第13話 脱皮
13.脱皮
今年の冬は雪が少なくて暖冬だったと口々にニュースで伝える。いつも寒さが通り過ぎるのを待ちに待っている有紗も、今年はさほど気にならなかった。それは気温の差なのか、それとも心の中にいつも淳哉がいて 心がホカホカしているからなのか 本人にも分からなかった。
春が近付いてくるのを花粉症という体で感じ、そして桜前線という開花見ごろのニュースが 有紗の心をウキウキさせた。
「お母さんをお花見に連れて行ってあげようよ」
「そうだね。どこがいいかな」
父と娘の会話も、どことなく明るい。結局一年間、有紗の再就職先も決まらなかったが、今までとはどこか気持ちが違っていた。
「お父さん、私ね、介護福祉士の資格取ろうかなって思ってるの」
「やりたい事、見つかったのか?」
「お母さんの介護 少ししてみて、自分に合ってるかもって思ったの。喜んでもらえるの凄く嬉しいし、自分が誰かの役に立ってるって 充実感もある」
「きっと、凄く大変な仕事だと思うよ。喜ばれたり感謝してもらえる事ばっかりじゃないだろうし、精神的にも体力的にもキツイ仕事だって覚悟して始めた方がいいぞ」
「そうだね。でも、一生の仕事に出来ればいいなって今は思ってる。知識や経験も、お母さんを看るのに少しでも役に立てたらいいなとも思うし。ただね・・・」
「何だ?」
「働きながら勉強して試験を受けるって事が出来るみたいなんだけど、土日がお休みの仕事じゃないんだよね・・・。それだけが 引っ掛かってる」
「そんな事気にする事ない。今は、やりたい事やりなさい。せっかく頑張ってみようと思える事見付かったんだから」
父の言葉に背中を押され、いよいよ職安に行く勇気が出る有紗だった。
それから採用の結果をもらう迄 嘘の様にあっという間だった。一年間何社履歴書を送り、何度面接を受け どこからも採用されなかった事が不思議に思えてくる位だ。
「仕事決まったの」
やはり、父の次に真っ先に知らせるのは淳哉だった。
「良かったね。いつから?」
「明後日だって。暫くは9時出社だって。段々に早番とか遅番とか慣れてもらうって。楽しみ」
いつになく弾んだ声に、淳哉も自然と笑顔になる。
「じゃ、その生活に慣れるまでは、夜中の電話も我慢だな。遅刻したら大変だもん」
「そうかぁ・・・淋しいな」
「俺も」
そう言いながら、淳哉は嬉しそうに頬が緩むのだった。
「でも、何か話したい事あったら すぐに電話でもメールでもしてくんだよ。夜中まで待ってなくていいからね」
「分かった。そうする」
「お休みがわかったら、すぐ教えて」
初出勤から一週間後のお休みまで、有紗はその日あった出来事を、まるで学校から帰った子供がお母さんに報告する様に、淳哉にメールで内容を伝えた。
『今日は初めてだから、覚えなきゃならない事が多すぎて 大変だった。いつになったら覚えられるかなぁ。体より緊張してて神経が疲れるね。まだまだ始まったばっかりなのに・・・』
そしてある時は、こんなメールを送っていた。
『今日ね、利用者の89歳のお婆ちゃんに『あんたは優しいねえ。孫みたいに可愛いよ』って言ってもらっちゃった。凄く嬉しかった。そのお婆ちゃんの為にも、他の沢山の人にも、いっぱい喜んでもらえる様に頑張ろうって思えたよ』
5日が過ぎると、こんな内容に変化する。
『今まで私は 人と接するのが苦手だから避けてきたけど、こんな風に人間と人間が助け合って、補い合って暮らしている世界があるんだなって、分かった。恥ずかしいけど、この年まで自分の殻に閉じこもって生きてきた気がする。この仕事選んで、それが今分かっただけでも良かったって思えてる』
