第15話 嵐の前の静けさ
15.嵐の前の静けさ
あっという間に暑い夏が通り過ぎて行った。梅雨に入った頃は もうすぐそこまで灼熱の太陽が近付いていて 存在を主張している様に感じていたのに、去って行く時は意外にもあっけない。夜風も秋を思わせる匂いと質感を肌に置いて抜けていく。淳哉と出会ったのも こんな季節だったなぁと、有紗は仕事の帰り道、夜空を見上げて思う。あれから早いもので、もう一年が経つのだ。一体このまま先の見えない迷路をいつまで迷走し続けるのだろうと思う。仁美の言う様に、正直に話す勇気がないなら 淳哉を振り回しているだけだ。淳哉の大切な人生の一年間を 使ってしまったのだと思うと、急に責任の重さを痛感し始める。でもこんな事、一年間ずっと同じ事で迷ってきた筈だ。今更また同じ所で堂々巡りをする自分に、有紗はため息が出るのだった。嘘を告白して 会う事が出来ないのなら もうおしまいにしてしまうという選択も、今となっては尚の事辛い。淳哉はこの一年間をどう思っているのか。本当にこのまま先の約束もないまま何年も 同じ状態で平気だというのか?きっと淳哉に聞いたって、答えはいつも決まっている。会った事もない人と電話の恋人なんて、世の中に他に存在するのだろうか。有紗は携帯を手に取り、メールを打った。
『あっちゃん。あっちゃんと出会ってからもう一年が経つね。この一年間、すっごく楽しかったし、すっごく幸せだったけど、一つお願いがあります。私の事を電話の恋人って言ってくれてるけど、これからはそれに縛られずに、色んな出会いを楽しんで下さい。そしてもし いいなぁと思う人が現れたり、誰かに告白されたら、私の事は気にせず その人との将来を考えて下さい』
今すぐ別れるという選択は辛すぎる。だけど会う事も難しい。そんな有紗が考えついた苦肉の策だったが、卑怯な自分だとも思う。そんな葛藤を呑み込んで、有紗はそれを送信した。
バーノスタルジックでは、今日も常連客がカウンターを埋める。カップルや仲間と一緒に来てる者もいるが、皆一人で来て この店で顔見知りになった人達が大半だった。夏の思い出話も飽きた頃で、皆話題に飢えていた。カウンターの中で接客中の淳哉のズボンの後ろポケットが震える。会話の切れ目を見付けて、淳哉は厨房のある奥へと入り、携帯を確認した。
有紗からのメールを読んだ淳哉は、どことなく心ここに在らずで 視線も宙を彷徨っていた。
「これ、ロックでおかわり頂戴」
そうオーダーされた言葉すら聞き漏らしてしまう。
「あつ君。聞いてる?」
その言葉で現実に戻ってくる淳哉を、話題に飢えた客達がもて遊ぶ。
「恋でお悩み中なら、相談に乗るよ」
「やめとけ。とんでもないアドバイス来るよ」
「淳哉は今彼女と上手くいってんだから、悩みなんかないだろう」
「浮気がバレた時は、俺が相談に乗ってやるから。とっておきの言い訳があるんだよ」
「ろくなもんじゃないな」
皆が口々に好き勝手を言っているのを笑顔でさらりと受け流した。そしてオーダーのウォッカのロックを出すと、淳哉はまた奥へと引っ込んだ。
『どういう意味?それって別れ話?後でちゃんと話したい』
そう有紗に返信をして一回深く溜め息を吐くと、気持ちを切り替えてカウンターの中へ戻った。
そんな店内も夜中の1時を回る頃には、ごく近所の客だけとなる。その中に賢の姿もあった。
「俺、フラれたのかな・・・」
賢は飲んでいたグラスを置いて、淳哉の顔を見た。
「かな・・・って?」
「メールでさ、『これからは私に縛られずに、いいと思う人が現れたら』って。これって、別れたいって事?それとも・・・何?」
賢はグラスの水滴で濡れたコースターの淵を指でなぞりながら言った。
「友達になるって・・・意味?」
「じゃ、やっぱフラれたって事?」
