑顔を向ける美樹。
「お礼に僕から一杯ご馳走させてもらいます。いつものビールでいい?」
「え~、せっかくだからワイン飲んじゃおっかなぁ」
「マスター、じゃ給料から天引きで」
にこにこしているマスター。美樹がワインを選んでいる間に、また別の客が美樹の方に身を乗り出して口を挟む。
「美樹ちゃんだって、バイト代ちゃんと貰ったんでしょ?」
美樹は その客の方を向いて、目を見開いて手を横に振った。
「教員は公務員なので、バイト禁止なんです。だから純粋なるボランティアです。バイトなんかバレたら大変ですから」
「そうそう。無理言って助っ人引き受けてもらったんだよね」
マスターも申し訳なさそうな表情を顔一面に広げる。
「それじゃ淳哉、少々のお礼じゃ足りないわな」
「そうね」
面白がって、美樹も話に乗っかる。
「どっかのホテルのランチでもご馳走してもらいなよ」
「え~、いいのぉ~?」
「彼女とも別れたっぽいから、いいんじゃない?」
「え?・・・そうなの?」
美樹の視線に淳哉が目をむく。
「何も言ってないっすけど」
「だって、ほら」
その客が淳哉のベストを指さす。
「あ、ほんとだ・・・」
「いや、クリーニング中なんですよ」
苦し紛れの言い訳が、美樹には伝わってしまっていた。
マスターから『美樹ちゃん、送ってってあげて』と頼まれ、淳哉は夜道を美樹と並んで歩いていた。
「もう、体調大丈夫なの?」
「ああ、すっかりね」
並んで歩く隣の淳哉を見て、安心した様に微笑む美樹。
「マスターから連絡来た時は、ほんとびっくりした。肺炎になるまで、よく放っておいたよね。風邪薬とか飲んでなかったの?」
「風邪薬探すの面倒臭かったし、咳だけだから なめてた」
「また部屋ぐっちゃぐちゃなんでしょ?」
「わりぃかよ」
「彼女片付けに来てくれないの?」
「・・・・・・」
「それとも、本当に別れちゃったの?」
「・・・別にいいだろ」
隣の淳哉の顔を見て、美樹が言った。
「じゃ、私が片付けに行ってあげようか?」
「いいよ」
「勘違いしないでよ!純粋に友達としてだからね」
「分かってるよ」
淳哉の様子を窺いながら、美樹が話を続けた。
「ねぇ、覚えてる?付き合ってた頃さ、淳哉の部屋片付けてたら エッチな本が出てきてさ。喧嘩になったよね」
遠い昔の思い出話に、淳哉もふっと鼻で笑った。
「あったな、そんな事」
「私が『こんなの見てんの?』って言ったら、淳哉開き直って『男なんだから当たり前だろ?』ってさ。そんで私が『私が来るって分かってるんだから見えない所に隠しとくでしょ、普通』って言ったらさ、『隠してたけど、お前が勝手にほじくり返したんだろ?』って」
美樹の思い出話に、二人が当時を鮮明に思い出して 笑った。
「あれからは、あんな事ない?大丈夫?」
「今はもう、あんな本自体ないよ」
「へぇ~、満たされてんだ?」
「変な言い方すんなよ。あん時は若かったからさ」
美樹はまた、淳哉の横顔を見た。
「今思うとね、私も教員試験に向けて夢中だったし、学校と勉強とバイトで滅茶苦茶忙しかったしさ。淳哉に淋しい思いさせてたんだなって・・・反省したんだ。淳哉にフラれて 初めて気が付いた。それまで自分の事しか見えてなかったから」
「夢に向かって頑張ってるお前は、凄く輝いてたと思うよ。それに、どれも一生懸命で手抜きしないあたり、尊敬してたと思う」
「へぇ~」
意外だとも言わんばかりの顔で淳哉の方を向く美樹。
「別れてから、そんな事聞くとはね」
「頑張って欲しいって俺だって思ってたよ。応援してたし」
美樹はにっこり笑ってぺこりとお辞儀をした。
「お陰様で、先生になれました」
「今はどう?充実してる?」
頷いた後で、美樹が言葉を足す。
「でも、大変な事も多いよ。保護者の方達も千差万別だし、家庭環境によっても子供達の心情が様々だしね。でも、やりがいはある。成って良かったとも思ってる」