そして一週間の勤務が終わり、明日は待ちに待ったお休みだった。夕飯を済ませ、淳哉に『明日はお休みだから、帰ったら電話しようね』とメール送ったと同時に、ベッドに横たわったまま熟睡の谷に落ちていった。
有紗が目を覚ましたのは、次の朝の6時だった。アラームがいつもと変わらずに鳴って、有紗を起こした。今が夜なのか朝なのか昼間なのか、現実を把握できずに呆然とする有紗。そして時計が示す6時という時刻が朝だという事に気が付いた時、有紗は慌てて携帯の着信を確認する。案の定、2時半~3時迄に淳哉から3回の着信がある。そして届いていた一通のメールを開けると、一言だけ書かれていた。
『おやすみ。ゆっくり休んでね』
それを読んで、有紗は枕を力の限り叩いた。
「あ~もうもうもう!バカバカバカ!なんで寝ちゃったのよぉ~!」
すぐに携帯を片手に返信を打つ。
『昨日は寝ちゃって、本当に本当にごめんなさい!声が聞きたいよ・・・』
色々打っては消し 打っては消しを繰り返し、結局この言葉に行き着いた。きっと淳哉が起きるのはお昼頃だ。それまでに、一週間分の夕飯の下ごしらえや掃除や洗濯を済ませてしまおう。意気込んで有紗は立ち上がった。今度こそは淳哉からの着信を受けられる様に、携帯を肌身離さず持ち歩いた。そして12時より少し前に電話が鳴った。待っていた淳哉からだった。
「もしもし?」
かじりつかんばかりの勢いで出た電話の声に、淳哉がびっくりする。淳哉が少し小さい声で
「おはよう」
と言うと、受話器から漏れる程の有紗の声が響いた。
「昨日ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
「いいよ。疲れてたんでしょ?大丈夫だよ。有紗は良く眠れた?疲れ取れた?」
「だって10時間ぐらい、一回も起きないで熟睡しちゃったんだよ」
「そっか、良かったね」
「あのね」
有紗が何か話し始めようとすると、淳哉がそれを遮った。
「有紗、ごめん。俺今日これから出なくちゃならないんだ」
「あっ、そうなんだ・・・」
「ごめんね。また掛けるよ」
「・・・いつ?」
「ん・・・一回店出る前に着替えに帰ってくるけど、話す時間があるか分かんないから、絶対に掛けられるのは夜帰って来てからかな。あ・・・でも、有紗が駄目か」
「待ってる。一日位寝不足でも平気」
「・・・遅刻したら大変だよ」
急に黙ってしまう有紗を電話越しに心配する淳哉。すると、珍しく半分泣きそうな声が聞こえてくる。
「だって・・・あっちゃんと話したいよ・・・」
「俺、昼間の有紗の言葉、めっちゃ嬉しかった。だから必死で後片付け済ませて店出てきた」
家に着くまでの間も惜しんで、掛けたきた電話だった。この一言で、いっぺんに有紗の心が満開になる。
「朝のメールも可愛かった」
有紗の記憶を巻き戻す時間を待つ間、淳哉が空を見上げる。
「今外出られる?」
「外?」
「月見て」
有紗は部屋の窓を開けて 身を乗り出し、夜空に月を探す。すると隣の家の屋根に隠れそうで辛うじて見える細い三日月を見付ける。
「見えた!」
「有紗の好きな三日月」
「うん・・・綺麗」
暫く二人は無言で月を眺める。
「有紗・・・」
「ん?」
「手出して」
「手?」
「目つぶって」
有紗は窓の外を向いたまま、言われるままに目を閉じた。
「手・・・繋いでいい?」
有紗の胸がどきんと大きく跳ねる。驚いて思わず目を開ける有紗。
「手繋いで、同じ月見ながら夜道散歩してるみたいな気持ちになった」
有紗は声の出し方すら忘れていると、淳哉の優しい声が続く。
「ありがと」
「・・・・・・」
「もういいよ。目開けて、手下ろして」
「うん・・・」