「そんな感じだったの?前会った時の様子とか・・・」
「・・・変わんなかったと思うんだけど・・・」
「例えば、好きな人が出来たり嫌いになったんだとしたら、もっとはっきり言うと思うんだよ。でも やんわり言ってくるって事は、何か考えがあっての事なんじゃない?」
「考えか・・・。じゃ話してみれば、考え直してもらえる余地はあるって事かな」
賢がグラスを傾けると、氷がカランと音を立てる。
「変な事聞くけどさ、最近手つないだりとかキス・・・してる?」
淳哉は一瞬賢をチラッと見てから、目を伏せた。
「・・・お互い時間が合わなくて、あんま会ってないから。でも、電話とかでは話してたし」
「女の子は気持ちが冷めると、キスを拒んだり手繋がなくなったりってサイン出すでしょ。ちゃんとコミュニケーション取れてた?」
淳哉が伏せた目を上げずにいると、賢が言葉を続けた。
「淋しかったのかな。時間が合わないっていっても、少し位なら会える時間なんて作れるもんだし、会わないでいられるって事は、自分の事その程度なのかって思っちゃったとか・・・」
俯き加減だった淳哉が、急に笑顔を作る。そして空になった賢のグラスに手を掛ける。
「もう一杯飲む?」
「もういいや。明日もあるし。お前も早く帰って電話してみろよ」
店を出たと同時に淳哉は電話を掛けた。呼び出されている有紗の電話に『出てくれ』と念じる。しかし何度鳴らしても、有紗に電話が通じる事はなかった。
『寝ちゃったの?それとも、もう電話に出ないつもり?俺、嫌われた?勝手に結論出さないでよ』
そう淳哉が送ったメールを受け取った有紗は、返信を打った。
『さっきは仕事中に変なメール送ってごめんね。ちゃんと話さないとと思うけど、今はあっちゃんと話すのが怖い』
『怖いって?俺何かした?俺だってちゃんと聞きたいよ、有紗の気持ち』
そこで暫くメールが途絶える。焦りに似た気持ちを抱え 淳哉がやきもきしていると、有紗からの着信がある。飛びつく様に電話に出ると、淳哉は真っ先に叫んだ。
「急にどうしたのぉ?」
すぐに応答はない。その沈黙から有紗の葛藤を感じ取り、淳哉が口を開いた。
「また変な事考えたんでしょ?会えないから俺に悪いとか」
いつもの様に明るく振る舞う淳哉だが、電話の向こうからの返事がない。その神妙な波が、淳哉にも押し寄せる。
「結局、俺フラれたの?もう電話の恋人、おしまい?」
有紗の胸に、息のつけない苦しい空気が迫る。そこから絞り出す様な声が、有紗の口から漏れた。
「今すぐじゃなくて・・・もし、今後 あっちゃんに」
そこまで聞いて淳哉が声を張り上げて遮った。
「おかしくない?付き合ってるのにさ、今後新しい出会いがあったら、なんて事話すの。誰だって先の事なんて分からないでしょ。電話だけだろうが、会ってようが、誰も先の事まで決まってるカップルなんていないでしょ。分からないからって、別れる心配して 今から決めとくなんておかしいよ、絶対」
何時間か前からの弾けそうで我慢していた心が、関を切った様に一気に溢れ出す。
「それとも、有紗がもう俺とじゃなくてもいいって思い始めてるの?」
淳哉の台詞が、有紗の心に染み入って冷たくする。
「違う!そんな風に思ってない」
「じゃ、やっぱり 俺に悪いって思ったの?」
「・・・だって、もう一年経つんだよ。あっちゃんの人生の貴重な一年が、私に振り回されたんだよ」
「どうして振り回すって思うの?好きな人と電話したりメールしたりって、普通の事でしょ?それが俺に迷惑掛けてる事になるの?」
「だって・・・」
「会えないって事を気にしてんでしょ?だったら、会おうよ。顔だけ合わせて、はい、さようならって、一回だけでいいから会おうよ。そしたら解決するの?」
「だから・・・」
さっきから言おうとする言葉を 淳哉に先読みされる。