「じゃ、良かった」
その満足気な顔を見て淳哉が微笑むと、美樹がハッとした表情に変わる。
「もしかして・・・私の邪魔しない為に、別れたの?」
美樹の足が止まる。それに気付いて、少し先まで歩いてしまった淳哉が後ろを振り返りながら笑った。
「ば~か。そんなカッコイイ事するかよ」
再び歩き出し、淳哉に追いつく美樹。
「だよね~」
今までテンポ良く続いた会話が一旦小休止する。そして美樹が夜空を見上げた。
「自然消滅しかけてた関係に、あの時も こうやってお店の帰り道で淳哉が私に別れ話したんだよね」
「・・・そうだっけ?」
「覚えてないのぉ~?」
はははと笑う淳哉。
「連絡もないし、会うのは私がバイトの時だけ。何か変だな~って状態が暫く続いて なんかモヤモヤしてた頃、お店の帰り道に『もう終わりにしよう』って。で、やっぱりそういう事かぁって思ったの覚えてる。でも、何で?って聞くのが怖くて、結局聞けなかった。淳哉も言わなかったし。だけど、あれでスパッと切ってもらったから、勉強に集中出来たんだと思う。あのままズルズルしてたら、私勉強も何も手につかなかったと思う。やっぱ、何でも区切りとかけじめって大事だよね」
美樹の何気ないその一言が、淳哉の心の真ん中に入り込む。
「淳哉もあん時、私に言ってすっきりした?」
「すっきりって訳じゃないけど、確かに、仕切り直して前に進もうって気持ちにはなれたかな」
「・・・今は?」
淳哉が美樹の方を見る。その質問の真意を確かめる様に。
「彼女と・・・微妙な関係にあるんだなって、見てれば分かる」
「・・・・・・」
「白黒はっきりさせる淳哉が悩んでるなんて、かなりへヴィな問題なの?」
淳哉は自分の表情を隠す様に、夜空を見上げて重たい口を開いた。
「俺の許容範囲を確実に超えた出来事がね」
「・・・子供が出来たとか?」
「ばか!ちげ~よ」
遠い目をしている淳哉に、美樹が慎重に言葉を選ぶ。
「自分の気持ちに正直に生きる淳哉にしては、珍しいよね?自分の気持ちすら、見失ってる感じ?」
「正直・・・そうかも。怒りもあるし、悲しさもある。虚しさもあるし・・・でも、前向きに考えようとする自分もどっかにいる」
「それをそのまんま、彼女に伝えた?」
淳哉が首を横に振る。
「まだ自分の気持ち、整理できてないから」
「自分の頭の中でいくら考えても、答え出ないよ。話して吐き出すと、段々に頭が整理されて 自分の本音が見えてくるもんなんだって。そのまんまの淳哉でぶつかっていってみたら?」
ふと我に返った淳哉が、頭を掻きながら言った。
「お前にこんな話すると思わなかったよ」
美樹は笑顔で、自分の腕を叩いてみせる。
「気持ちを引き出すの、上手くなってる?」
「あぁ。先生って感じ」
美樹はあっはっはっと笑った。
「私も、元彼の恋愛相談に乗ると思わなかったぁ~」
その晩、淳哉は家に帰ってから、一度読んで手をつけないでいたテーブルの上の手紙を、もう一度封筒から出してみる。中身を読んでみる。美樹にああ言われたものの、電話する気持ちにはなれない。煙草を一本吸って、気持ちを落ち着ける。しかし、山城正子と名乗る有紗に電話でぶつかっていってみる気にはなれなかった。そしてテレビをつけて、いつもの様にベッドに横になった。
手紙を投函してから2週間が経とうとしていた。正子は震える手を必死に抑えながら、淳哉へと電話を掛ける決心をしていた。
「もしもし?」
もう電話にも出てもらえないかと恐れていたが、淳哉が無言で電話を取った。何も聞こえてこない電話に、とりあえず恐る恐る第一声を発する正子。
「・・・山城です」
初めて本名を伝える。しかしまだ淳哉の声はしない。
「手紙・・・読んでもらえましたか?」
「ああ」