「ごめんね。びっくりさせて」
有紗の耳に、ガチャガチャと鍵の音がする。
「家、着いた」
「おかえりなさい」
「ただいま」
家の時計が2時20分を示している。
「さぁ、俺も着替えるし、有紗も明日あるから もう寝なよ」
有紗の胸に、引き潮が去って行く様な淋しさが込み上げる。
「・・・もっと話したい」
「嬉しいけど・・・めっちゃ嬉しいけど・・・。やばいな。俺の意志も揺らぐなぁ」
「お願い!」
「じゃ、2時半までだよ」
楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。電話を待つ10分は途方もなく長く感じるのに、淳哉と話す10分はおかしい位超特急に飛んで行く。有紗はそんな事を考えながら、時計を恐る恐る確認する。約束の2時半になろうとしていた。淳哉が時間に気が付くのを恐れて、気もそぞろになる。
「また明日から頑張ろうね」
その一言で、淳哉が時間に気が付いていた事を知る有紗。自然と喉の奥がぎゅうっと縮まって、苦しくなる。
「やだ」
「さっき約束したでしょ」
「もっと一緒に居たいよ・・・」
「有紗・・・会いたい?」
「・・・うん」
有紗の瞳から静かに一すじ涙がこぼれる。
「会おう、有紗」
「・・・駄目」
有紗は首を左右に大きく振った。
「まだ怖い?」
「・・・駄目」
淳哉は大きく息を吸って深呼吸をした。
「一週間ぶりに話して お互い気持ちが高ぶっちゃったね。今日は一旦切って、冷静になろう。それで又今まで通り メールとか電話で話そう。ね?」
距離を置いたのは淳哉の方だった。そしてその晩程、有紗が自分のついた嘘を恨んだ事は無かった。
ある晩、バーノスタルジックに 終電で帰って来た賢が顔を出す。
「おう。お疲れ」
もうカウンターにも客が二組残るだけの静かな夜だった。いつもの定位置である一番奥の席に座ると、淳哉がいつもの一杯目の生ビールを出しながら、そう声を掛ける。賢とは 淳哉がこの店で働く様になってから通ってきている客で、歳が近い事もあり、友達となった。たいてい休みの前の日には、終電で帰ってくると店に寄り、一息ついて帰るパターンだった。
その日は二杯目のビールを飲みながら、淳哉に賢が言った。
「今日、店の後 時間平気?」
「何?」
「ちょっと、話したい事あんだ。終わったら飲みに行かない?」
その流れで、二人は店を終えた後 近くの朝方までやっている焼き鳥屋の座敷の一番奥へ落ち着いた。淳哉がウーロンハイを、賢がレモンサワーをそれぞれ片手に とりあえずの乾杯をすると、一口目を飲み込んで淳哉が早速切り出した。
「どうした?話なんて」
「俺さ・・・結婚しようと思うんだ」
「そうか!良かったな」
「本当にそう思ってくれる?淳哉の本音を聞きたくてさ」
「何言ってんだよ!良かったって、本当に思ってるよ。賢だって今年30だし、愛ちゃんだって29だもんな。年齢的にもさ、良かったんじゃない?そういう気持ちになれて。俺に遠慮なんてすんなよ」
「ありがとう。淳哉が本音でそう思ってくれるなら、俺も迷わずプロポーズ出来るわ」
「そっか。なら、良かった」
淳哉はウーロンハイをもう一口飲む。
「やっぱさ、去年の夏 淳哉から愛を奪ったみたいになっちゃってたから・・・」
「それは、そん時話したじゃない。取った取られたじゃないって。二人の気持ちが惹かれ合ったんだから、そういう運命だったんだと思うって。それに賢と俺の関係も、変わらず良い友達だと思ってるよ」
「そうだけど、結婚となると一生の事になるし・・・淳哉の気持ちにわだかまりがあるなら、きちんと聞いておきたいって思ったから」
賢の真剣な眼差しに、淳哉も茶化す事なく答える。