「会えない理由って、有紗は男の人が怖いって事でしょ?他にもあるの?俺に嫌われるんじゃないかって思ってるとか?そのどっちもが解決する方法、俺考えとく」
「・・・ねぇ・・・分かってよ。お願い」
「やだ」
「あっちゃん・・・」
「そんなの分かっちゃったら、どんな気持ちで付き合えって言うんだよ?いつでも浮気するつもりで出会いを求めるって事?そんなの二股でしょ?理解不能だよ」
「なんて言えばいいかな・・・。だから・・・あっちゃんが次に付き合う人が出来るまでの繋ぎっていうか・・・」
言いながら自分でも悲しくなる有紗。しかし、それを吹き飛ばす様な声が電話からはみ出した。
「ふざけんなって!俺の気持ち・・・そっちのが馬鹿にしてんでしょ」
淳哉のその一言が、二人を切り裂いた。暫く空白の時が流れる。空虚で無機質な時間が充満する。
「本当にそれが、俺の為だと思ったの?」
何も言わない有紗を 淳哉がせっつく。
「ねぇ。答えてよ」
語尾の強さから、怒っているのが伝わる。淳哉の声の気迫が、有紗の声を震わせる。
「・・・今じゃなくて・・・先の事思ったら・・・」
「なんだよ・・・」
淳哉は吐き捨てる様に言った。
「人の気持ち分かんないにも程があるでしょ・・・」
完全に傷付けてしまった・・・そう確信する有紗だったが、同時に自分の鈍感さを指摘され 反論の余地も無く、ただ押し黙るしかなかった。今までにない空気が流れ、もうこのまま切られてしまうのだろうかと有紗が不安に思う程長い長い沈黙が覆いかぶさる。そして淳哉が意を決した様に言った。
「もういいよ。それが有紗のお願いなんでしょ。分かったよ。じゃあね」
ブチッと回線は一方的に切られた。
その日から とてつもなく悲しく、例えようもない暗闇が有紗の日常に影を落としたが、きっとこれで良かったのかもしれないと自分に言い聞かせる。泣きたい気持ちで心はいっぱいだったが、自分の選んだ選択だからと必死で奥歯を噛みしめた。自分の悲しさ位、淳哉が傷付いた痛みに比べたら大した事ではないと思い込ませる。もともと一人だったのだ。それがまた一人に戻っただけだ。そう自分に必死に言い聞かせる有紗だった。
あの電話でのやり取りを忘れたいが為か、淳哉は毎晩の様に友達と過ごした。週末は淳哉の部屋で朝まで麻雀、平日はお客さんと 仕事後にラーメンや飲みに行って過ごした。まっすぐ家に帰る事は一度も無かった。
そうして約一週間が経った日、賢がバーノスタルジックを訪れていた。閉店間際に顔を出す。いつものカウンターの奥の席でビールを一杯飲むと、淳哉に言った。
「終わった後、魚雅行かない?」
昔二人で良く行った居酒屋だ。
奥の座敷に二人は落ち着くと、あぐらに組み直して 賢は聞いた。
「彼女とは大丈夫だった?」
温かいおしぼりで顔と手を拭いてから、淳哉は言った。
「喧嘩した」
言ってから、はははと淳哉は笑った。
「あぁ・・・そうか」
こういう時に、ベラベラと喋らないのが賢だ。淳哉が笑ってみせたりしたので、その深刻さを察する。
「で?喧嘩して・・・仲直り出来たの?それとも出来ずじまい?」
「・・・俺がキレて、一方的に電話切った感じ」
「電話で?で・・・そのまま?それとも・・・」
言いかけた賢の言葉を遮る淳哉。
「そのまんま」
不思議そうな顔で淳哉を覗き込む賢。すると淳哉がようやくおしぼりをテーブルに置いて、賢の顔をまっすぐに見た。
「電話での仲直りの仕方教えてよ」
「なんで会いに行かないの?早く行った方がいいんじゃない?」
賢の眉間が少し動く。
「ちょっと今すぐに会いに行けない遠い所に居てさ。だから・・・」
「そうなの?」
「あぁ・・・」
お通しのしらすおろしに箸をつけながら、賢が首を傾げて考える。
「電話だとさ、相手の表情も見えないし、ごめんって言って・・・スキンシップも無理だし。それともメールのが冷静になれていいのかな」
