ウミガエリ
話されない怪談は存在しない、というのは、一体誰の言葉だったか。
話すことで力が宿り、体験する者が増えていくというのは、日本に根付く言霊信仰の考え方だ。存在を知って初めて体感し、恐怖を感じる。故に怪談好きの間では、知られた常套句がある。
曰く怪談は、感染する――と。
お盆休み、Aさんは数人の友人と旅行に行った。宿に到着した頃には昼の三時を回り、自然と「今日は休んで、明日から目一杯観光しよう」ということになった。浜辺の旅館に二泊三日。幸い時間に余裕はあった。この炎天下だ、海に行くのもいいだろう。地元は近場に海がないので、こういう機会にしか遊べない。
皆気が置けない仲の者ばかりで、荷物を解いてからは各々好きに寛いでいた。Aさんは大きな窓の側に荷物を広げていたが、空は今にも泣き出しそうで、気分はちっとも上がらなかった。せっかくオーシャンビューの部屋をとったのに、これでは高額な料金がもったいない。せめて明日以降は晴れてくれることを祈ろう、そう思った。
五時を過ぎて、そろそろ部屋割りなんかを決めようかと考えていると、一人が「そういえば大学の時の話でさ……」と、唐突に怪談を始めた。
それは彼女が通っていた大学の話で、夜のキャンパスに肝試しに行ったきり、音信不通の友人がいるという話だった。途中まではチャットグループなどで現場実況めいたこともしていたが、深夜二時を過ぎるとそれがパタリと無くなった。そしてそれきり彼は行方不明になった――そんな内容だ。皆きゃあきゃあと怖がって、「実はあたしも」「それなら私も」と、次々に体験談を語り始めた。思い出せば以外とあるもので、とうとうAさん以外の全員が一つは話を終えている、ということになった。Aさんは始終俯いて、無言で聞いているばかりだった。
「Aは何かないの?」
当然の成り行きで誰かが言った。
「うーん、私かぁ……」
Aさんはしばらく考え込んでいたが、急に席を立って、海に面した窓にカーテンを引いた。
ジャッ。
小さな音がする。
「あるにはあるけど……」
あまり乗り気でないが、ここで話さないのは場の雰囲気を壊すだろう。Aさんはしぶしぶ口を開いた。Aさんの突然の行動に驚いていた友人達も、話が始まりそうだと分かると途端に黙った。
「皆全然反応しないから、多分私にしか見えてないと思うんだけど」
Aさんの述べた不気味な前置きに、一同の緊張が高まる。外ではジャッ、ジャッ、という音が続いている。あれはカーテンを引く音ではなかったか。誰かが唾を飲む音が大きく聞こえた。
「さっきからずっと、窓の外で女の人がこっち睨んでたんだよね」
一人が喉の奥で悲鳴をあげた。一斉に窓に視線が集まる。それに応えるように『ジャッ』と砂を踏む音が響いたのを、今度は全員が聞いた。