「俺は、去年の夏に賢と話して、もう二人の事はすっきり解決してんだ。気持ちも残ってないし、今愛ちゃんと会っても 賢の彼女としか思ってない」
安心したのか、ホッと大きく息を吐く賢。
「いつ、プロポーズすんの?」
「う~ん・・・まだ具体的には考えてない。とにかく俺の気持ちを淳哉に話してからって思ってたから」
「そっか。頑張って」
にっこり微笑むと、淳哉は手元の携帯を確認する。最近では、この時間の有紗からのメールも電話も無いが、万が一掛かって来ていたとしたら よくよくの内容がある筈だからと、淳哉は仕事の後も 携帯を気にする癖がついていた。その仕草に賢が気付く。
「大丈夫?」
「え?あぁ」
「そういえばさ、彼女出来たって言ってたよね?・・・変わりない?」
「あぁ。何で?」
「あんまり彼女の話聞いた事なかったなと思ったからさ」
「・・・そうかな」
そう言いながら、淳哉は冷奴に手をつける。
「上手くいってる?」
「あぁ」
賢がレモンサワーで喉をもう一度潤してから、言いにくそうに口を開いた。
「休みの日とか・・・会ってる?最近。あんま会えてないの?」
淳哉は顔を上げて、あらためて賢の顔を見た。
「何で?急に」
「・・・いやぁ、休みの日もこの辺に居るの見掛けるし、皆も一緒に居るとこ見た事ないから 上手くいってないんじゃないかって・・・ま、外野はザワザワ言うけどさ。ちょっと心配になって・・・」
「皆そんな事言ってんだ?」
「俺もちょっと責任感じちゃって・・・気になってたから。皆も心配してんだと思う」
「賢が責任感じる事なんかないって。さっきも言ったでしょ?上手くいってるから大丈夫だって。ただ休みが合わないから、なかなか会えないだけ」
「なら、良かったよ」
「今度もし誰かに詮索されたらさ、余計な心配無用だって言ってたって言っといてよ」
その言葉に安心した賢が、にっこり笑う。
「今度紹介してよ」
「・・・あぁ」
「どんな子?」
不意の質問に、淳哉の考える時間が流れる。
「今までとはちょっと違うかな」
「タイプが?」
「いや。俺の気持ちが。ま、タイプも違うけど」
「どんな風に?」
淳哉が慎重に言葉を選びながら話す。
「・・・心にちょっと傷があって。それを一緒に抱えていきたいって思える様な子。俺の力で、何とかしてあげたいっていうか・・・そんな傷なかったみたいにしてあげたいっていうか・・・」
「俺らも段々そういう恋愛する年になってきたって事か・・・。俺もさ、結婚なんて考えると 相手の人生抱えられるだけの器が自分にあんのかって、ちょっと不安にもなるよな」
「何今から弱気な事言ってんだよ。器なんて小っちゃきゃ、でっかくすりゃいいだけだろ?今の自分の精一杯で生きてりゃ、きっと後から結果はついて来る」
賢は淳哉の顔を見て、安心した顔で笑った。
「お前はいいなぁ、いっつもプラス思考で」
「そうだよ。俺の取り柄はプラス思考ぐらいなもんだからな。だって心配したって解決しないだろ?」
「そりゃそうだけど」
「運命には逆らえないとしても、気持ちで負けんのだけは嫌だから」
淳哉はウーロンハイを一口飲んで、今度は口調を少し強めた。
「間違えた。気持ちで運命をも変えてみせるって思ってる」
「相変わらず、熱い男だな、お前は」
焼き鳥の串で賢は淳哉の方を指した。
「俺も、今度の子はそんぐらい気合入ってるから」
淳哉がどや顔をしてみせると、賢は腕組みをしてくっくっくっと肩を震わせた。
「何笑ってんだよ。賢もそんぐらいの気合でいけよ」
賢は笑いを堪えながら敬礼をした。
有紗は仕事の後、仁美と買い物に来ていた。仕事帰りの仁美に付き合ってもらったのだ。
「買い物って何の?」