「ごめんはいいけどさ、そもそもこの前の別れ話的なのは 解決したの?」
淳哉の目の奥に一瞬暗い影が落ちるが、無理に笑ってみせる。すると、賢がもう一つ質問した。
「いつから会えてないの?」
「いつからだったかな・・・」
ごまかすのに必死の淳哉だ。
「ま、まずメールしてみるわ。なんか悪かったな、心配掛けちゃって」
ウーロンハイをごくごくと飲んで、話題を打ち切りにしようとする淳哉だった。その流れを遮る事をしない賢だったが、店を出て 別れ際に一言残した。
「俺、いつでも話聞くから。必要なら呼び出してよ」
いつもの様に、有紗は仁美をランチに誘い出していた。今日は風が心地いいからと、公園のベンチでお弁当を広げた。
「いよいよですか?」
仁美はからかう様に言った。しかし、有紗は下を俯いたまま首を横に振った。
「トラブル発生?」
有紗から一通りの話を聞き終えると、仁美が聞いた。
「え?それって別れたって事?それとも喧嘩中って事?」
有紗はゆっくりと首を横に振った。
「でも・・・一週間連絡はない」
「微妙だね・・・。でも、それを望んでたんでしょ?」
たまに仁美は意地悪な言い方をする。しかし、それも有紗の心を見透かしての事だった。
「あっちゃんは・・・もう終わったと思ってんのかな?それとも・・・また、連絡来るのかな?」
「さぁ、どうかなぁ」
素気ない程知らん顔で、仁美はお弁当をパクつく。
「そんなに心配なら、メールしてみたら?」
「何て?」
「もう別れたんですか?それとも今喧嘩中なだけですかって」
「仁美!」
からかうのを一旦やめ、仁美は有紗の方を見た。
「何か言い残した事があるなら、連絡してみたら?」
『言い残した事』を考えてみる。しかし 心当たりはない。
「ないなら・・・心残りはないって事だよね?」
そう言われると、頷けない有紗がいる。
「だって今更、やっぱり好きだなんて言えないでしょ?あんな事言っときながら、言えた立場じゃないよね?それこそ振り回してるって事になるよ」
有紗には耳が痛い。
「じゃ・・・言い残した事はない・・・」
仁美が口に入れた一口を飲み込んでから、改めて言った。
「あともう少しでハッピーエンドだと思ったんだけどなぁ。・・・残念でした」
仁美と話せば話す程、別れが現実になっていく事を実感する。
「私からメールしたら、おかしいよね?」
「未練たらしいんじゃない?自分からお願いしたんでしょ、こういう状況になる様に」
「・・・だよね」
「もう綺麗さっぱり諦めて、今度はちゃんとした出会いをして恋愛しなさいよ。せっかく可愛くなった事だし」
「そんな急には無理だよ。それにもうイメチェンの意味ないし」
「彼との出会いは無駄じゃなかったと思うよ。ほら穴に籠ってた熊が外界に出てきた様なもんだからね。それにこんなにめんこくなったし」
半分からかう様に、仁美は有紗の頭をポンポンとした。その途端、先日淳哉に言われた言葉を思い出す。
『今目の前に有紗がいたら、いい子いい子してあげるのに』
『自分でしてね、俺の代わりに』
不覚にも涙が込み上げてしまう。すると、それを見た仁美は、お弁当をベンチに置いて、優しく有紗を抱きしめた。
毎日淳哉とメールや電話のやり取りをしていた有紗には、この音沙汰のない一週間が異常に長く感じる。仁美に言われた言葉を守って、携帯を見ないのも必死だ。しかし、昔のメールや 以前送ってくれた写メを開いて見始めると、この一年間の二人の空間が瞼の裏に広がる。初めて送ってくれた道端のコスモスの写真。満月や三日月。どれも淳哉の撮る写真は、優しさが溢れている。何度も何度も同じメールを読み返し、淳哉の香りを探す有紗。するとその画面がいきなり切り替わり、淳哉からの着信を知らせている。驚きと戸惑いと気まずさから指が震える。