ようやく淳哉の声が聞こえる。しかし短い言葉だが、ぶっきらぼうで怒っている様にさえ感じる。今更何の用だと言われている様で、更に正子の声が震える。
「ごめんなさい。やっぱり直接謝りたいと思って・・・」
「・・・・・・」
「本当にごめんなさい」
言いたい事は沢山ある筈なのに、口から出たら それが全て自分の嘘を正当化する言い訳にしか聞こえない様に感じる。
「読んでくれて、ありがとう」
「・・・・・・」
本当は淳哉の声をもう一度、せめてもう一度だけでも聞きたいと思って掛けたのに、その肝心な淳哉の声は聞こえてこない。
「どう思ってるか、教えて欲しくって・・・。手紙で一方的に伝えただけじゃ、卑怯かなって・・・」
「・・・俺、嘘大っ嫌いだからさ・・・」
覚悟はしていた筈なのに、一発目からノックアウトされそうだ。
「嘘をつき続けられる奴の神経が理解できない」
正子の中で、これで1%の望みも消えた。
「しかも、わざわざ嘘を作ってまで話すってどういう事?過去の傷だって言った作り話信じて、俺真剣に 一緒に背負ってこうって思ってたのに。馬鹿にしてるよね。人の気持ちもて遊んで」
それを聞いて、1%の望みを持っていた自分が馬鹿だったと自覚する正子だった。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって言えば、許してもらえると思ったの?そんなに俺、出来た人間じゃないよ」
「・・・ごめんなさい」
それでもごめんなさいしか言えない正子。嫌~な空気が立ち込めるが、どちらもそれを緩和しようとはしなかった。
「他にも・・・怒ってる事あったら、全部言って下さい」
この際、全部淳哉に吐き出してもらおう、それがせめてもの自分に出来る償いかもしれないと思い、正子はそう言った。
「怒ってる事?怒ってるだけじゃないよ!悲しいし虚しいし、やりきれないよ」
「・・・ごめんなさい」
「ごめんなさい、ごめんなさいって、ほんと分かってる?」
「・・・・・・」
「いきなり手紙で『私は葉山有紗じゃありません。山城正子です』って。俺、どう受け止めたらいい訳?俺が見てきた有紗は誰なんだよ?」
悲しくて、どうする事も出来なくて、また喉の奥が苦しくなって目頭が熱くなる。反射的に奥歯を噛みしめ息を止めた。
「あんた・・・誰なんだよ。俺、今誰と喋ってるの?」
その時正子は思った。1%の将来の望みを賭けて全てを告白したつもりだったが、淳哉にとっては言わないまま去って行った方が良かったのかもしれないと。どこまでも人の気持ちが分からない奴だと、正子は自分を益々嫌いになった。
「あんたの何が本当で何が嘘なのか、もう分かんなくなっちゃったよ」
さっきからの『あんた』『あんた』という呼び方が、胸に突き刺さる。前に『明日も明後日も一年後も十年後も好きだよ』と言ってくれた淳哉は、もうすっかり居なくなっていた。
「あれで嘘は全部なの?」
「・・・はい」
僅かに息を漏らして返事をする。
「それで俺に信じろって?」
「・・・・・・」
し~んと静まり返ると、正子が息を止めて喉が苦しくなっている音が聞こえるんじゃんないかと不安になる。ゆっくりと息を吐きながら、正子は言った。
「・・・信じてもらいたいとは思うけど・・・無理なのも分かってます」
声が震えて、上手く喋れない。止めていた息を吐き出したと共に、瞳からも涙が溢れてくる。慌てて止めようと息を止めるが、一度関を切って流れ出した涙は、そう簡単には抑える事は出来なかった。辛いのは自分じゃない、傷付いたのは自分じゃなくて淳哉の方だ、だから自分が泣くなんて卑怯だ・・・そう自分に言い聞かせて涙を必死で止めようとする。泣いているのがバレない様に、口を覆って電話を離した。深呼吸で何とか自分を落ち着かせて、再び電話を耳に当てると、淳哉が何か喋っている。