「・・・服」
「服?いつ着る用の?」
「え?いつって・・・普段」
「何で急に?」
「ちょっと・・・スカートとかもはいてみようかなと思って。でも、全然どういうのがいいのか分かんないし、見てもらおうと思って」
「スカート?本気?」
「えっ・・・?似合わないかなぁ・・・」
「う~ん・・・。全くイメージ出来ない」
いつもジーパンにTシャツ、パーカーという装いの有紗に、仁美は頭の中でスカートを履かせてみる。不安そうな顔の有紗に、思わずプッと吹き出してしまう仁美。
「意外に面白いかもよ」
「面白いって・・・」
更にへこむ有紗を面白がって、仁美がからかった。
「広瀬さんとの初デートに向けてですか?」
「違うって!そんなんじゃないって!」
「ま、いいよいいよ。任せておきなさいって。トータルコーディネートしてあげるから」
デパート内の何軒かの洋服屋をはしごして、まるで着せ替え人形の様に何着と数え切れない程の洋服を試着する。
「スカートの時は膝がくっつくように歩くんだよ。ぬぼーっと立ってたら駄目なんだよ」
膝上丈のスカートを試着していた有紗が、慌てて足に力を入れる。
「慣れるまでは、膝が隠れるロングの方がいいかなぁ・・・」
「なんかスースーして・・・。私も長い丈の方が安心かな」
「でも男受けするのは、やっぱ足が見えてる方がいいのよ」
「いいよ、そんなの。そんなつもりじゃないもん」
「広瀬さんはどっちの方が好きなの?」
「・・・女の子らしい方が好きみたい」
「う~ん・・・」
腕組みをして仁美が迷う。
「よし!じゃ、ロングのワンピにしよ」
結局小花柄のワンピースとそれに似合うトップスを選ぶ。店を出た仁美が、まだ物色している様にキョロキョロしている。
「あとは、靴だよね・・・」
「え?靴も?」
「そりゃそうでしょ。あれにスニーカーはないでしょ」
「そう?でもさ・・・履いてる人いるよ。スカートにスニーカー」
「それは、小洒落たスニーカーね。あんたが履いてる様なのは、残念ながら今日買った服には合わないね。ヒールがあるやつ、履いてみたら?」
「ヒール?履いた事ないから・・・歩けるかなぁ」
「冠婚葬祭とか、どうしてんの?」
「パンプス。あんまりかかとが高くないやつ」
「グラグラしない 歩きやすい物もあるから、そういうの探そ」
靴屋で、人生で初めてかかとの高い靴を履いて歩いてみる有紗は、まるで歩きたての小鹿の様にぎこちなくて、仁美はお腹を抱えて大笑いした。
「だから言ったでしょ・・・」
へこむ有紗を何とかなだめ、かかとのあまり高くない でも女の子らしいデザインの靴を仁美が探し出し、それを購入する。店を出てから、仁美が思い出した様に確認する。
「もちろん、あの靴に靴下NGだからね。分かってるよね?」
「・・・ストッキング?」
「持ってる?無きゃ、買うんだよ」
エスカレーターで一階に下りてくる二人が 出口に向かって歩いていると、化粧品売り場の綺麗なお姉さんが声を掛ける。
「今、こちらの口紅 新色が出ましたので、試して行かれませんか?お肌の色が綺麗に見える効果があるんですよ」
「はい。試してみたいです」
仁美が即座に食い付いた。仁美は好奇心が旺盛だなぁ等と 感心していると、仁美は有紗をお姉さんの勧める椅子に座らせた。あれよあれよという間に、美容部員のお姉さんのペースにはまる。
「せっかくですから、お化粧してみましょうね」
「はぁ・・・」
「普段はあまりメイクされませんか?」
「日焼け止めと口紅くらい・・・」
「ファンデーションはされませんか?」
「あ・・・なんか、粉みたいなのパタパタってはたく位です」