「はい」
出たはいいが、有紗の声は強ばる。
「淳哉だけど」
「・・・うん」
声の震えが止まらない。何の話をされるのか怖くて怖くて堪らない有紗。
「・・・この間 怒って切ったから、後味が悪いなって思って」
「ううん」
『私の方こそごめんなさい』と切り出せばいい・・・そう頭では思うのに、口が動かない。
「・・・元気?」
淳哉もぎこちない会話と必死に戦い、肝心な言葉を言えず どうでもいい言葉ばかり出てきそうになる。しかし元気かと聞かれた有紗も答えに困る。そしてまた 沈黙が流れる。そこで思い切って有紗が口火を切った。
「この前、無神経な事言って 本当にごめんなさい」
すると、その話題を待ってましたとばかりに 淳哉が応える。
「俺も、酷い事言っちゃったし」
しかし、それ以上二人共 言葉が続かない。電話の向こうから、淳哉の咳だけが聞こえる。
「風邪ひいてるの?」
「あ・・・ちょっと前から咳出てて・・・。ここんとこ夜遊びし過ぎたから」
『夜遊び』というワードにつまづく有紗だったが、それを聞き流したフリをして会話を続けた。
「熱は?」
「どうかな・・・計ってない。ってか、体温計自体がない」
「え~っ?そうなの?」
「だって滅多に熱なんか出さないし」
そう言いながらも、咳をコンコンとする。
「遊び過ぎで罰が当たったんだろ、きっと」
どんな遊びをどれ程したら罰が当たるのだろう。今の二人の関係が曖昧すぎて、有紗は気になるが聞けなかった。
「風邪薬ある?」
「わかんない。部屋散らかってるから」
「引き初めに飲んだ方が効くんだよ」
「そうなんだぁ。今度から覚えとくよ。多分今はもうひき始めじゃないから、ダメかな」
風邪の話題では会話がもつが、それ以外となるとぎこちなさがいっぱいに充満していた。その空気に耐えかねたのか、淳哉が核心部分に触れてきた。
「俺、この間の話 よく考えたんだけどさ。これからどういうテンションで有紗と付き合えばいいか分かんなくなっちゃった」
瞳の奥にじわ~と温かい物が込み上げてくるが、有紗は必死で奥歯を噛みしめ息を止めた。母が倒れた時も、こうして涙を止めたのだった。あの日、こうしたら涙が止まる事を知ってから、もう得意になっていた。しかし、この状態での会話は、腹話術をするより難しい。
「有紗をキープしといて、他のもっといい人を探すって事でしょ。俺、そんな器用じゃないし」
「うん」
辛うじて絞り出した相槌も、淳哉の咳でかき消されてしまう。
「どうしたらいいかなぁ」
多分淳哉は白黒はっきりさせたいタイプの人なのだ。うやむやにしたり、分からないままにしておく事を嫌うのだろう。しかし今、その判断が有紗に委ねられた。当たり前だ。先日言い出したのは有紗なのだから。無かった事の様には行く筈がない。だったらこの間の意見を貫き通すしかないのだ。しかし・・・。有紗の葛藤は、結論が出ないまま時間だけを奪っていった。暫く淳哉の咳が続いた後、だるそうな声がする。
「段々調子悪くなってきたから、今日もう寝るわ。ごめん」
そう言って、最後まで咳をしながら電話は切れた。
次の朝、どうしても淳哉の調子が気になって電話を掛ける有紗。長い呼び出しの後で、寝起きの気怠い声が聞こえてくる。
「具合どう?」
咳込みが返事となる。
「辛い・・・」
「病院行ける?」
「・・・熱い・・・」
「熱あるんじゃない?」
「痛いよ・・・体中」
「どうしよう・・・お母さんに来てもらう?」
「・・・・・・」
「解熱剤は?あれば、それだけでも飲めば少し楽になるよ」
「有紗・・・来てよ・・・」
「・・・・・・」
有紗の心は大きく揺さぶられた。
「助けてよ・・・」
「救急車呼ぶ?」
朦朧とした声なのに、笑ってみせる淳哉。
「有紗仕事でしょ?行かなくていいの?」