「・・・泣いてんの?」
「・・・いいえ」
勘の鋭い淳哉に、そんな嘘が通る筈がない。暫く、淳哉が何も言わない時間が流れた。次は何を言われるのだろう、どんな言葉で罵られるのだろう。あんなに優しかった淳哉の口から、あの同じ口から冷たい言葉を叫ばせてしまった自分が 本当に悔しくて堪らなかった。正子にとっては針のむしろの様な この沈黙を、淳哉が静かに破った。
「・・・声は・・・同じだね」
嫌味なのか・・・それとも・・・。正子は息を呑んで、次の言葉を待った。
一方淳哉は・・・。ここ何週間か胸の中にあったモヤモヤを吐き出すと、ふと 美樹との会話が頭をよぎる。
『自分の事しか見えてなかった』
裏切られた自分の叫びを吐き出すと、目の前には同じ様に涙を流している人がいる事に気が付く。あの日からテーブルの上に置かれたままの手紙を、もう一度取り出す。電話を耳に当てたまま、淳哉は手紙を読み返してみる。すると、何故か今までとは違う言葉が心に残る。
「言えない辛さもあったんだよね・・・」
信じられない様な言葉が 電話の向こうから聞こえてきて、正子は首を横に振った。しかし涙が更に溢れ出す。淳哉を傷付けた自分の気持ちなんて、分かってもらわなくていいのだ。自分には言い訳する資格もないのだから。そう心では叫んだが、淳哉には届かない。
「俺・・・自分の事ばっか言っちゃって・・・」
正子は首を振り続けた。心の中では『いいの。当然だよ』そう叫びながら。
「・・・ごめんね」
さっきまでとは嘘の様に違う淳哉が そこには居た。しかしその淳哉は、今まで正子が見てきた淳哉そのままだった。
「よく考えたら、俺が好きになった中身は変わらなくて、その周りの情報が違ってただけなんだけど、だからって急に『正子ちゃん』なんて・・・そう簡単にいかないよ」
「・・・そうですよね」
一体運命はどっちに転がっていくのか、不安が膨らむ。しかし、初めて淳哉に自分の名前を呼ばれ、正子の脈が激しくなる。震える声で、正子は言葉を絞り出した。
「・・・広瀬さんの事傷付けちゃって、本当に本当にごめんなさい。謝れば許してもらえるとも思ってないです。だから・・・もう一切かけて来ないでって言うなら、本当にもう掛けません。アドレスから削除してって言うなら、そうします」
『広瀬さん』という呼び方といい、その後に続いた言葉といい、淳哉の胸には悲しさがいっぱいに広がった。
「・・・それで・・・いいの?」
「・・・・・・」
そうなっても仕方ないと覚悟して言った筈なのに、淳哉に念を押されたら 急に淋しさが胸いっぱいに広がって、正子の声が漏れる。
「だって・・・」
そう口走ったと同時に、涙が込み上げる間もなく流れ落ちる。もう止められないどころか、声を出したら絶対に泣いている事がバレてしまう。
「手紙に書いてあったのと、違うよ」
少し意地悪な言い方の中に、懐かしさを感じる。
「手紙の最後には、もし許してくれるならって書いてあるけど」
この状況で今更 手紙に書いた様に『許してくれるなら』なんて言える訳がない。それなのに、淳哉は何を言わせようというのか。
「もう一回だけ、今の正直な気持ち聞かせて、ちゃんと」
からかっているのか、真面目なのか。それとも私をもう一回叩きのめす為なのか・・・正子は震える心を必死で押し殺し、大きく深呼吸をした。
「・・・・・・広瀬さんの事・・・好きです。・・・私と・・・友達になってもらえませんか?」
人生で初めての告白だ。しかも、かなり異常な状況だ。淳哉の本心が全く分からない。
「友達か・・・いいよ」
「本当ですか?」
「嘘は言わないよ」
「・・・・・・」
「ごめん、ごめん。意地悪言った」
淳哉の笑い声だけが響く。その空気を変える様に、淳哉が話題を見つける。
「覚えてる?俳句大賞」