「では今日は、せっかくですから下地からさせて頂きますね。きっと普段の仕上がりとの違いをご実感頂けると思いますよ」
お姉さんの手が、話しながら手際良く動く。初め顔半分だけ作り、今までとの違いを見せる。その後、もう片方も仕上げていく。出来上がった顔をまじまじと眺め、仁美が感心する。
「へぇ~、同じ人間とはね・・・」
「どういう意味よ」
「やり様でこんなに違うんだなぁと思って」
美容部員さんが解説する。
「もともとお肌がお綺麗だから、コンシーラーも使いませんでしたし、ルースパウダーも、本当に仕上げに軽く乗せただけなんですよ。見た感じも、厚塗り感ないでしょ?」
仁美に質問が飛ぶ。
「はい。ずっごい綺麗。別人みたい」
結局お姉さんと仁美に乗せられ、化粧品まで購入する有紗。デパートを出てから、有紗は仁美に本音を聞いた。
「ねぇ、本当にこれ、おかしくない?私に似合ってなくない?」
「慣れてないだけだよ。綺麗、綺麗。これで合コン行ったら、結構モテちゃうかもよ」
「からかわないでよね・・・」
「髪の毛も徐々に伸びてきたし、あとはどんな準備が整ったら会えるんだろうね」
「・・・・・・」
立ち止まって、今日の買い物の手提げ袋を眺める有紗。
「どうしたの?」
「ううん!」
帰り道、有紗は(自分は一体何をしているんだろう)と考える。何の為のスカート?何の為のヒール?何の為の化粧品?少しでも淳哉の好みに近付きたいだけなのか・・・。それとも、会わないと言いながら、いつかは会おうとしているのか?その為の準備の買い物?・・・あんな格好したからって、受付嬢の様な華はない。淳哉がイメージしてるお嬢様の様な私に似せれば、会っても気に入ってもらえると思っているのか。
買い物していた時の高揚した気持ちとは打って変わって、どんよりと曇った心を抱えて玄関を入る。父はもう帰って来ているようだ。玄関の靴がそれを物語っていた。しかし今日はもう一つ靴が脱いである。誰か来ているのか・・・。
「ただいま~」
居間に顔を出すと、そこには兄の姿があった。
「お兄ちゃん。来てたの?」
しかし、振り向いた父と兄の目が見開かれ、口まで半分開いたままだ。
「どうしたの?お前、その顔」
「え?」
食器棚のガラスに何となく映った自分の顔を見て、思い出す。そうだ。普段しないバッチリメイクのままだった事を、すっかり忘れていたのだ。
「友達と買い物に行ってて、デパートの化粧品売り場でやってもらったの。友達がやれやれって面白がってさ・・・」
黙ったままの二人に、有紗は恐る恐る聞いてみる。
「・・・変?」
「誰かと思ったよ。変じゃないけど・・・気持ち悪いな」
「それって、変より悪いじゃない」
「いや、そうじゃないけど・・・見慣れないから気味悪いっていうか・・・」
助けを求めるかの様に、兄が父に視線を投げる。すると父は心配そうな顔をして言った。
「友達って誰だ?この前お姉ちゃんが言ってた好きな人だか何だか、その男がこういうのしろって言うのか?」
兄の視線が一気に有紗に戻る。
「違うよ!仁美だよ。仁美と一緒に買い物に行ってたの!」
「お父さん、今のまんまのお前を好きになってくれる様な人がいいと思うぞ」
「何の話してんの?!好きな人とか、そんなんじゃないから!もうやだ!」
その場から逃げる様に、部屋に飛び込む有紗。スカートを買ってみたり、お化粧してみたり、ほんの少しだけでも今より綺麗になりたいって思っただけなのに、それが似合わない自分が嫌で、悲しさで胸がいっぱいになる有紗。そのままお風呂に入って顔を洗い流すと、いつもの冴えない自分に戻る。シンデレラが12時を回って魔法が解けてしまった様な、そんな気持ちになる有紗だった。