「行くけど・・・」
「俺大丈夫だから、行っていいよ」
言い終わるのを待たずに、咳が出る。
「だって・・・」
「平気平気。じゃあね」
話してる事すら辛いとは、余程なのであろう。しかし有紗は、後ろ髪を引かれる思いで仕方なく出勤していった。しかし、ふと頭をよぎるのは、淳哉の『有紗・・・来てよ・・・助けてよ』という声だった。
仕事を一日終えて淳哉にメールする。
『具合どう?』
しかし、淳哉からの返信は一晩待っても来なかった。夜中まで待って電話を掛けるが、ひたすら呼び出すだけの一方通行だった。家で一人で倒れていたらどうしようと、気持ちだけが焦る有紗。こんな時は悪い想像力が力を発揮する。有紗の頭の中を、悪夢の様な映像が次々と占領していった。朝 淳哉が『来て。助けて』と言った時に、駆け付ければ良かったんじゃないか。こんな事態なのに、未だに自分の“会えない理由”を握りしめている自分が大嫌いになる。淳哉を好きだなんて言っておきながら、本当は自分の方が大事なんじゃないか・・・そんな自分を責める言葉が、次々と湧いて出る。朝駆けつけなかった自分の行動を後悔する有紗は、その晩眠れないまま朝を迎えた。もう一度電話を掛けてみる。しかしやはり、昨夜と同じだった。メールを送ってみるが、返信はやはり来なかった。
その晩、有紗は仁美に電話していた。
「家で一人で倒れてたらどうしよう」
「住所知ってんでしょ?見に行って来たら?」
「え・・・もし、居たらどうするの?」
「どうもしないわよ。心配だから来たって言えばいいだけでしょ」
「だって・・・」
「部屋で倒れて誰にも見つけてもらえなかったらって心配してる時に、自分がどう思われるか考えてるの?」
押し黙ってしまった有紗に、仁美は少ししてから声を掛けた。
「ま、もし倒れてても、仕事に来なければマスターさんが見に来てるだろうから、何日も放っておかれてるとは考えにくいけどね」
それを聞いて少し安心する有紗。
「じゃ、どうして電話繋がらないんだろう・・・」
「ん・・・入院しちゃったとか?病院だと携帯出さないもんね」
「病院に行ってれば安心だよね・・・?」
仁美は少し考えてから、喋った。
「でも風邪で入院って、相当だよね?子供やお年寄りなら大事を取ってって分かるけど、大人だよ?」
再び有紗の心に黒い雨雲が漂う。
「お店に電話してみたら?いるかどうか」
「いなかったら、どうすればいいの?」
仁美も悩む。
「もしお休みしてるとしても、お客さんからの電話に詳しくは話さないよね、普通。そうなると・・・お店に行って、直接話聞いてくるとか?」
「居たらどうしよう・・・」
仁美は電話を握りしめながら、頭を掻きむしった。
「あ~ややこしい!」
有紗は、心配で眠れていないクマの出来た目をこすって言った。
「あっちゃんが無事かどうかだけが知りたいんだけど・・・」
「じゃあ まずはお店に掛けてみる。休んでるかどうかが、それで分かるもんね」
「・・・ねぇ、もしお店に出てたらさ・・・風邪どうのって関係なく、私からの電話を避けてるって事になるよね・・・?」
急にまた、別の不安が膨らんでくる。
「何?仲直りしたんじゃないの?」
「・・・私とどういう感じで付き合えばいいか分からなくなっちゃったって言われた・・・」
「まぁ そりゃそうだろうね・・・。で、何て返事したの?」
「そのまま具合が悪くなって、もう辛いから切るねって」
少し考えると、仁美は潔く言い切った。
「考えてても仕方ないから、当たって砕けろよ。ね!」
その後も、有紗の迷いは続いた。