「・・・お茶の?」
「そうそう。昨日お茶買ったらさ、付いてて。懐かしいなぁって。読むから聞いててよ」
読み上げる淳哉は、まるで何もかも無かった様な雰囲気で・・・いや、一度ぎくしゃくしてしまった空気を 必死に取り戻そうとしているのかもしれなかった。
「どれがいいと思う?」
正子は読み上げられた何首かを聞いてはいなかった。聞こえてはいたが、ただ耳を通り過ぎるだけで 頭には入って来なかった。というのも、まるで一年前、二人が出会った時の様で、また淳哉がそこからやり直しをさせてくれている様にも感じて 嬉しくて、そんな事を考えていたからである。
「ごめん。あんまり、聞いてなかった」
「なんでよ!ちゃんと聞いててよ。もう一回読むからね」
ひとしきり二人は あれがいいだの、これがいいだの好き勝手を言い合った。すっかり元の二人に戻った様に感じた頃、淳哉が質問する。
「友達って言ったのは、俺がさっき怒ったから?それとも、俺との距離感が それ位が今は丁度良いって事?」
「友達以上は図々しいなって・・・」
「そっか・・・じゃ、本音は?」
この人は何を言わせようというのか・・・正子は硬直して、開いた口が塞がらないでいた。
「正子ちゃんの気持ち・・・聞きたい」
「気持ち・・・」
ただ淳哉の言葉を繰り返しただけで、また正子は黙ってしまう。すると淳哉が催促する様な口調でせっつく。
「手紙の最後には書いてあったけどなぁ・・・」
「あの・・・その・・・広瀬さんの事・・・好きです」
「で?」
「で?えぇっと・・・だから・・・もし良かったら・・・会って・・・いや、会うっていうか・・・」
「はっきり言ってよ」
支離滅裂の言葉を羅列する正子だが、頭の中が真っ白で、何を言っているのか、何を言おうとしているのかも分からなくなっていた。そんな様子を面白がる淳哉が助け舟を出す。
「会うのは嫌なの?」
「・・・広瀬さんが会おうって言ってくれるなら・・・」
「じゃ、友達として会えればいいんだ?」
からかう様に、淳哉が正子の気持ちを掻き回す。そしてとうとう正子が、意を決して口を開いた。
「つきあってもらえませんか?」
清水の舞台から飛び降りる気持ちで告白した正子だった。すると淳哉が、冷静な声を出した。
「約束忘れたの?」
「・・・約束・・・?」
「罰ゲーム?覚えてないの?」
まさかと思う正子の予想通りの答えを、淳哉が言った。
「広瀬さんって呼んだら、『あっちゃん大好き』って言わなきゃいけないって決めたでしょ?」
「でも・・・」
「言い訳しない!はい、罰ゲーム、素直にやって」
嘘の様な展開に正子がついていけないでいるが、そんな事お構いなしに 淳哉がどんどんリードする。
「あっちゃん・・・」
「何?聞こえない」
さっきまでの会話の後のこの状況で『あっちゃん』と呼ぶだけでも相当の勇気が要るというのに、淳哉は容赦ない。
「あっちゃん・・・」
そう声に出して呼ぶだけで、嬉しくて涙が出てしまう。
「あっちゃん・・・」
何度でも呼びたい。今までみたいに、いっぱいいっぱい名前を呼びたい・・・そう正子の気持ちが高ぶってくる。
「あっちゃん、大好き」
ドラマのヒロインみたいに可愛くスマートにはいかないが、気持ちを込めて精一杯伝えると、正子は清々しい気持ちになる。
「そんなに言うなら・・・付き合ってあげてもいいよ、正子ちゃん」
淳哉が返事を返す。わざとふてぶてしい言い方の最後に名前を呼んでくれるあたりにも、優しさを感じる。
「ありがとう」
「自分でちゃんと言ったから、許してあげる」
さっきまでの台風が嘘の様で、まるで台風一過の晴れ間の様な気持ちになる正子。
「あ、でも俺、先に一個だけ言っとく。名前、間違っちゃったらごめんね。癖で つい出ちゃうかも」
こうして淳哉と正子は 30分程度の友達期間を経て、恋人となった。