明日仕事が休みの有紗は、淳哉との夜中の電話を楽しみにしていた。・・・筈だった。しかし今日の帰宅後の家族の反応で、すっかり気持ちが落ち込んでしまっている有紗だった。
夜の11時ごろ、淳哉からのメールが入る。
『明日仕事休みだよね?起きてられそう?電話で話せたら嬉しい』
有紗の心が揺れる。夕方の仁美の言葉が甦る。
『あとは どんな準備が整ったら会えるんだろうね』
有紗からの返信がないまま、淳哉は店を出るとすぐに有紗に電話を掛けた。暫く鳴り続けた電話に出たのは、淳哉が諦めて切ろうとする寸前だった。
「ごめん!寝てた?」
「大丈夫」
「良かったぁ」
淳哉が『一週間お疲れ様』とか『今週は何か変わった事あった?』等と聞くが、取り立てて特別な返事もない。そしてまた淳哉が言った。
「そっちも雨降ってる?今こっち降ってる。聞こえる?傘のポツポツって音」
有紗が耳を澄ますと、かすかに聞こえてくる雨粒の音。
「ほんとだ」
し~んと静まり返った二人の間に、淳哉が会話を送り込む。
「有紗、今日泣いた?」
「え?どうして?」
「雨降ってるから・・・」
「え?」
「声、元気ない」
「・・・・・・」
「疲れてるだけの時と、声違う。何かあった?」
声だけでいつも感じ取ってくれる淳哉の優しさに、ふっと心が温かくなる。
「声聞いたら、元気になった」
淳哉も自然と笑顔になる。家に着いた淳哉と会話を続けていると、ふと声が遠くなる。
「もしもし?声、遠くなった」
「あっ、ごめん。今着替えながら話してるから、スピーカーにしてんだ」
有紗が納得していると、今度は淳哉が言った。
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくるから、そのまんま待ってて」
スピーカーのまま行動する淳哉の部屋での生活音が、有紗の耳に届く。まるで近くにいる様な錯覚に陥りそうになる。暫くして、ガチャンとかバタンとかの音の後、電話がいつもの状態に戻り 淳哉の声が戻ってくる。
「ごめんね。有紗に一分でも早く電話しようと思って 慌てて店出てきたから、トイレ我慢してた」
ふふっと笑ってしまう有紗。そして有紗が今度は聞いた。
「部屋、きれい?」
「めっちゃ汚い」
「え~っ?」
「男なんて、そんなもんでしょう?」
「そう?」
「有紗は?掃除とか片付けとか得意?」
「得意かどうかは分かんないけど、たまに思いっきりやると すっごく気持ちがいいよね」
「有紗がやってくれればいいから、俺はだらしないの直さない」
「え~?」
「ゴミ屋敷じゃぁないよ。ゴミはちゃんと出してる。だけど、脱ぎっぱなしの服とか洗濯物そのまんまになってたり。本とか雑誌とかゲームとかも床に散らかってる」
「お母さんは時々来て片付けたりしないの?」
「お袋なんか来ないよ。前に、家賃滞納した時に来ただけ」
「家賃 滞納?!」
「俺さ、お金持ってると使っちゃうたちなんだよね。だから今は給料振り込みにしてもらって、家賃も引き落としされる様になってる」
何故この人は 自分の欠点をさらっと人に言えるのだろうと、有紗が不思議に思っていると、淳哉が言葉を付け足した。
「金にだらしないって思った?嫌われちゃうかな。有紗はしっかりしてそう。貯金とかもちゃんとしててさ」
「私は使い道がないだけ」
「へぇ~。女の子だから、洋服とかアクセサリーとかバッグとか買い物しないの?」
部屋の隅の今日買って来て開けられていない紙袋を見つめる。
「たまにはするけど・・・」
有紗が息を大きく吸って、質問をした。
「スカートにヒール履くのと、GパンにTシャツの子と、あっちゃんはどっちが好き?」
「どっちが好きか?う~ん、どっちでも似合ってればいいんじゃない?」