店に電話するのすら ためらわれていた有紗は、電話を一日に何度か入れてみる行動だけを続けた。しかし、淳哉と最後に話した朝から丸二日後には、その電話の電源は落とされている様で、呼び出しもしない電話になってしまった。一体淳哉はどこに行ってしまったのか。淳哉はどうしているのだろうか。電話もこのまま繋がらなければ、二人の関係は本当に終わってしまう。それとも着信拒否されているのだろうか・・・。尽きない想像と心配を抱えて、有紗は仕事と家の往復をひたすら繰り返した。そしてその間、自問自答を繰り返していた。本当にこのまま淳哉を失ってしまっていいのか。会えないまま、終わらせてしまっていいのか。もし今後淳哉に何かあっても、電話の恋人なんかじゃ、何もしてあげられる事はないのだ。23年間生きてきて、初めてこんなに大切だと思える人と出会えたのに、その人が困っていても何も出来ないなんて、そんなんでいいのか。お見舞いにだって行きたい。必要なら 傍で看病だってしたい。淳哉が居てくれたら、きっと自分の周りの景色がいっぺんに変わる。そんな事を教えてくれた淳哉に、何もしてあげられないなんて嫌だ。嫌われたっていい。可能性が1%しかなくたっていい。淳哉に会いたい。会って、ありのままの私を知ってもらおう。もう逃げてばかりいて、何もしないまま淳哉を失うのは嫌だ。
・・・・・・そこまで気持ちが明確になると、何故か有紗も心が軽くなる。少し晴れやかな気持ちにさえなるのだった。
その晩有紗は窓を開け、夜空に浮かぶ少し欠けた月に手を合わせた。
(あっちゃんに全部正直に話します。もう逃げたりしません。だから神様、どうかあっちゃんが無事であります様に・・・)
有紗が誓った月の綺麗な晩から三日程たった夜、淳哉からの電話が鳴る。飛びつく様にそれに出る有紗。
「あっちゃん?」
「ごめん。何回も電話もらってて」
「どうしたの?大丈夫だった?」
淳哉に喋る隙を与えない程の勢いでまくし立てる。
「肺炎になっちゃってて入院してた。携帯家に忘れてっちゃってさ」
「肺炎?!もう平気なの?」
「あぁ。でも、今日まで休めってマスターに言ってもらったから」
「いつ退院してきたの?」
「今日の昼間。一応お袋が昼飯とか買って来てくれて、夕方までいたから電話出来なくて」
「お母さん来てくれたんだ。良かったね」
「呆れて、部屋片付けて行った」
そう話す淳哉の声も、少し明るく感じる。
「心配したでしょ?ごめんね」
まるで入院する前の気まずさを忘れてしまった様な二人の空気感に、有紗の心が温かくなる。
「あっちゃん・・・」
「何?」
「私ね、この何日かで色々考えたの。で、やっぱり あっちゃんを失いたくないなって思って・・・会って・・・普通にお付き合い出来たらいいなって思ったの」
淳哉が待ちきれず、言葉を挟む。
「会えるの?」
「待って。もうちょっと聞いて」
そう言ってから深呼吸をして、有紗は改めて正座に座り直してから話し始めた。
「でも、私まだあっちゃんに言ってない事があったの。・・・ううん。言わなきゃならない事って言った方が合ってるかな。で、それを全部手紙に書いたから、読んで下さい。それを読んで、あっちゃんが私をどう思うか分からない。軽蔑するかもしれないし、嫌いになるかもしれない。本当に分からない。でも、とにかく読んで、もしあっちゃんが私を許してくれるなら電話下さい。反対に、もし一週間待って連絡が来なかったら、それがあっちゃんの答えだって思うから」
先程と打って変わって、ガラリと空気が神妙になる。
「どんな事?」
「・・・ごめんね。それは・・・読んでもらったら分かる」
「怖いな・・・」
「・・・私も凄く怖い。だけど、ちゃんとしたいって思ったから」
得体の知れない恐怖が押し寄せるのを ただ待っている様で、二人の間から会話が消えた。
「もしかしたら・・・これで、声聞くの最後になるかもしれない。だから・・・一つだけ言っておくね」
し~んと静まり返った電話の向こうに、有紗は独り言の様に言った。
「あっちゃん・・・今まで どうもありがとう」