「じゃ、ミニスカートとロングはどっち?」
「え~?難しいなぁ。似合ってればいいよ、どっちだって」
「じゃ、ハイヒールとスニーカーでは?」
「あっ、ハイヒールは駄目だ。俺背高くないからさ、俺よりでかくなられたら ちょっと悲しい。少しかかとが高い位ならいいけど」
「じゃぁさ、バッチリメイクとすっぴんに近いのとどっちがタイプ?」
「今日はやけに質問攻めだね。どうしたの?」
「あっちゃんの好みのタイプ、聞きたいから」
「俺は有紗みたいなのがタイプ」
「そうじゃなくて、本当に知りたいの」
「どうして?俺の好みに似せようとなんてしなくていいんだよ。有紗はそのまんまでいてよ」
夜の父の言葉が甦る。しかし、有紗は言い返した。
「嫌なの。今のままの自分じゃ嫌なの」
「どうして?」
「もっと・・・」
そこまで言いかけて、有紗は口を閉じた。
「あっちゃんの今までの彼女は、皆どんな感じだったの?可愛い感じ?綺麗なタイプ?やっぱり皆髪も長かった?ミニスカートとか履いてた?それとももっと大人な感じ?」
延々と続きそうな質問に、淳哉は溜め息をついてから一言言った。
「そんなに気になる?俺がどんな人と付き合ってたか。俺は今 有紗の事が好きって、それだけじゃ駄目なの?」
その言葉に連動して、有紗の目にじわじわと涙が滲んでくる。
「今は好きだけど、明日は分からないもんね・・・」
「もう!何言ってんの!明日も明後日も、一年後も十年後も好きだよ」
「嘘だ。そんなの分かんないじゃん」
「嘘じゃないよ。今の俺は、その位の気持ちで好きだって言ってんの」
「今までの彼女にも、そう言ってきたんでしょ?でも、別れちゃってるじゃない」
すると淳哉が急に黙った。ひるんでいる有紗に、少しさっきより低い淳哉の声が聞こえる。
「今までこんな事、言った事ないんですけど」
急に静まり返る電話。二人のどちらとも、口を開かない。時計の針の音が聞こえてきそうな静寂を最初に破ったのは、有紗だった。
「こんな事ばっかり言ってたら、かえって嫌われちゃうね・・・」
淳哉がまだ何も言わないので、有紗が言葉を続けた。
「私、馬鹿みたいだね・・・」
有紗の視線の先には、今日の買い物袋があった。気が付くと瞳からは一粒涙がこぼれ落ちていた。すると、そこでようやく淳哉の声がする。
「有紗・・・自分をもっと愛してあげて」
そして淳哉は静かに続けた。
「今さ、自分で自分を抱きしめてあげてよ、ぎゅって」
「・・・・・・」
「俺がいいよって言う迄、ちゃんとやって」
戸惑い気味に有紗は自分の両腕で自分を抱きしめる。初めはぎこちなく、変な感じがする。しかし暫くすると、段々とお母さんに抱きしめてもらった様な安心感が込み上げてくる。
「もっとちゃんと、ぎゅーってしてあげて」
電話で淳哉に導かれるままに、有紗は自分の腕に力を込めた。少し自分を愛おしく感じ始める。すると、淳哉の声が耳の奥でそ~っと聞こえる。
「俺が有紗をぎゅ~って出来ない代わり」
有紗の体が一瞬硬直する。しかしそれは今までの様な緊張ではない。有紗はこれまで、抱擁がこんなに自分を安心させてくれる事を知らなかった。こんなに愛おしく感じるのだという事も知らなかった。ただ人との距離が縮まる事を怖いとしか思っていなかったのに、今日は少し違っていた。
「悲しくて、淋しくて、不安になった時は、また自分で自分を抱きしめてあげるんだよ」
第13話、お読み頂きありがとうございました。
有紗の脱皮の時が近づいているようですが、いかがでしたか?
ゆっくり進んでいく二人、そして有紗の歩調に合わせながら共に進もうとする淳哉を皆さんは、どう感じていますか?